遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

狩野幸信筆 琴高仙人図(三幅対)            

2020年06月20日 | 古陶磁ー大皿・大鉢・壷

前のブログで、琴高仙人の大皿と銅小花瓶を紹介しました。

今回は、これらの元となった琴高仙人の絵画です。

相当昔に購入した品です。今からすれば法外な値段でした。当時、狩野派というだけで、高値が付きました。こちらも、ずぶの素人で、業者の言うまま(≫≪;) ところが、その後、床の間の無い家が増えたせいもあり、掛軸の値は古伊万里以上に急降下。今なら、10~20分の一が相場でしょう。 トホホ(^^;

気をとりなおして、床の間に掛けてみました。

狩野幸信筆 『琴高仙人図』、紙本墨画淡彩 47ⅹ165㎝、3幅、江戸中期。

狩野常川幸信:享保2年(1717)-明和7年(1770)、江戸時代中期の画家。浜町狩野家三代目。

 

典型的な狩野派の絵です。多くの狩野派の絵師が、琴高仙人を描いています。伝統的な画法を守ってきた狩野派ですから、画風に大きな違いはありません。

狩野派らしい線描で描かれた、謹厳実直な琴高仙人です。

 

        中央図

 

          右図

 

          左図

 

琴高仙人もなかなか迫力があります。

 

 

琴高仙人は人気が高く、その図柄は、絵画、陶磁器に多く見られます。また、鋳造品、木彫品の置物や香炉もあります。

これらをみると、琴高仙人には2タイプあることがわかります。一つは何も持たずに鯉に乘るもの、もう一つは、巻物や書物を手に鯉に乘る仙人です。

今回の品は、後者です。琴高仙人が、智者であることを表しているのでしょう。

 

琴高仙人の表情は、生真面目。

 

鯉も一生懸命泳いでいます。

 

水や波の描き方も伝統的ですね。

 

琴高仙人図は、室町時代以降、好んで画題として取り上げられました。特に、漢画系の狩野派は、大家の手本を連綿として模写する粉本主義をとっていたので、琴高仙人のような古典的画題は、大きな変化なく描き継がれてきたのでしょう。

古伊万里の名品、「型物 琴高仙人鉢」や「芙蓉手琴高仙図七寸皿」は、今回の狩野幸信の琴高仙人図が描かれたのと同じ頃(江戸中期)に作られた品です。

けれども、この掛軸と古伊万里皿では、琴高仙人や鯉の描かれ方に大きな違いがあります。狩野派掛軸が古い琴高仙人図を踏襲しているのに対して、古伊万里皿では、仙人や鯉の描き方が実にユーモラスです。江戸時代中期には、古典的図柄をアレンジしたひょうきんな琴高仙人が生まれていたのです。

その理由は明らかではありません。当時の絵画は上流階級の注文品、それに対して、古伊万里は、高級品ではあっても、数作られた実用品です。少しホッコリできる絵柄が好まれたのかも知れません。

伝統を守ることは重要です。しかし、年月が経つにつれ、時代のフィーリングと離れていく事は避けられません。生成期にあふれ出ていたエネルギーも、守るだけでは次第に薄れ、枯れてゆきます。

これは、何も絵画に限ったことではありません。

能などの伝統芸能が、将来、博物館入りしないために、伝統を守りながら、新しい精神を注ぎこむ・・・・伝統と革新を、琴高仙人が空から問いかけているかのようです。

 

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アジサイ花火

2020年06月18日 | 故玩館日記

梅雨の晴れ間に、ふと見まわしてみると、いろんな花が咲いています。

特に、木の花は、毎年、冬に庭師さんが剪定した後、順に咲いてくれるので、園芸に関心の薄い私向き(^^;

 

なぜか毎年、山よりも1か月遅れて咲くヤマボウシ。

 

その下の名前忘れ花(^^;は、相変わらず可憐。

 

アジサイは、全く、遅生向き。庭師さんの管轄外ですが、ほうっておいても、どんどん咲きます。

 

 

ちょっと大きくなりすぎ(^^;) 今年こそ、刈り込まねばなりません。

 

ところが・・・

30㎝ほどのポットに、打ち上げ花火が4発、あがっています。

これは、春先に、近くの園芸趣味の人からいただいた物です。その時は、小さな芽が数本出ていただけでした。あまり関心がないのでそのままほうってありました。

気が付いたら、こんなに満開。みずみずしい緑色の茎がタケノコのように土からひゅっと15㎝ほど伸びて、その先に、ポンポンと大玉の花。

これは、一種の寄せ植えでしょうか。

アジサイは挿し木なのでしょうか。

 

園芸も奥が深そうです(^.^)

 

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金工22 琴高仙人銅花瓶

2020年06月16日 | 金工

先のブログで、琴高仙人の古伊万里大皿を紹介しました。

今回は、琴高仙人の銅花瓶です。

相当昔に入手した品です。小品にしては、かなり高価でした。

       幅 4.6㎝、高 11.0㎝

 

反対側。

 

仙人というより少年に見えますが、やはり琴高仙人でしょう(^.^)

 

反対側は、波濤のみ(何かいるようにも見えますが)。

 

象耳がついて、これは仏花器でしょうか。

仏花器なら、値はつかない(^^;

しかし、仏花器にこの図柄なら、ある意味、珍品かも、と気をとり直しました(^.^)

 

例によって、掌の上に転がしてみると、それなりに楽しめます。

 

底をパテで埋めたのは、水漏れを止めるため(^^;

昔のことではっきりとは覚えていませんが、花を入れた記憶がかすかにあります。

 

あらためて、野の花を入れてみました。

嫌われ者のドクダミですが、空中へ舞い立とうとする琴高仙人に手向けるには案外ふさわしいのかもしれませんね(^.^)

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大皿1 伊万里染付琴高仙人図大皿

2020年06月14日 | 古陶磁ー大皿・大鉢・壷

先日、酒田の人さんのブログで、古伊万里芙蓉手琴高仙人図七寸皿が紹介されていました。

その昔、釣りをやめ、骨董に本格的にくるい始めたのですが、釣りへの未練断ち難く、魚関係の品物を漁っていました(^^;

今回の品は、その頃入手した物です。琴高(きんこう)仙人の皿は他にも幾つかあったのですが、ほとんど整理し、一番大きな皿が残りました。

故玩館には、ありとあらゆるガラクタがありますが、せっかく展示をするなら見映えがする物を、ということで、つい大皿に手を出してしまいました。その結果、広かった館内もギュウギュウ詰めとなり、皿はこれ以上マカリナラン、とのお達しが出てしまった次第です(^^;

そこで、他の大皿も適宜、ブログで紹介していきます。

まず今回は、琴高仙人大皿です。

 

径 46.6㎝、高 5㎝、高台 24.3㎝。 江戸時代後期。

 

 

琴高仙人は古代中国の仙人で、琴の名手、仙術を得意としたといわれています。ある時、弟子たちに龍の子をとらえて見せると河に入り、大きな鯉(龍を象徴)に乗って水中から現れ人々を驚かせたといいいます。

琴高仙人図は、絵画にも多く描かれています。

同じ画題でも、絵画と違って、皿では、仙人や鯉の表情は、なぜかひょうきんなものが多いです。が、この品は、比較的生真面目に描かれています。

また、皿の絵では、琴高仙人が鯉にのって波乗りをするかのように描かれていることが多いのですが、本当は龍の化身である鯉に乘って、大空へ舞っていくはずなのです。

この点も、今回の品は、水中から雲の彼方へ向かう姿がよく表されています。

絵師の手によるものでしょうか。

 

 

 

 

 

裏側もいたって簡素。

 

唐草模様もきわめて簡略化。

 

確かに大きいのですが、品物としてはあまり見どころはない!?

おおさらは、そうみに味がまわりかね(^.^)

 

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能楽資料6 浮世絵 川中嶋軍記能楽之図

2020年06月12日 | 能楽ー資料

玉蘭齋(歌川)貞秀筆 浮世絵『川中嶋軍記能楽之図』です。

第四次川中島の戦いにおいて、妻女山に陣をはった上杉軍の能楽の様子を描いた浮世絵です。

妻女山での能楽の催しが史実かどうかは定かではありませんから、この浮世絵は能楽資料としては十分とはいえません。しかし、武田軍に挟まれた状況下で、上杉謙信が、小鼓や琵琶を鳴らしていたのは確かなようです。

また、江戸時代の能楽の絵は、歌舞伎と異なり、基本的に肉筆の注文品でしたから、能楽の浮世絵は非常に少なく、この点においても今回の品は興味深いと思います。

玉蘭齋(歌川)貞秀筆『川中嶋軍記能楽之図』 2枚続き(本来は、3枚続き、右一枚欠) 35.8 x 49.5㎝。幕末。

 


能の絵にしては珍しく、囃子に焦点があたっています。

 

小鼓、上杉輝虎入道謙信、大鼓、宇佐美駿河守貞行、笛、甘粕遠江守景時、太鼓、本庄越前守繁長。

上杉謙信よりも、むしろ宇佐美貞行を大きく描いています。宇佐美は、謙信の重臣にして軍師、越後一の勇士と言われました。川中島の戦いでは、武田信繁を討ち取っています。本庄繁長も、上杉家の重臣で、猛将として知られていました。甘粕景時は、川中島の戦いでは、しんがりをつとめ、武田軍別動隊と激戦をくりひろげました。

 


舞台中央で、石橋のシテを演じているのは、長尾越前守義景です。しかし、長尾義景は幼少で亡くなっています。長尾政景の誤りではないでしょうか。政景は、シテを演じるほど重用されていたのでしょう。

 

左端には、他の観客より上段の場所で、柿崎和泉守景家と直江大和守兼続が舞台を観ています。柿崎守景は上杉家の重臣で、川中島の戦いで先鋒をつとめました。直江兼続は、文武兼備の智将です。川中島の戦いでは、兵站を担いました。謙信の後継、上杉景勝を支え、後に米沢藩々主として、歴史に残る業績をあげた人物です。

 


この浮世絵は、戯作者、柳下亭種員の『繍像略傳史』の一部を描いたものです。上部に、そのくだりが書かれています。

さても武田信玄ハ越後勢
の後をかこミ、兵糧運送
の道を断、其身ハ海津の
城にあって敵の動静を
伺ふ内、武田家の籏下に
無双の智者ときこえし
佐名田一得斎幸隆、心
利たる忍びに命じ西
条山の砦の様子を見せ
しむれバ、諸軍ハ本国の通路を取り
切られ憂悶るさまなれ

 


ども、大将謙信ハ自若と
して我慮に寸も違ハず、
信玄法師がなしし事よ
存分の一線を遂るハ此
度に限るべし。アラ面白し
楽志も家門元老の人々
を集め能楽を催され、
自身小鼓を撃などし
てさも心地よき体なり
けり。忍びハ頓に立ち帰り
一得斎にかくと告ぐれバ、幸

隆早速午前にいでこれ
を委細に言上なすに、
流石の信玄も不審さらに
はれず、一度彼所の囲を開
き敵の進退を心見んと
越後街道に屯せし軍勢
を引き揚げれバ、自國の通路
を得たるを見て城兵は
喜ぶさまなれども、謙信
ハ獨愁然として我計事

 


齟齬したりと最不興に
ぞ見えたりける。信玄再
是をきき玉ひ、計りしら
れぬ謙信奴が胸中かな
然速に出馬せんと籾こそ
川中島に出陳なし、四海
に轟く大戦におよび
しことかや。

 

第四次川中島の戦いは、5回の信玄ー謙信対決の中で唯一両者が全面的に対決した戦いで、双方に数千人ずつの使者を出し、勝敗がはっきりしなほど激しいものでした。

永禄4(1561)年8月、越後から遠征してきた上杉軍は、妻女山に着陣しました。一方、武田軍は千曲川を挟んだ茶臼山に陣を敷き、武田軍の前線基地、海津城とから上杉軍を挟み撃みうちにする態勢をとり、両者のにらみ合いが続きました。そんな中で、退路を断たれたはずの謙信が悠然と能の会を催し、楽しんだというのが、この浮世絵です。

上杉謙信をはじめ、多くの武将が能を嗜んでいたことは確かです。しかし、妻女山に、こんな立派な能舞台があるはずはないし、甲冑を纏って囃子を打つのも無理です。しかし、謙信は琵琶の名手として知られていました。戦場へも名器「朝嵐」を持って行ったそうです。川中島の戦いで、武田軍に挟まれ、仲間に焦りがつのる中で、謙信は平然と琵琶をひき、時には、小鼓を打っていたといわれています。信玄の間者をあざむくにはうってつけです。息詰まるような神経戦ですが、謙信の側が一歩長じていたようです。あせる信玄の様子を察して、夜陰にまぎれて軍を動かし、千曲川岸に陣を張ったところまでが、川中島の戦いの神髄ではないでしょうか。

第四次川中島の戦い以降、両者は直接対決を避けました。

能楽を好んだ上杉謙信ですが、武田信玄も、能楽師をかかえていたと言います。当然、自身も能を嗜んだはずです。天才肌の謙信、一方は、苦労人の信玄、二人の能楽対決は、川中島の戦い以上に興味深いものではないでしょうか。 

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