人は誰にも得手・不得手がある。完全無欠な人間などいない。例え、いたとしても、はたして魅力があるだろうか?
日光の陽明門は、完璧すぎることを恐れ、柱の一本を、敢えて本来忌み嫌われるとされる逆柱(さかばしら)にしたという。
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「薄絹で装丁した本の表紙は、傷みが早くて困る」と嘆く人がいた。それに対して、友人の頓阿(とんあ)が、「薄絹の表紙は、上下の縁がすり切れて、ほつれたほうが、また巻物の螺鈿(らでん)の軸は、ちりばめた貝が落ちた後のほうが深い味わいが出るものだ」と答えたのには感心させられ、彼を改めて見直した。
何冊かをひとまとめにして一部とする草子の場合、各冊の体裁が不揃いなのはみっともない、と文句をつけるのがふつうだ。
けれども、弘融僧都(こうゆうそうず)の「品物をきっちり同じに揃えようとするのは、ものの命がわからない人間のすること。不揃いこそが最上なのだ」という言葉には、わが意を得た思いがした。
何事においても、すべて完全に整い、完結しているのは、かえってその仕事の命が終わることになり、よろしくない。やり残した部分をそのままに放置してあるのは味わいも深く、仕事の命を将来につないでやる方法なのだ。
「内裏を造営するときも、必ず未完の部分を残すものだ」と、ある友人が言った。
(頓阿も弘融僧都も兼好と親しい友人)
-吉田兼好「徒然草」(角川文庫)よりー
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~-吉田兼好「徒然草」(角川文庫)よりー
そういえば、シューベルトの「未完成交響曲」も立派な一つの作品として成り立っている。
完成された人間よりも、未完成な人間のほうが、時に魅力的であったり、ホッとさせられたりします。
欠点だらけの人の方が、完璧な人間よりもより人間的に見えることはありませんか?
もしあなたが、自分の知識や、未完成な部分を恥じる事があったとしても、それはあなたが魅力的であるという証です。
兼好も「未完の完」を薦めています。おおいに未完成のままでいようではありませんか。
2006.06.29