遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

gooブログ1周年! 能楽資料5 文禄二癸巳年十月五日禁裏御能組

2020年06月09日 | 能楽ー資料

今日は、googブログ開設1周年です。Yahooブログを始めてから丁度半年後にgooブログに引越ししたので、年に2回の誕生日があることになります(^.^)

そんなわけで、今回は、少し気張った品を出してみました。

写本、『文禄二癸巳年十月五日禁裏御能組』です。

私の持っている能楽関係の品の中では、歴史的には一番興味深い物です。

実はこの品、コロナの前にアップしようと思っていたのですが、歴史好きのブロ友、Dr.Kさんがしばらく不在だったので保留になっていました。その後、さあとなった時、品物を分析したメモを紛失していることに気が付きました。やむをえず、気を取りなおして作業をし直し、今日に至ったわけであります(^^;

豊臣秀吉は、文禄元年、朝鮮を侵略しましたが劣勢となり、文禄2年8月に明と休戦協定を結び、名護屋を去りました。そして、わずか2か月後の文禄2年10月に、3日間の大掛かりな能を宮中で催しました。それが、前代未聞の能『文禄二癸巳年十月五日禁裏能』です。

『文禄二年十月五日於禁中ニ御能組』 17.5㎝x158㎝                                               江戸中期頃?

 

文禄二年の禁裏能は、豊臣秀吉が、宮中で3日間催した前代未聞の能です。

この能の番組を記録した文書が今回の品です。

古い歴史文書に多くあることですが、この時の能番組を記録した文書は複数存在します。そして、少しずつ異なります。どれかがオリジナルで他は写本、あるいはすべて写本かも知れません。

次の資料もその一つです。

『文禄二年禁中能番組』 法政大学能楽研究所般若窟文庫所蔵

二日目の番組しか見られませんが、おおよそ私の品と同じです。

 

デジタルで全体が見られるのは、次の資料しかありません。

  塙保己一編『群書類従 19遊戯部巻題560』
『文禄二発己歳十月五日於禁裏御能番組』(内閣府デジタルコレクション) 

塙保己一が『文書類従』を編纂したのは、1779年(安永8年)です。これはその写本ですから、もう少し時代が下がった品だと思われます。

私の品と比較すると、細部がかなり異なっています。

もう少し年代の遡れる資料はないかと探したところ、伊達家文書がみつかりました。残念ながら本体を見ることはできず、能番組のデータだけが得られます(【連歌・演能・雅楽データベース】)。

そこで、私の品、伊達家文書、群書類従の3つを比較してみることにしました。整理の都合上、主要な武将が登場する能の番組を中心にしました。囃子は、武将が関係するもの以外は省略しました。

           本資料 伊達家文書 群書類従        
初日                               
    暮松新九郎   暮松新九郎   ――       
千載   木下与右衛門  木下与右衛門  長命弥右衛門   
三番三  大蔵弥右衛門  大蔵弥右衛門  木下右エ門 
 
弓八幡   太閤様     秀吉公     秀吉公    
末広かり   民部卿法印    民部卿法印       民部卿法印         
                                                    
芭蕉         太閤様     御      秀吉公  
(小鼓)      安芸宰相殿      安芸宰相           毛利輝元
                                              
今参       ―――   大蔵弥右衛門   ―――   

皇帝       太閤様      御      秀吉公    
(ツレ)   岐阜中納言殿  岐阜中納言  岐阜中納言   
酢薑     ―――     長命甚六   ―――   
  
源氏供養   羽柴筑前守殿 羽柴筑前守   秀吉公
(小鼓)      江戸中納言様  江戸中納言      関白秀忠公

千寿      岐阜中納言殿  岐阜中納言  岐阜中納言 

野宮       江戸大納言様  江戸大納言   家康公 
(ツレ)          浅野弾正        浅野弾正小弼    浅野弾正

羽衣       丹波中納言殿     丹波中納言  丹波少将秀勝

山姥         成心           織田大府行雄卿  織田常心
                                                                            
三輪        太閤様             御      秀吉公 
(太鼓)       細川玄旨法印   細川玄旨       細井玄蕃正


二日目
        暮松新九郎         暮松新九郎      暮松新九郎

千載  大倉弥右衛門    木下与右衛門  長命弥右衛門
三番三 木下与右衛門     八幡介左衛門  木下右エ門 
 
老松    太閤様              御      秀吉公

ひくさた 民部法印            民部法印   民部卿法印

定家   太閤様              御     秀吉公 

鵜飼  会津侍従守殿   会津侍従   蒲生氏郷
                   
みみ引   太閤様 家康様  太閤秀吉公 家康公  秀吉公 家康公
            岐阜中納言殿    羽柴筑前守              ――― 
                 
遊行柳   丹波少将殿  丹波少将   丹波少将秀勝 

鞍馬詣   大倉亀蔵         大倉亀蔵     大蔵弥三郎 

大會    太閤様             御      秀吉公

楊貴妃   備前宰相殿        備前宰相   浮田秀家  

東岸居士 丹波中納言殿      丹波中納言  秀勝  

三日目 
翁        金春太夫              金春太夫              金春太夫   
千載  木下与右衛門        大蔵弥右衛門   長命弥右衛門
三番三  大蔵弥右衛門        木下与右衛門   木下右エ門
 
呉服       太閤様                秀吉公    秀吉公 

御年貢     ―――             大蔵弥右衛門           長命甚六       

田村     太閤様                 秀吉公    秀吉公 

祐善    民部卿法印            民部卿法印   民部卿法印

松風     太閤様                秀吉公     秀吉公 

江口    羽柴筑前守           羽柴筑前守   秀吉公 

雲林院   江戸大納言様         江戸大納言   秀吉公 

杜若      太閤様              秀吉公     秀吉公

紅葉狩      成心                  織田常真    織田常心
(ツレ)        羽柴筑前守   羽柴筑前守    秀吉公        

通小町    岐阜中納言殿        岐阜中納言  岐阜中納言
(ワキ)     浅野弾正    浅野弾正小弼  浅野弾正大弼  

金札     太閤様                   秀吉公    秀吉公

  茶文字は、狂言。 

文禄2年の禁裏能番組3種、本資料、伊達家文書、群書類従を比較すると、いくつかの違いが見られます。狂言や囃子については、演目や人名で、違いがいくつかあります。能について見ると、本資料、伊達家文書と群書類従の間に違いが多くあります。羽衣のシテ、丹波中納言(小早川秀秋)を、群書類従では丹波少将秀勝としています。羽柴秀勝は、元禄元年、朝鮮現地で病死しています。この能に登場するはずはありません。遊行柳のシテ、丹波少将についても、丹波少将秀勝としています。東岸居士のシテ、丹波中納言も秀勝になっています。さらに、紅葉狩りのツレ、羽柴筑前守を、秀吉としているのです。いずれも、別称を誤って解釈しているのですね。群書類従は、資料として劣ってます。

羽柴筑前守:前田利家
 安芸宰相:毛利輝元
 江戸中納言:徳川秀忠  
 江戸大納言:徳川家康
浅野弾正:浅野長政
丹波少将、細川玄旨:細川幽斎
丹波中納言:小早川秀秋
会津侍従:蒲生氏郷
備前宰相:宇喜多秀家
織田常真、成心、常心:織田信雄
岐阜中納言:織田秀信

このように、戦国武将がキラ星のように登場します。

秀吉は無類の能好きとして有名ですが、金春大夫に就いて本格的に能を始めたのは、この禁裏能のわずか10か月前なのです。そして、25番の能の内、ほぼ半分、12番の能のシテを演じているのです。能を一番演じるには、謡い、舞い、所作をすべてマスターしなければなりません。12番もの能を覚えるのは、通常の人間では不可能です。文禄の役の頃、秀吉の行動は異常さを増していました。他の武将のように、幼いころから能を嗜めなかった自分に対して、複雑な気持ちを抱き続けたのでしょう。異常な精神の昂揚のなかで、短期間に能をマスターし、名だたる武将たちを呼びつけて自分が主人公となる能舞台に立ったのでしょう。

しかし、3日目の能は、女御たちのみに見せたと言われています。歯車が狂い始めた秀吉でしたが、彼の柔軟な発想力は残っていたのです。

番組で異例なのは、狂言、「耳引き」です。この狂言は今ありませんが、現在の「口真似」や「居杭」に近いものであったようです。当時、武将が狂言をするのは珍しかったのですが、秀吉、家康、利家のビッグがどんな狂言を演じたのか、興味津々です。

このように、どのような武将がどんな舞台を踏んだのか、非常に興味深いです。なぜなら、文禄2年(1593)の禁裏能から5年後、慶長3年(1598)に秀吉は没し、7年後の慶長5年(1600)には関ケ原の戦いが起こるからです。この禁裏能には、晩年の秀吉の各武将に対する微妙な距離がうかがえるのではないでしょうか。


出演回数の多い順に武将を並べてみます。カッコ内は、文禄2年時の年齢と出演題目です。

豊臣秀吉(57、弓八幡、芭蕉、皇帝、三輪、老松、定家、耳引、大會、呉羽、田村、松風、杜若、金札)
徳川家康(52、野宮、耳引、雲林院)
織田秀信(14、皇帝(ツレ)、千手、通小町)
前田利家(55、源氏供養、耳引、江口)
浅野長政(47、野宮(ワキ)、通小町(ワキ))
小早川秀秋(12、羽衣、東岸居士)
織田常真(36、山姥、紅葉狩)
宇喜多秀家(27、楊貴妃)
細川幽(60、三輪(太鼓)、遊行柳(太鼓))

徳川秀忠(15、源氏供養(小鼓))
細川忠興(31、遊行柳)
毛利輝元(41、芭蕉(小鼓))
蒲生氏郷(38、鵜飼)

徳川家康、宇喜多秀家、織田常真、前田利家は能好きで、技量も相当なものであったようです。また、毛利輝元は小鼓の名手、細川幽斎の太鼓は太夫以上であったらしい。

これらの名だたる能愛好武将たちにまじって、10代の少年たちも参加しています。

小早川秀秋(12歳)、織田秀信(14歳)、徳川秀忠(15歳)。

小早川秀秋は、この時、まだ、北政所によって大切に育てられていました。能は誰に習ったのかわかりませんが、この時点で、かなり能を嗜んでいたようです。しかし、7年後の関ケ原の戦いでは、西軍を裏切ることになるのです。

織田秀信は、織田信長の長男、信忠の子です。本能寺の変の後、清須会議で秀吉によって信長の後継者となった、あの三法師です。能好きの父、信忠の影響で、能を嗜んでいたようです。岐阜城主であったので、岐阜中納言の呼称でした。関ケ原の戦いでは西軍に属しましたが、関ケ原の前哨戦で、池田、福島軍によって岐阜城が陥落した後、出家するも不遇のうちに亡くなりました。大垣城に陣を張っていた石田三成が、なぜ援軍を出さなかったのかは謎ですが、秀吉の能の会によばれなかった三成のひがみでしょうか(^^;   でも、戦いになれば、故玩館の辺りが主戦場、御先祖も巻き込まれ、私も今いなかったかも(^.^)

徳川秀忠は、ドラマではへぼ小鼓打ちとされていますが、かなりの腕であったようです。能に関する見識も高く、能が江戸幕府の式楽となって、武士社会に広く普及したのも、秀忠によってです。ただ、扶持を与えられた能楽師たちは新しい試みをすることを禁じられたため、それまでの能を守る(磨く?)ことに専念せざるを得ませんでした。秀吉の頃までは、チャンチャンとテンポよく展開していた能は、世界で一番退屈な演劇と揶揄されるほど、スローなものになっていったのです。徳川美術館には、多くの能楽関係の品が残されています。

細川幽斎、細川忠興、父子は、文武両道に秀でた人物。細川元首相は直系の子孫で、現在は渋い作品で知られる陶芸家です。その祖父、細川護立は、著名な骨董コレクターでした。細川家の伝来品を収蔵する永青文庫は、能関連の品々でも有名です。

西軍のプリンス、宇喜多秀家は、能愛好者でした。関ケ原で敗れた後は、八丈島に流されましたが、84歳まで生きのびました。島での生活には、当然、かつてのような娯楽はありません。彼が島でも能を舞っていたかどうかはわかりませんが、すくなくとも、謡曲は一人で口ずさんでいたのではないでしょうか。

 

『文禄二癸巳年十月五日禁裏御能組』を眺めていると、戦国時代の人間ドラマが目に浮かんできます。そして、そのドラマのかげには能があったことを、あらためて思い知らされました。

 

 

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