杜鵑草 hototogisu 老いたる人も 枯れ咲きぬ
梅士 Baishi
杜鵑草の花を初めて見たのは小料理屋の一輪挿しだっ
た。
なんとも枯れた味わいのある花が印象的だった。
次に見たのは、大宰府の奥座敷にある竈神社境内だっ
た。
筥崎宮の花庭園にもひっそりと咲いていた。
詫び寂びの花である。
父の生前、夫婦杖を贈ったことがある。
父は喜んでその杖を使っていた。
しかし、母は「まだ杖はいらん」と、しゃんしゃんと
歩いていた。
その母も、今は夫婦杖が手放せなくなった。
花庭園も、今は花の閑期である。
終わりつつある、彼岸花や桔梗、萩や薄が詫び寂びの
秋風を通している。
同じように寂びた句会の人たちが散策していた。
俳句も歩く健康にはよい道具である。
「STAP細胞は存在する」というのが、幸福の科学の認
定である。
ところが、研究者の年功序列慣行や嫉妬によって、泥
棒呼ばわりまでされて潰されてしまった。
「STAP細胞はなかった」と断定された。
そんな証明ができるはずがないではないか。
「霊言は非科学的である。大学教育にふさわしくない」
という大学認定会議の答申で、幸福の科学大学の認可方
針が一転、却下された。
初代学長は、大隈重信の転生であると認定されている
九鬼氏である。
その前は、陰陽師で有名な安倍清明と判定されている
人物である。
幸福の科学大学がこれからの文明計画の柱となる壮大
な神の計画が推察される顔ぶれがそろっている。
ところが、大学に値しないと判定されたわけである。
首謀者は下村文科省大臣である。
新・国立競技場建設のずさんな予算管理の責任を取っ
て辞任すると表明しているが、幸福の科学大学不認可の
憲法違反をこそ問題にすべきである。
ここにいう憲法とは、日本国憲法にも流れている人権
の理念を意味する。
大学は基本的に、設立自由の原則が認められるべき分
野である。
補助金はいらぬと言っているのだ。
予算の問題ではない。
それを、下村ふぜいが大学に値しないとして不許可処
分にしたのだ。
袖の下を出さないからというのが本音らしい。
創価大学理学部認可と比較されたのかもしれない。
科学も教育も、唯物論の呪縛や敗戦の呪縛から脱皮し
なければならない。
小保方晴子女史にも、あつかましく戦ってほしい。
なんとか、手助けができないものか・・・。
STAP細胞研究所を設立できないものか・・・。
秋の思考課題である。
日本独立宣言・九州本部・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・中村梅士党