子供の頃の僕は、いい子でした。学校でも、いけないといわれたことは絶対にやりません。
家に帰ると親父の言う事はきかない、反抗ばかりで、いつも殴られている悪い子でした。
外に出るといい子になる自分が嫌いでした。いつもいい子を演じていたのです。
その反動か、今は悪たれジジイです。
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人の心素直ならねば、偽りなきにしもあらず。されどおのずから正直の人、などかなからむ。
狂人のまねとて大路を走らば、すなわち狂人なり。悪人のまねとて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥のたぐひ、舜(しゅん)を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。
偽りても賢を学ばむを賢というべし。
人間の心はまっすぐではないから、嘘をつくこともある。ただし、生まれつきの正直者がいないわけではない。
ところが、自分は不正直なのに、他人の正直を羨ましく思うのが人間というもの。
しかも大ばか者は、まれにいる正直者を見ると、かえって憎しみを抱く。
「内心はもっとでかい利益をねらっているので、小さい利益はわざと受け取らず、いいかっこうをして評判をあげる魂胆なのだ」と中傷する。
自分の本心とは合わないからといって、こう嘲笑するのでよくわかる。
・・・この大ばか者は死んでも直らない。たとえ嘘でも小さな利益を断れないし、賢人のまねさえできない。
狂人のまねだといって大通りを走れば、本物の狂人になる。悪人のまねだといって人を殺せば、本物の悪人になる。
駿馬をまねる馬は駿馬の仲間、中国の聖人舜(しゅん)をまねれば聖人舜の仲間に入る。
たとえ本心からではなくても、賢人を見習おうと努める者は、賢人と呼んでもいいのだ。
偽善とか偽悪とか、言葉に惑わされてはいけない。嘘でも善事を積み重ねれば、人格者へと向上していく。偽悪も同じである。
何を真似るかが問題であって、人格は、真似ることによって向上すると兼好はいう。
「まねる」は「学ぶ」の語源だそうです。
2006.06.25
家に帰ると親父の言う事はきかない、反抗ばかりで、いつも殴られている悪い子でした。
外に出るといい子になる自分が嫌いでした。いつもいい子を演じていたのです。
その反動か、今は悪たれジジイです。
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人の心素直ならねば、偽りなきにしもあらず。されどおのずから正直の人、などかなからむ。
中略
狂人のまねとて大路を走らば、すなわち狂人なり。悪人のまねとて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥のたぐひ、舜(しゅん)を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。
偽りても賢を学ばむを賢というべし。
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人間の心はまっすぐではないから、嘘をつくこともある。ただし、生まれつきの正直者がいないわけではない。
ところが、自分は不正直なのに、他人の正直を羨ましく思うのが人間というもの。
しかも大ばか者は、まれにいる正直者を見ると、かえって憎しみを抱く。
「内心はもっとでかい利益をねらっているので、小さい利益はわざと受け取らず、いいかっこうをして評判をあげる魂胆なのだ」と中傷する。
自分の本心とは合わないからといって、こう嘲笑するのでよくわかる。
・・・この大ばか者は死んでも直らない。たとえ嘘でも小さな利益を断れないし、賢人のまねさえできない。
狂人のまねだといって大通りを走れば、本物の狂人になる。悪人のまねだといって人を殺せば、本物の悪人になる。
駿馬をまねる馬は駿馬の仲間、中国の聖人舜(しゅん)をまねれば聖人舜の仲間に入る。
たとえ本心からではなくても、賢人を見習おうと努める者は、賢人と呼んでもいいのだ。
-吉田兼好「徒然草」(角川文庫)より-
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~偽善とか偽悪とか、言葉に惑わされてはいけない。嘘でも善事を積み重ねれば、人格者へと向上していく。偽悪も同じである。
何を真似るかが問題であって、人格は、真似ることによって向上すると兼好はいう。
「まねる」は「学ぶ」の語源だそうです。
2006.06.25