竹笋の 縦に伸びけり 突っ走り
中村 梅士 Baishi
竹笋堀りの季節も終わり、採掘を免れた竹笋が突っ走
るように縦、縦、縦に伸びている。
不思議な草だ。
朝6時、ゴミ出しをしてそのまま公園まで散歩をした。
軽いストレッチをすると、身体に血が巡った。
昨日は三日連続の8km走で疲れて、熟睡した。
今日は4日目だが、走ろうかと思う。
がぜんやる気が出てきたのだ。
たった8kmや10km程度でへたばっていることが
いやだと思ったからだ。
苦しいことも、嫌なことではなく、それがなければ堕
落するとも感じられるようになった。
一日の中に苦しい思いをする運動は大切なことだ。
今日はこどもの日である。
そのこどもの出生数が減り続け、過去最少を更新して
いるという。
直接の原因は、堕胎の濫用だろう。
倫理の問題もあるが、妊娠したのなら出産してもらう
社会制度が必要だろう。
養子制度だけではなく、実子としての養育ができるよ
うに制度を改善するべきではないか。
あとは教育の問題である。
血縁か否かは医学的にはともかく、家族の絆としては
必須のものではない。
なぜなら、生まれてくる子供の魂は男女の縁同様、血
縁ではないからである。
実子として育てたいという人があれば、縁ある人であ
る可能性が高い。
親子の縁は、本来、血縁に甘えてはならないのではな
いか。
確かに、血は水よりも濃しというが、家族の縁は血の
つながりではないというべきであろう。
実際、夫婦の縁ほど深いものはないとも言う。
確かに現代では、夫婦の縁にも予定外の混乱があると
いう。
人口規模の巨大化、人口の都市集中、情報交通のグロ
ーバル化、文明転換期に伴う混乱などが背景にあると考
えられる。
しかし、そうした混乱にもかかわらず、霊的親和性が
あるからこそ縁が成立しているはずである。
少子化対策を考える上で、血縁の縛りを解いて、新し
い親子愛の絆を育てる努力が大切なのではないか。
今でも特別実子制度があるが、血縁ではないと知って
混乱する子供がいる。
そこに問題があるのだ。
血縁を離れた霊的親子の縁が正統なものとして成立す
ることを教える必要がある。
血縁でないことを負の遺産としてはなるまい。
子育ての苦労こそは親子の縁を育てるのだ。
親の愛情こそは親子関係である。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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