ある産婦人科医のひとりごと

産婦人科医療のあれこれ。日記など。

羊水塞栓症による母体死亡例

2007年03月07日 | 出産・育児

コメント(私見):

羊水塞栓症はきわめて稀な疾患で、未だ根本的な治療法が見出されておらず、母児ともにきわめて予後不良な疾患です。周産期医学に残された重要な未解決疾患と考えられています。

典型的な症例では、分娩中または分娩直後に、経過に何の問題もなかった妊婦さんが、突然、心肺停止状態に陥り、院内にいる医師が緊急コールで呼ばれて現場に到着した時点では、既に母体死亡となっている場合も少なくありません。そのため、一次医療機関から高次医療機関に母体搬送するような時間的余裕は全くありません。帝王切開中など、たまたま手術室内などで発症して、発症現場に麻酔科医がいて、発症直後より、蘇生の専門家達によって集中的に治療が行われた場合であっても、重篤例では発症後1時間以内に死亡する場合が少なくないと言われています。羊水塞栓症の確定診断は、死亡後に剖検によって行われます。

羊水塞栓症は、いまだに病因も明らかになっていないため、発症の予知もできませんし、予防方法も明らかになっていません。妊娠すれば、誰でも羊水塞栓症を発症する可能性があります。

なお、前置胎盤で長期に入院していた患者さんが、低置胎盤となって、経腟分娩可能となることは、しばしば経験します。全前置胎盤、部分前置胎盤、辺縁前置胎盤、低置胎盤などの区別は、超音波検査により、内子宮口と胎盤との位置関係で診断されますが、非常に微妙で診断が難しい場合もあり、「前置~低置胎盤」と診断して分娩経過を見る場合も珍しくありません。いずれにしても、前置胎盤が原因で、突然、心肺停止となることはなく、胎盤の位置と羊水塞栓症の発症とは関係がありません。

参考:

羊水塞栓症について

日本産科婦人科学会誌54巻6号N-160、2002年6月

(17)羊水塞栓

【概念】
 羊水塞栓症は羊水成分(羊水,羊水中胎児由来細胞,胎便など)が母体血中に流入し,急性呼吸循環不全をきたす疾患あるいは症候群と定義できるであろう.約6~8 万分娩に1例と非常に稀な疾患であるが,根本的な治療法が見出されておらず母児ともにきわめて予後不良な疾患であり,周産期医学に残された重要な未解決疾患である.わが国の妊産婦死亡率は漸減しているが,羊水塞栓症による妊産婦死亡は減少していないため,妊産婦死亡のなかで羊水塞栓症の占める割合は漸増している.本症の病因は,母体血中に流入した羊水成分が母体肺動脈系を主とする全身の血管系に塞栓し,血流を遮断することによる臓器障害と理解されていた.しかし,物理的塞栓により発症するという考え方だけでは本症の病態を説明できない.種々のサイトカインやケモカインが本症に関与することが示されている.

【臨床症状】
 典型的な臨床経過は, 特に合併症のない妊産婦が分娩第1 期後半あるいは分娩直後に,突然の呼吸困難と胸痛を訴え瞬時にしてチアノーゼを呈しショックに陥り,その後多量の性器出血を伴ったDIC による出血傾向が出現し,そして,多くは意識の回復せぬまま死の転帰をとるというものであろう.初発症状としてよく知られている呼吸困難や胸痛は必発するものでなく,けいれん,血圧低下,出血などで発症することも少なくない.発症後,ショックから心停止と急速に進行する症例は多く,1 時間以内に半数が死亡するといわれ,死亡率は約60~80%に及ぶ.DIC は,40~83%の症例に出現するといわれ,しばしば多量の性器出血を伴い,臨床上問題となる.

【診断】
 羊水塞栓症の診断は,従来,死亡後に剖検で確定されることが多かった.この場合,肺の細動脈や毛細血管に胎児由来の微細物(扁平上皮細胞,毳毛,胎脂,ムチン,胆汁様物質など)が証明される.生存例では簡便で迅速に行える診断法が確立されていなかったため,臨床徴候から本症を疑われるものの確定診断に至らぬ症例があったと考えられる.また,羊水塞栓症以外の妊産婦の母体血から胎児由来の扁平上皮やトロホブラストが証明されると報告されており,羊水の流入があっても急性呼吸循環不全に至らないニアミス症例や全く何も起こらない妊産婦も存在すると想定される.本症の発症に胎児成分の母体血中流入は必要条件であるが,十分条件とはいえなくなった.
 現在考えられうる診断基準を表6 に示した. 突然妊産婦に起こった急性呼吸循環不全,あるいは原因不明の産科DIC をみたなら,まず,本症の疑いをもつことが重要である.本症の診断には母体血中への羊水の流入が証明されなければならないため,そのサンプルとして,母体血を採血しておくことが必要である.従来の病理学的検査法に加えて,血清学的検査法が発表され,生存例においても羊水流入の証明が容易となった.胎児尿由来のコプロポルフィリンや胎便由来の亜鉛コプロポルフィリンおよびSTN(sialyl-Tn)が,母体血中に測定されれば,母体血への羊水の流入が証明される.コプロポルフィリンは,光により分解されるため,血清分離後,暗所で保存する必要がある.STN(sialyl-Tn)は腫瘍マーカーであり,イムノアッセイ法で測定される.また,生存中の羊水流入の診断に,母体血,特に右心血のスメアで胎児成分を証明することは有用であるが,カテーテル挿入の際に高頻度に母体の扁平上皮が混入するといわれその解釈には注意をはらうべきである.

表6 羊水塞栓症の診断基準
1.臨床所見
①急激な低酸素(呼吸困難,チアノーゼ,呼吸停止)
②原因不明の産科DICあるいは多量出血
③上記症状が分娩中,帝王切開時,D&C時,分娩後30 分以内に発生
2.母体への羊水流入の証明
①剖検における肺組織中の羊水成分の証明(扁平上皮,毛毳,胎脂,ムチン,胆汁様物質など;ムチン染色・STN 染色も有用)
②母体血スメアによる羊水成分の証明(できれば右心静脈血;Buffy coat が望ましい)
③母体血中STN(sialyl Tn)高値
④母体血中コプロポルフィリン高値(遮光保存)

【治療】
 羊水塞栓症は病因がいまだ明らかとなっていないため,予知および根本的治療は困難で,低酸素症,ショック,DIC に対する対症的なものにならざるを得ない.治療の目標は低酸素症の改善,心拍出量と血圧の維持,DICの治療である.本症に対する発症早期
の治療を図7 に示す.初期治療が迅速にかつ適切に行われることが肝要である.本症が発症すると肺の換気拡散能の広範な障害のため患者は重篤な低酸素症となるため,高濃度酸素を投与し,さらに患者が呼吸困難を訴えたり,意識が混濁したなら積極的に気管内挿管を行い換気が不十分なら人工呼吸をする.ショックに対して副腎皮質ステロイド(ソルコーテフ,ソルメドロール)やウリナスタチン(ミラクリッド)を静脈内投与し,vital signs を頻回にチェックし,血圧が維持されるように輸液・輸血ならびにドーパミンを点滴静注する.さらに,DICの進展を防止するため速効性のあるヘパリンを静注する.とくに出血増加の副作用が少ない点から低分子ヘパリン(フラグミン)の使用が勧められている.さらに,本症の臨床像の性格から高次医療施設のICU にて管理されるべきと考えられる.初期治療にて不可逆な状態となる前にICU に搬送されたなら,次のような処置をつけ加えるべきである.呼吸管理においては,成人呼吸窮迫症候群(adult respiratory distress syndrome)発症に注意し,残存肺機能を増加させるような人工換気を行う.循環管理はSwan-Ganzカテーテルを留置し,特に左心機能のパラメーターに注意をはらう.急性期の左心不全を乗り切ると救命の可能性がでてくる.肺水腫の出現に注意しながら輸液,輸血を継続し,急性血液浄化療法を試してもよいだろう.

【参考文献】

1.Clark SL, Hankins GDV, Dudley DA, Dildy GA, Flint Porter T. Amniotic fluid embolism : Analysis of the national registry. Am J Obstet Gynecol 1995 ;172 : 1158―1169

2.木村俊雄,高倉賢二,山出一郎,廣瀬雅哉,野田洋一.羊水塞栓症:周産期医学に残された重症未解決疾患.産婦進歩1996 ; 48 : 375―386

3.大井豪一,寺尾俊彦.羊水塞栓症.日産婦誌1998 ; 50 : 666―674

【野田洋一,木村俊雄】

****** 産経新聞、2007年3月6日

女性死亡し、長女は脳障害 高松赤十字病院を遺族が告発

 高松市番町の高松赤十字病院で平成17年に出産のため入院中だった女性=当時(30)=が死亡、生まれた長女に脳障害が出て、カルテも改ざんされたなどとして東京都内に住む女性の兄が昨年4月、主治医らを業務上過失致死傷罪と証拠隠滅の罪で高松北署に刑事告発したことが5日、明らかになった。女性の夫と長女は今後、病院を相手取り、損害賠償を起こすという。病院はカルテの不適切な書き換えは認めているが「誤診はなく、医療行為は適切」としている。

 関係者によると、女性は16年11月、他病院の紹介で高松赤十字病院に来院。主治医は、胎盤が子宮口をふさいで帝王切開が必要となる「全前置胎盤」の疑いがあると診察、同年12月20日には前置胎盤を示す「P」などの文字をカルテに記載した。17年1月4日、出血を訴えた女性を別の医師2人が診察、自然分娩できる「低置胎盤」と診断。2日後の6日、産気づいた女性は入院したが深夜に心肺停止状態となり、7日未明に死亡。帝王切開で長女が生まれたが、脳に障害が残った。

 女性の夫や兄ら遺族は同年1月11日、病院に説明を求めた際、12月20日のカルテをカメラで撮影。「P」と書かれた部分が12日の説明時には「低置-」と書き加えられていた。主治医が加筆した、という。

 遺族は女性が死亡して長女に障害が残ったのは病院が前置胎盤を低置胎盤だと誤診、適切な時期に帝王切開しなかったためとしている。一方、病院は女性の死因について「羊水が血管に入ってできた血栓で起きた『羊水塞栓』と病理解剖で判明している」と主張。また、長女の障害についても「女性の診断結果とは関係がない」と主張している。

(産経新聞、2007年3月6日)

****** 読売新聞、2007年3月5日

高松赤十字病院 「誤診で妊婦死亡」告訴 

遺族近く賠償提訴 死後、カルテ書き換え

 高松市の高松赤十字病院で2005年、出産に備えて入院中だった同市内の女性(当時30歳)が死亡したのは誤診が原因で、死後にカルテも改ざんされたとして、東京都内の遺族が当時の主治医ら医師4人を業務上過失致死容疑で香川県警に告訴していることがわかった。病院は、カルテを書き換えたことは認めているが、「医療行為は適切」としている。遺族は近く、病院側を相手取り、損害賠償請求訴訟を起こす。

 告訴状によると、主治医は04年11月、胎盤が子宮口を完全にふさいでい帝王切開が必要な「全前置胎盤」の疑いと診断。12月20日の検診でも「前置胎盤か」と診断し、カルテに記載した。

 05年1月4日、女性が出血を訴えて受診すると、別の医師2人は自然分娩が可能な「低置胎盤」と診断。2日後、女性は病室で心肺停止状態で発見され、帝王切開で生まれた女児は脳に障害が残った。

 遺族は1月11日、病院に説明を求め、12月20日の検診時のカルテをカメラで撮影。「前置胎盤か」とあったのに、翌12日に見ると、低置胎盤の疑いがあるように書き換えられていた。遺族は、医師らが低置胎盤と誤診し、適切な時期に帝王切開をすべき義務を怠ったと指摘、主治医については「死後に過失を隠蔽するため、カルテを改ざんしたのは許せない」としている。

 病院は、病理解剖の結果、死因は羊水が血管に入ってできた血栓で肺の血管などがつまる「羊水塞栓」と説明。「訂正の仕方は日付を書いてないなど不適切だったが、病院としては低置胎盤と判断している。改ざんではない」としている。

(読売新聞、2007年3月5日)