実は僕、カープファンです。無論プロ野球の話。最近はとんとご無沙汰なので、「だった」というのが正解かもしれませんが。
事の発端は、小学生のころにファミコンゲームの『ファミリースタジアム』をプレイしていたときに、自分と同じ名前の選手がいたことで興味が沸いた、という単純なものでした。僕はそのころ京都に住んでいたので、広島カープファンがとても肩身の狭いであろうことは容易に予想でき、なんとか阪神ファンになろうと努力したのですが、当時のカープの“スター選手が不在ながらもコツコツ積み重ねて勝つ全員野球”っぷりに心打たれて、今に至ります。
今でこそ投手陣の弱体化が目立つカープですが、当時は“投手王国”の異名を取り、200勝投手・北別府、奪三振王・川口、防御率1点台・大野、炎のストッパー・津田など、リーグ屈指のピッチャーがキラ星のごとく所属していました。そして、ホームランこそ少ないけれど、堅実な打撃と足でもぎとった虎の子の数点を、必死に守りきって勝つのがパターンでした。
象徴的だったのは1991年。中日、巨人との3強によるペナントレースは、もつれにもつれて10月に突入。マジック1で迎えた13日阪神戦。初回に振り逃げとヒットでもぎとった先取点を、エース・佐々岡から守護神・大野への継投で守りきり1-0で勝利。その年のカープの集大成的試合を見せつけられての優勝に、大野が最後のバッター真弓を三振に打ち取ったとき、正直子供心に泣きそうになりました。
チーム最多本塁打は江藤とアレンの11本。4番は定着せずに日替わり状態で、一番多く勤めた西田ですら規定打席不足。どんなチームだよ、それ。下に、優勝決定時の選手成績を載せてあるので見てほしいのですが、これを見て優勝チームの成績だと思う人が何人いるでしょうか。まさに全員野球の勝利。
当時の担任(阪神ファン)の、「スター選手がいないのに、みんなで力を合わせての優勝。みんなには、巨人や阪神よりもカープみたいなクラスになってほしい」のひとことが、今でも忘れられない。
もうひとつ、この日が忘れられない理由がある。広島東洋カープ12年ぶりの地元優勝が達成された1991年10月13日。僕の誕生日でした。

【画像1】当時の朝日新聞の切り抜き
【画像2】全員野球の証