小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

島の子供たちに伝える機会

2018年06月01日 | 大切にしていること
■私達が住む小笠原諸島。
この地域も多くの人の活動で支えられています。

島に住んで16年。
有償、無償を問わず、日々様々な仕事をしています。
そんな中、年に数回、母島の学校で子供たちに色んな事を伝える機会に恵まれてきました。

それは島の自然保護の仕事、消防団に関わる授業です。


元々、人にものを教えるのは得意ではないし、
教えれるほどのスキルを持っているとは思えないですが、
これからの世界を羽ばたいていく子供たちに伝えたいことは、
いっぱいあります。

最近、よく思うのは、
将来何になりたい、どんな仕事に就きたい、
いわゆる現代的な「夢」を持ってほしいわけではないのです。

やりたい事なんて、多感な感性の時期はどんどん変わると思います。
頭が固くなって、既存の価値観や先入観でしか物事を判断できない大人とは違い、
子供たちはとても柔軟で逞しいと思います。

自分なりの価値観を持って、
今、その瞬間興味があることに対して全力をつぎ込んでほしいと思っています。

「何になりたいか」ではなく、
「どう生きたいか」を見据えて生きていって欲しいと伝えていきたいと思っています。

授業以外でも子供会やKWNビデオコンテスト参加などでも、
色んな場面で島の子供たちと密に関わる機会があります。
それが僕にはとても有難いのです。


■自然保護の仕事では普段行っている、野ネコの捕獲と母島の海鳥の調査の仕事です。
この仕事について詳しくは「小笠原ネコプロジェクト」というHPがあるのでそちらを参考にしてください。

10年以上も続けて、近年は海鳥たちが少しずつ戻って来ていて、
嬉しい成果があらわれて来ています。

この取り組みを母島の小学生高学年に伝える機会。
座学をする日、校外学習として現地に行く日とあります。

色んな事に気を付けながらも、
子供たちには「外来種=悪」ではないと伝えています。
まずは命の大切さ素晴らしさを子供たちには知ってほしいと思います。

大人たちは今も悩みながら、活動しています。
今、絶対に正しいと言い切れないけど、
今、動かなければ、この目の前の希少な自然は確実に消失してしまう。
だから、頑張って、信じて活動しているのです。

でも、よく大人は間違いを犯します。
良かれと思っていたことが、その後裏目に出てしまう事は沢山あります。

でも、それを恐れずに今信じていることを頑張っている。と知ってほしいのです。

そして子供たちが当たり前に暮らしている、
この大自然に囲まれた母島の環境の素晴らしさ。
それに気付くのはきっと島を出てからなのでしょうが、
そのアカデミックな側面を超えた大自然の素晴らしさも伝えていきたいです♪

まだまだ伝えたいことは沢山あるけれど、
その時一番子供たちに伝えたいことを、
知ってほしいことを伝えているつもりです。

そして僕は、子供たちに多くの気付きを頂き、
沢山、学ばせてもらっています。

本当に子供の感性というものは凄いの一言に尽きます!


■また消防団として、学校や職場、保育園など色んな啓発や避難訓練など活動をしています。
先日は教員と中学生に救命講習を行う手伝いをしてきました。

看護師さんが主に講義を進めて、消防団員がその補助を務めます。

団員も上級救命講習の資格を持っており、
いざというときの為にAEDの使い方、心肺蘇生法を学んでいます。

多くの子供たちと関わる先生はもちろん、
これから島を離れて外の世界で活躍する中学生たちにも講義を受けてもらいました。

一番伝えたいことは、
いざ人が倒れている土壇場で後悔しない様に、
しっかりと自分に何ができるか考え、行動する人になってもらいたいという事です。
その為に救命のファーストエイド技術を伝えるわけです。
「ああ!もっとちゃんと学んでいれば、あの命が救えたのに!」と後悔しない為に!

子供たちの素直な姿勢に、
これもいっぱい教える側の私達も学ばされています♪
先生方も一生懸命講義を受けてくれていて、
本当に関わって良かったと思いました。


■他に消防団として小学生に授業を頼まれることがあります。
内地では当たり前の消防署がない地域。
そこでの消防団。
生業を別に持っている島の有志が集まって組織しています。

火災対応はもちろん、
台風警戒や、山岳救助、
日々機器の点検や訓練をしています。

島のみなさんの生命財産を守るために、日々活動しています!!

僕自身は十代の頃に海難で救助された経験があり、
その後、自分が救助していく側になることが恩返しと思って活動しています。

ここでも、もっと知っておけば救えたのに!と後悔しない為に、
訓練はもちろん、色んな事にアンテナを張っています。



■先日、またショッキングなことがありました。
それは今シーズンのウミガメの産卵が始まったばかりの母島の前浜。
上の写真のキャタピラみたいな跡がウミガメが産卵のために歩いた跡です。

学校が休みの早朝、母島の前浜で次女が何やら集めています。

よく見ると、それはたばこの吸い殻でした。

次女はこの安易に捨てられたゴミが自然に野生動物に悪影響を与えていることを知っています。
無責任なオトナの不始末を、子どもがしていることに、
同じオトナとしてとても胸が苦しい思いがします。

島の子供たちが将来大きくなって、
どこかにこうしてゴミを無責任に捨てる様になるのでしょうか?

自分の選んだ行動がどう世界に影響していくのか?
どうチョイスして生きていくのか?

これからの世界を生きる子供たちには、
大人の言うセオリー通りに生きるのではなく、
自分の感覚でシビアに見極めて、
どう生きたいのかをしっかりと感じとって行ける様に、
色んなエッセンスを伝えていければと思います。

時間の流れ

2018年03月20日 | 大切にしていること
■今年も気付くともう3月です。
卒業式や転勤など人の動きも活発で、
嬉しくも切ないこの季節。

先日、子どもと一緒にあまりに美しい雲と空を見上げて、
時間の流れの不思議さを感じました。


小笠原に住んで16年目。
結婚して15年。
今年の3月で37歳になりました。
自分でもびっくりするほど、あっという間に中年です(笑)。

妻が誕生日に美味しいキッシュを焼いてくれました♪
子供たちからもお祝いのお手紙を頂き、
Facebookなどでも沢山のお祝いのメッセージを頂きました。
どうもありがとう☆

僕の父が心不全で他界したのが39歳。
あと2年で父の年齢に追いつきます。

子どもの頃は周りの言う、
若すぎる死というものを理解できませんでしたが、
今は身に染みるほどよく分かります。

自分のやりたいことを具体化して、
それを突き進んでいる最中に空の上に飛んで行ってしまったのですね。


自分が幼少の頃の時間の流れ、
毎日がギラギラしていた中高生の頃の時間の流れ、
そして今の30代の時間の流れ、
どれも随分と違います。

子どもの頃の夏休みなんて、
今でいう1年くらいの感覚で、
一生続くんじゃないかと思えるほど長く感じていました。


それから学生になって、
1日の密度はぐっと濃くなり、
友達と過ごす楽しい時間はあっという間に感じる様になりました。

バンドを始めて、みんなでお金を出し合って、
スタジオ練習をしている2時間なんて、
楽し過ぎて、今の15分くらいの感覚です(笑)。



■それからは小笠原諸島に移住し、
結婚し、子どもがいる家族の生活ですが、
子どもの年齢と共にこちらの時間も随分と変わって来ました。

1~3歳くらいの子どもと遊んでいた時を思い返すと
そこいらの石ころひとつで何時間も遊べるほど、
身近な世界が広くて、
毎日のすべてが新鮮な時期だったんだなぁと思います。

親の方は初めての子育てで、
何も分からず精一杯頑張るので、
1日なんてあっという間です(笑)。

感覚的には子どもの頃の3時間くらいが
今の1日くらいかな?


妻と子供と同じ美しい景色を見ていても、
その人それぞれが違う時間の感覚を持っている…

人は死ぬまでにみんな1日24時間という、
平等な時間を頂いていますが、
時間っていうものはなんて曖昧で、
その人の時代と感情で、
時間の速さなんていとも簡単に変わっていくのです。


童話作家ミヒャエル・エンデの名作「モモ」で世界の時間をつかさどるマイスター・ホラが、
時計に対してとても面白い表現をしていました。

「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかあるものを、
きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。
光を見るためには目があり、
音を聞くためには耳があるのとおなじに、
人間には時間を感じとるために心というものがある。

そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、
その時間はないも同じだ。」
※「モモ」12章 モモ、時間の国につく より抜粋



その後の「星の時間」を見る時計の場面では、
生きていく中で素晴らしく色んなタイミングが合った場面を思い出させてくれる、
ハッとする瞬間がありました。
とても面白い本なので、興味がある方は読んでみて下さいね♪

どの生き物も一生の心拍数が決まっていて、
心臓がリズムを刻む速さでその生き物の寿命が決まっていると聞いたことがあります。

一生の心拍数は15~20億回だとか。
体重が大きなゾウやクジラの心拍はゆっくりで、人に似たテンポ。
寿命が50年を超え、長いです。

小さなネズミ、鳥などの小動物は速いテンポで鼓動を刻んでいます。
寿命は確かに5年未満など短いが多いです。

人は年と共に、その刻むテンポが遅くなっていきますね。
それと共に時間の感覚も変わっていくのかも知れません。


■先日は母島小中学校の卒業式が行われました。

島を離れる中三の4人にはどんな時間が流れているのでしょうか?

下級生や姉妹、親への感謝をスピーチし、涙が溢れます。
中学生で母島を離れる親と子の感情は言葉にできないほどです。

来年は我が家の長女も島を離れる年齢となります。
僕が中学3年生の頃なんて、
親元を離れる事なんて一つも考えず、
ただただ毎日を楽しむことだけに一生懸命でした。

母島の子供たちは、
先を見据えて生きなければいけない現実が迫っているのです。

どんな進路を彼女が選んでも、
親としてできる限りのことはしてあげたいと思っています。

2年前、長女と学校見学に訪れた自由の森学園の校長先生がとても素晴らしい言葉を語っていました

高校を卒業する若者にこういう風に語れる校長がいる学校はカッコいいと思います。

一部、抜粋です。
「早く、効率よく、なるべく楽に あたかも近道を探すように生きるのではなく、
自分にとっていい方法とは何かを考えて模索して選択していくことを大切にしてほしいと私は思っています。

限られた時間内で効率よく正解を出していくという「テスト学力」と「生きる」ということはイコールではありません。
世の中の常識や社会の風潮に流されるのではなく、自分の学んできたことをベースとした「観」に基づいて自分自身を生きるということを大切にしていってほしい。そして、そのような一人ひとりが尊重される社会を形成する一人であってほしい。私はそう願っています。」




■僕自身も30代半ばを超え、
体力も衰えはじめ、徹夜もできなくなりました(笑)。

それでも過去に戻りたいと思ったことはなく、
今が一番楽しいし、
これからやりたいことは沢山あります。

人それぞれに与えられた時間は、
その人次第で変わっていく、
そう思います。



子育てしていく中で、
子どもは今の一瞬を楽しむことに命をかけていると感じます。

その子供の魂から学ぶことはとても多いと思います。

何度もこのブログでも言っていますが、
明日死んでも後悔しないで、
笑って死ねるように、
今を一番に楽しんでいこうと思います♪

そして、その自分を支えてくれる家族や友人、島の皆さん、
本当に有難うございます(*^_^*)










小笠原消防団で10年。

2018年01月17日 | 大切にしていること
■2018年1月5日、小笠原消防団母島分団の出初式が執り行われました。

毎年、行っていることですが、
新年の最初の時期に
災害や火災に対しての意識を、その地域のみんなに知ってもらおうと
消防隊員・団員が一生懸命伝える行事です。


僕も父島に住んでいた頃から消防団に入り、
今年で勤続10年となり(まだまだ新人です!)、村長に表彰を受けました。

母島に来てからは大きな火災はありませんし、
山と海の遭難者救助・捜索も無事に終わっています。

父島にいた頃は、大火事や山で深刻な救助・捜索があり、
とても気を引き締める機会が多くありました。

と同時に無事に見つかったり、
助かった時には本当に良かったなと心底思います。
大変な時も多いですが、
とてもやりがいのある活動だし、得られるものもすごくあります。

そんな僕の消防団活動は、
過去に自分が救助された経験から始まっています。




■今から約15年以上前、
当時僕は20歳になったばかりで、
色んな夢を持って沖縄の西表島に住み込んで働いていました。

無知な若者である僕は
そこで仲良くなった人と一緒に、
人から借りた川用の手漕ぎボート(カナディアン・カヌー)で沖に出て転覆し、
3人で漂流するという苦い経験がありました。

僕の他はあまり泳げない2人にライフジャケットはたったの1枚。
今思うとなんて無謀だったんだろうと思います。
死ななかったことは奇跡でした。

海が荒れてきた日没直前、
たまたま通りかかったカツオ漁の漁師さんが見つけてくれ、
救助してもらい、近くの港に向かう途中、
友人が通報してくれた海難を聞きつけて、西表中のダイビングボートが沖に出てくれていました。

目の前で虹が出来て、トビウオのアーチをくぐって島に戻って、
事情聴取を駐在所で受けている時、
「きょっきょっきょ」と鳴くヤモリの声で、
ああ生きているんだな、と感じ、
それまで感じていなかった疲れがどっと出てきたのを今でも覚えています。

自分は死なないと思っていましたが、
それは周りの2人を支える為に、一生懸命に気を張っていたからだったと後から気付きました。
ヤモリの声を聞いたとき、自分の限界がすぐそばに来ていたことに気付かされたのです。

その後、島のダイビングショップ、もちろん助けてくれた船長にもお礼をしにいったのですが、
その時に決心したのが、
自分が出来る“お返し”として、これから“助ける側になろう”というおもいでした。

ギリギリの出来事で生き残ったこの命、
その有難い気持ちを忘れないで、
今は消防団として出来る限り、お返しをさせてもらっています。


ちなみに、長女が3歳の時に1年間家族で日本中の自給自足の家をWWOOFで周る旅をして、
その時に久しぶりに西表島を訪れました。

当時、救助してくれたM船長はもう引退していて、
高齢であまりよく覚えていないようでしたが(笑)、
家族を連れてきたことをすごく喜んでくれて、行って良かったと思いました。



■消防団というのは、
他の生業を持った人が有事の際に集まって消防活動する組織です。

消防署がない小笠原のような地域では、
村民の生命、財産を守るためにとても重要な役割をになっています。

毎週の車両や装備の点検を交代で行い、
毎年、内地の消防訓練所から教官を招いて定期訓練も欠かさず行っています。

山岳救助、家屋火災、海難捜索と活動は多岐に渡ります。
そんな中、もし緊急時、自分がもっと勉強していれば、この命を救えたのに!と後悔しない様に、
出来る限りの姿勢で臨んでいるつもりです。

訓練や実戦を行うたびに改良点や改善点がいっぱい見つかります。
もっともっと精進して、
少しでもレベルを上げていきたいと思っています。

いつもわざわざ遠い内地から教えに来てくれる教官たちに、
感謝の気持ちでいっぱいです。


■色んな活動の中で、
沢山の感謝の言葉を頂きます。

本当に有難いです。
やっていて良かったなと心底思う瞬間です。
人の暮らしってこうやってできているんだなと実感します。

最後に
いつも消防団を引っ張ってくれる団長、副団長、分団長、班長、団員の皆さん、
役場の職員、医療関係、警察、他関係者のみなさん、
本当にありがとうございます!

そしてその活動を支えてくれている家族のみんな、どうもありがとう!
自分の命はもちろん気をつけつつ、これからも頑張ります♪


「やりたいこと」と向き合う

2015年12月29日 | 大切にしていること
■2015年ももうすぐ終わりです。
季節も師走となるとやはり色々この1年を振り返り、想いを巡らします。
皆さんはいかがお過ごしですか?

子供達はすくすくと成長し、来春には長女は中学生、次女は小学生になります。
大人の成長とは比べ物にならないほど、
子供の成長は驚くべきスピードで日々進化していきます…。


自分自身は30代の折り返しに当たり、
今までどう生きてきたか、
これからどう生きたいか、
今をどう生きているかを考えます。

今までずっと、
「明日死んでも笑って死ねるように、
今を精一杯生きる」
という信念で生きてきました。

しかし、ここ最近自分自身に色んな課題が出てきて、
そんな信念を貫くのが難しい場面が何度かありました。

自分としては生まれて初めて、
自分の気持ちが見えなくなって、
迷い、
苦しむ日々。
そんな時期もありました。

丁度、ブログの更新が少なくなってきた時期がその時期ですね(笑)。

その中で様々なものに出会い、
まだゴールとは言えませんが、
自分らしく生きる道筋は見えてきた気がします。


■畑について。
かれこれずっと試行錯誤をしながら7年近く、
亜熱帯の小笠原で持続可能な自然農を試みています。

本土から種も物資も入れず、島にあるものだけで、
無農薬・無化学肥料でどれだけ人の暮らす食べ物が作れるか…

それをずっと模索しています。

色々波がありますが、
このやり方でできるものとできないものが少しハッキリしてきました。

これからも試行錯誤しながら畑は続けるでしょう。
家族に安心できる野菜を作るのが一番の原点です。

いつも家畜や作物達から沢山の気付きと元気を頂いています。
感謝の気持ちでいっぱいです。


■仕事について。
仕事は持続可能な自給農だけではとても暮らしていけないので、色々仕事をしています。
山での野ネコの捕獲、
介護ヘルパー、
鳥獣保護員、
郵便と宅急便の配達。
その他、頼まれ仕事などなど。

他には地域の仕事で
PTAや消防団、青年会、ふるさと検討会など
多岐にわたります。

まさに自由業というに相応しい(笑)。

基本理念として、
稼ぎは最低限でいいので
融通が利くこと、
自然を破壊しないこと(開発しないこと)、
気持ちがいいこと、
人の役に立つことを大切にしています。

収入は所帯持ちでは小笠原では最低のレベルでしょうが、
とてもお金では買えないものを頂いていると思っています。

そんなスタイルを認めているかどうか分からないけど、
日々を支えてくれている家族に感謝です♪


■家族について。
22歳で父親になり、本当にかけがえのない存在です。
ちっぽけな自分に本当に多くのことを学ばせ、成長させてくれる有難い存在です。

この大事な家族がいなかったら、
今自分がどうなっていたのか想像も尽きません。

二人の可愛い娘が生まれてきたことは、
本当に嬉しい限りです。

夫婦としてもとても未熟で、
いつも山あり谷ありですが、
いろんな面で妻には感謝の気持ちでいっぱいです。

ここ数年は自分のやりたいことと、
妻が望む自分の在り方とでよく関係が絡まることがあります。

まだそれは解決していないし、
その余波は子供達にも影響を与えていて、
申し訳ない気持ちもありますが、
きちんとクリアして、
夫婦としても気持ちのいい関係に持っていけたらと思っています。


■趣味について
今没頭している趣味は音楽です。
素潜りも銛突きもカヤックも好きだけど、
今一番やりたいのはギターとドラムです。

これは10代の頃から変わってないかもです(笑)。

そして島の仲間と一緒に音楽を奏でているときがとても気持ち良くて好きです。

でも大好きなバンドを辞めざるを得ない事情があり、
泣く泣く自分で作ったバンドをこの秋に抜けました。

すごく辛い決断でしたが、
バンドのメンバーも理解してくれ、
今はみんなで奏でるというより、
技術と心を磨く時期なんだと思うようになり、
またみんなで音を奏でれるようになったら再開しようと思っています。

この数か月悩んでいた時に、
友人がとある本から以下の言葉を贈ってくれました。

「趣味を追及するとは、あなたの肉体のエネルギー反応に耳を傾けることです。
趣味を追及することは、自分を信頼すること、
自分を信頼すれば、人生のなかの色々な選択が心地よくなります。」

少し前まで、
自分がやりたかったことが、
今やりたいようにできない状況に苦しんでいましたが、
今は違います。

自分の人生の原点を思い出したのです。


「今の状況を受け入れ、
できるかぎり楽しんでやっていく」

両親も死に、
生活は楽ではない環境で育ちましたが、
少しも辛くなかったのは、
この原点の気持ちがあったからです。

僕はこの生き方を父親が死んだ中学生の時にロックンロールから学びました。

この忘れていた気持ちを大好きなパンクバンド、
ハイ・スタンダードの横山健のソロで思い出させてもらいました。

実は最近こういう曲は聞かない感じだったのですが、
何かの縁で聴きだしたら、ズキュンとこめかみを打たれてしまいました。



欲を言えば、アコースティックに美しくギターが弾けるようになりたいものです(#^.^#)

こういう不思議な意味のある自然な流れが大好きです♪


あまり力まず、
流れるままに身をゆだねるものいいですね。


そんなこんなで1年も残すことあと2日。
皆様、良いお年をお迎えください(*^_^*)

島のおばあちゃんから聞いた大切な話。

2015年03月25日 | 大切にしていること
■毎朝、畑から走って帰ってくるとき、いつも出逢う大好きな島のおばあちゃんがいます。
80歳を超す高齢なのに、毎日畑仕事に精を出している素敵な方です。
いつも軽く挨拶をし、簡単な会話をする程度なのですが、
先日は少し長くお話を聞かせてもらう機会がありました。

そこでとても素敵な話を聞かせてもらったので紹介したいと思います。
おばあちゃんは素敵な笑顔で語ります。

『私は親にすごく感謝しているのよ。
それはね、今幸せなのが親のお陰と思えるから。

昔、お父さんが言ってくれた。
「人をいじめるんじゃないぞ。
人をいじめたら自分に必ず返ってくる。
自分に返ってこなくても、自分の子孫に返ってくる。

人には良い事をしなさい。
人に良い事をしたら自分に返ってくる。
自分に返ってこなくても、自分の子孫に良い事が返ってくる。」
と言っていたのよ。

私はそれが今、本当だなと思えるのよ。

今、こんなに元気で過ごせてる。
何も問題がない。

こうして遠い畑にも車で送り迎えしてもらえて、通える。
本当に煩わしいと思うわ。
でも本当に有難い。

それがすべて親が行ってきたことのお陰と思っているのよ。
だから私もその事を気を付けているし、
今とても幸せなのよ。』


そう爽やかな笑顔で語るおばあちゃんがとても大好きです。

■毎朝の様に
島の河口に集まる水鳥の話、
畑の話、
子どもの話、
戦争の話を聞かせてもらっています。

太平洋戦争が始まって、
母島も空襲に見舞われたとき、
御幸之浜の沖に日本軍の補給船が停泊し「敵前上陸だ!」と言って
現在の乳房山中腹にある玉川ダムの先の鞍部に逃げて野営をしていたこと。

その時は布団と蚊帳とゴザだけを持って逃げて、雨が降らなくて良かったと言っていました。
その後、その補給船は爆撃され、積んでいた火薬が爆発し、今でも祭りで花火を見るとその頃の爆発を思い出すと言っていました。

内地への疎開が決まって少しの手荷物だけで島を後にしたこと。
内地へ渡る際に父島に滞在し、清瀬のトンネルで待機中に荷物を置いた小屋が爆弾で破壊され、
自分の荷物の一切が焼かれてしまったこと。
見知らぬ本土での苦労した生活の事。

兄が外国で沈められて戦死したと思っていたら、
沈む前に陸に上がっていて、運よく生き延びて、急に現れて本当にびっくりしたこと。

兄は爆弾を抱えて敵陣に飛び込んだが、震撼が抜けてなくて爆破せず、生き延びれたこと。

今の食べることにすら困らない時代に生まれ、
あまり大した苦労もしないで育った僕には十分すぎるほどのお話を聞かせてもらっています。

実体験として自分の子供には伝えれませんが、
このような話の一つ一つを伝えていくのも私たちの役目なのだなと思います。



■いよいよローゼルの新芽を拝める季節となりました♪

今年も10月の収穫と出荷を目指してローゼルの作付け開始です♪

ぼちぼち【島らっきょ】も収穫が始まりました♡


保育園の春休みでまた畑に来てくれるようになった次女ちゃん。

さっそく大好きな島らっきょの仕事です。
実の水分の流出を防ぐ「根切り」と「枯葉取り」が大事なお仕事です。

あまりに家族に人気なので出荷できない可能性があります(笑)。
来季はもっともっと作らなきゃ!!


久々の畑での時間は彼女にとっても嬉しいようで、
その仕草で僕もとても嬉しい時間となりました♪


こうやって共に過ごせるのも一時期だけ…
今は幸運なことに戦争とは少し縁が離れている暮らしをおくれています。

しかし、昔の苦労した話を聞くと胸が締め付けられる思いがしますし、
今もなお中東やアフリカなど紛争の絶えない現実をしっかりと認識して今を生きていかなければと思います。

長女には伝えてきていますが、
現代の戦争とこの平和な暮らしは
全然別の世界の出来事ではなく、
同じ地球で起こっていることで、
自分たちの暮らしも間接的にそれに繋がっていることを感じ取っていってもらいたいと思っています。




尊厳死~自分の死に方を想う

2014年02月22日 | 大切にしていること
◆島で介護の仕事をしていて、先日父島の老人ホームに家族で遊びに行って色々感じ、
日々日常を暮らしていて、最近自分の終末期について考えます。

どんな死に方をしたいかはやはり考えておくべきと思ってます。
遺される家族、子供たちにどう死にたいか伝えておくのはその人たちのためにも大切です。
「リビングウィル」というやつですね。

僕は小さなころから母親に
「私が何か病気や怪我で生命維持装置を必要とする場面になったら、それを止めるようにしてほしい」
と言われ続けていました。
小さな僕にとってはあまり現実的には考えれてなかったかもしれませんが、心の根底には残っていました。
そしてそれがとても意味あるものになったのです。

ちょっと重いテーマですが、人はいずれ必ず死を迎えます。
そのときに自分の心や周りの人たちの為にできることは何かを考えました。


◆父は39歳の時に心不全で亡くなりました。
僕が中学1年生ときです。

親は僕が6歳の時に離婚していたので別に暮らしていました。
父は自分の夢を叶え、小さなケーキ・お茶屋さんを経営していました。
よく1歳上の姉と一緒に地下鉄に乗って遊びに行き、家では禁じられているファミコンや滅多にない外食を子供心に楽しんでいました♪
しかし、今考えると共に暮らしていたときから父は偏食家で野菜をあまり食べない人だった気がします。
その影響か、成人病に侵されていたのかも知れません。

1週間連絡が取れず、不審に思った伯父が大家さんに連絡して死亡を確認したのです。
原因は心不全としか言われませんでした。
夏場の死亡して1週間という月日は遺体を腐敗させるには十分な月日で、子供だった僕は死んだ父をこの目で見ることはできませんでした。
父と再会したのは火葬場で骨となってからでした。
ひとつひとつ、大きな角ばった箸で骨を拾った覚えがあります。
そのせいか、僕はずっと肉親の死というものを実感できずにいました。
ただ、逢えなくなっただけといった印象です。

父はずっと夢を追う男性だったのだと思っています。
家庭的には不器用だったのだなと勝手に想像しています。
ほとんど家で共に過ごした記憶はありませんが、遊びに行くとうちにはなかった自家用車を駆使して郊外へのドライヴ、釣り、スキーに連れて行ってくれました。
家庭の中で僕が父親のいる雰囲気を知らないので、自分が父親になるときはとても戸惑いました。
心のどこかに穴が開いて、それは今も埋まらないままです。



◆一方、母はカナダで55歳のときに亡くなりました。
僕が26歳の時です。
母は子育てを終えて、カナダ人のパートナーと幸せにカナダで暮らしていました。
1度は小笠原にも来て孫と対面し遊ぶことができました♪

しかし、2008年2月カナダで急に記憶障害や言語障害が発生し、病院に搬送されました。
その後、意識不明となり動脈瘤破裂→脳死状態と診断されたのです。

当時父島に住んでいた僕は週に1度の定期船おがさわら丸出港後に連絡を受け、運良くその後に出港予定であっの貨物船「共勝丸」に飛び乗ったのです。
48時間の航海の中、地元が同じ宮城県の船員さんからはずっと温かい言葉で励まされ、役場の方はパスポートの緊急発行に動いてくれました。
そして、東京に来てくれた姉と合流し、飛行機でカナダ、エドモントンへ飛びました。

空港に着くとマイナス40度の雪景色!
外に出ると一瞬で鼻毛が凍ります(笑)。
パートナーのKちゃんがお迎えしてくれます。

最愛の母が危篤状態なのに、いつも冗談ばかりで笑わせてくれて、英語が不自由で外国初の僕たちの不安を和らいでくれます。
病院近くの用意されたホテルに着くと、一足先に来ていた伯父も迎えてくれました。

エドモントンは立派な都市でした。

そして大きなエドモントン州立病院へ。

脳死状態の母と対面しました。

触れば柔らかく温かいのに、もう会話ができない状態の母。
中を見て、目の焦点が合わない母。
頭からは溜まった体液を抜くためのドレインが繋がれ、喉に開けた穴からは人工呼吸器が繋がっています。
まさに機械で生かされている状態でした。

状況は知っていて覚悟はしていましたが、やはりショックでした。
しばらく母と接した後、みんなで食事をしてホテルに戻りました。

あのときの綺麗な景色を忘れられません。

夜に姉と色々話をしました。
お互い成人してから初めての真剣な会話だったかも知れません。
そして、母がずっと示していた「尊厳死」というものを子供である私たちからドクターとパートナーに伝えなければなりませんでした。
母が尊厳死協会というのにも入会していて、書面でもリビングウィルを残していたのも大事でした。

数少ない事例の中には何年もの脳死状態から奇跡的に復帰した例もあったりします。
しかし、母の場合はそれは絶望的であると、脳の損傷具合を見たドクターは言いました。
でも僕たちには人工呼吸器や頭のドレインを外すことにあまり迷いはありませんでした。
それは生前からずっと母に尊厳死を選びたいと言われていたからです。

早口の英語の優しくないドクターと優しくて頼もしいナース相手に、つたない英語で説明します。
僕らは尊厳死=Peaceful deathをなんとか伝え、そう処置してもらいました。

そしてなんと自発呼吸にまで復帰した母は、4月にパートナーに見守られ、静かな死を迎えました。
仲の良いインディアンが遺言にあった湖に散骨に行き、見送りの祈りを捧げるとハクトウワシの珍しい群れが上空に舞い上がり、母の魂は無事に行ったと伝えてくれたそうです。

いつか、その湖に家族と訪れたいと思っています。

ちなみに母は僕と姉が巣立つまでパートナーのいるカナダへ行くことはずっと何年も待っていたのです。
待ち焦がれていた最愛のパートナーとの幸せな時間はとても充実しているようでした。
時々くるエアメールからその雰囲気は感じ取れました。

ですがそんな時間もたった数年でこうして幕を下ろしてしまったことが残念でなりません。
心臓も眼も婦人科系も患いながらも、私たち子供の為に尽力してくれた母にはもっと自分の為に生きる時間が欲しかった気がします。

そんなこの世にはいない父と母には感謝の気持ちでいっぱいです。
今も尚、私たちの暮らしを見守ってくれているものだと信じています。


◆そんな自身の体験を踏まえつつ、日々野生動物に関わる仕事もしていると、潔い彼らの死に様を垣間見ます。
皆、たったひとりで静かに最後を迎え、骸は自然の分解者の肥やしとなり、土に還ります。

なんてシンプルなのでしょう。
そんな時も色々なメッセージを感じます。

畑でも海でも山でも色んな自然が生への営みが様々な教えを伝えてくれます。
私たちはその教えを真摯に受け止め、学んでいければと思います。

◆父親の死は早過ぎたと思いますが、母親の死は受け止めるのは容易でした。
21歳の時に仙台を引き払って小笠原へ移住するときに
「このままお互いが死ぬまで会えなくても後悔しないね」
と言って、僕は父島へ、母はカナダへ渡りました。

両親どちらもその親より先に亡くなっているので、そういう意味では親不孝だなと思います。
やはり自分より先に子供に死んでほしくないです。
もっと子育て後の楽しい時間を過ごしてほしかったと思います。

そして僕もなるべく周りが分からなくなる前に、気持ちよく最後は笑顔で死にたいと思います。
アメリカ先住民のインディアンは死ぬときに
「今日は死ぬには最高の日だ。次はもっといいだろう」
と言って笑顔で死ぬそうです。

僕もそんなカッコいい死に方ができればいいなと思います。
その為には今を精一杯生きなければ行けませんね!!

そして母がしてきたように、僕も遺される家族や子供たちの為にどう死にたいか日頃から意思を伝えていかなければと思います。

肉を食べるということ~「いのちをいただきます」

2014年01月22日 | 大切にしていること
◆我が家はあまり肉を食べません。
もちろん、食べないわけではありません。
僕も子供たちもベジタリアンではなく、肉は嫌いではないし、肉食を否定もしていません。

ですが、買ってまで食べることはほとんどありません。
かと言って食べないわけではありません。
現在我が家が食べる肉はたまの外食か貰った時のみです。

先日我が家のヤギ「こなつ」が死んだときに「食べる」か「埋める」かを本気で悩みました。
その時に久々に肉食について真剣に考えたのでブログに書いてみます。


◆我が家が肉食を考えるきっかけになったのは10年前に自分たちで鶏を捌いたことから始まりました。

その時の自分で鶏の頸動脈を切り、絶命させる感触は忘れられません。
スーパーのパックの肉からはまったく感じられない「いのち」の重み。
自然と食前の「いただきます」が「いのちをいただく」ことであることを理解しました。

その後、お湯につけて羽をむしり、内臓を取り、部所に分けて解体します。
手に脂もべっとり付くし、大変な作業です。

ここで1羽の鶏から取れる肉の少なさに驚きました。
そしてこの手間の多さ。
スーパーに売っている肉の安さはなんだかおかしい気がしてきたのです。

たとえば、1羽に1個取れる「砂肝」。
解体後、スーパーでパックで10個入りで298円で売られていることに違和感を覚えました。
薄利多売だとしても、なんだか絞められた「いのち」に相当する価格に思えませんでした。

「これは正当な価格じゃない!」

そう思った時から、僕は基本的に肉をスーパーで買うことをやめました。
肉が欲しいときはなるべく自分で絞めて、いのちの重さを、有難さを感じて食べたい。
スーパーのパックじゃその感覚を感じられない。
あまりにも経過が見えなさ過ぎる。
そう考えています。

なので、父島で野ヤギの肉を頂いたりするときは有難く頂きました♪
それは10年経った今も基本スタンスとしては変わりません。



◆そんなこんなで今は肉は食べるけど買わない暮らしになりました。
畑で野菜は作っているし、魚は時々頂くのでほとんど問題なく暮らせています。

肉食がグローバルに地球に与える影響も計り知れません。
同じ質量の肉と野菜を比べると、生産までのコストは野菜の何倍にもなります。

安い肉の為に熱帯雨林は焼かれ、薄利多売の為に抗生物質や劣悪な餌料(遺伝子組み換えなど)が増加します。

これが自分たちが肉を食べるときに自分で絞めるとしたらこんなにも地球環境に負荷を与えないと思いますし、いのちの重さを肌で感じることができます。
肉を食べる人にはみんなにぜひやってもらいたいと思っています。
特に子供には体験させていきたいと思っています。
肉を食べるという事はどういうことなのかを。

長女も3歳の頃七面鳥と烏骨鶏を絞めて、その後、食べました。
その時のことを本人は覚えていないそうですが、
「可哀そうだけど、美味しい~!ありがとう!」
の泣きながらバクバク食べていたのを覚えています。
そのころの長女です↓

2006年家族で自給自足の暮らしを求めてWWOOFの旅に出かけました。
その時の鹿児島県鹿屋でのひとときです。
あの1年の出逢いと学びは今も大切なものとなって活きています。



◆実際に「食べるいのち」について考えると、色々不思議なことがあります。
それはそのいのちを頂くときのこちらの精神的負荷の違いです。

野菜、虫、魚、鶏、獣、どれも変わらずいのちです。

いのちを頂くことに変わりはありませんが、その命を絶命させるときのこちらの心の反動の重さは相手によってかなり違います。
これは人によって差はあると思いますが、僕は4つ足の生き物を絞める時が一番気が重いです。
鶏を絞めるのも気が重いですが、4つ足の獣(ヤギや豚、牛)を絞めるときはもっと気が重いのです。
魚や虫は若干思うときはありますが、それほど抵抗はありません。
野菜、草、果実に至ってはほとんど「ありがたくいただきます♪」状態です。

これはどうしてなのでしょう?
自分でも分からず、不思議のひとつです。

でも思うことは同じ哺乳類であり、意識レベルが人に近いほど苦しい気がします。
また、体が大きな生き物ほど環境に対する影響も大きいのでその命にも重さを感じる、のかも知れません。


◆みなさんも肉を食べるとき、ふとそのいのちに思いを馳せてみませんか?
食前の「頂きます」、食後の「ご馳走様でした」をいのちを感じてしてみると、食べ物の有難みを痛感します。

私たちは本当に他の生き物のいのちで生かされています。
自分で生産し、自分で絞めて命を感じるのもそれを感じるいい方法でした。
日々、いのちに対する感謝の気持ちを忘れずに暮らしていきたい、そう思えるこれもまた「こなつ」からのメッセージだったと感じています。
ありがとうございます。


※参考までに自分で捕獲して食べる猟師の女性のブログ、父島の1年飼ったヤギを自分たちで絞めるプーランブログも色々考えさせられて面白いです。

農民芸術概論 by宮沢賢治

2012年03月16日 | 大切にしていること
■先日、僕は31歳の誕生日を迎え、妻と娘に素敵なプレゼントを頂きました。
ほんとうにどうもありがとう♪

長女からは手作りの誕生日カード、気持ちのこもったお手紙付き♪
妻からは1冊の本を頂きました。
それが、

『農民芸術概論 手帳/宮沢賢治』


でした。
実は少し前から気になっていて、今年の我が家の年賀状もこの分から抜粋させてもらっています。

「世界に対する大なる希望をまづ起せ
 強く正しく生活せよ
 苦難を避けず直進せよ

 世界がぜんたい
 幸福にならないうちは
 個人の幸福は ありえない

 われわは世界のまことの幸福を索ねよう
 求道すでに道である

 われらに要るものは
 銀河を包む透明な意志
 巨きな力と熱である
           宮沢賢治
         農民芸術概論より 抜粋」


明治生まれの賢治の描くこの視野の広さは本当に感激します。
大震災を受けた今の日本に必要な言葉が沢山込められています。

この「農民芸術概論」自体はとても短いもので、あっという間に読めててしまいます。
全文が紹介されていますので、よかったらこちらで読んでみて下さい。

この分の奥に潜む意志を感じると、とても大きな未来を感じました。
その思いで畑に立つと、なるほど農業芸術の意味が感じれます。
生き物が飛び交い、花や草が織り成す自然農の情景はまさに芸術♪

僕の農のバイブルになりそうです。

奥さん、素敵な本をどうもありがとう♪
 
おまけにおにぎりにかぶりつく次女ちゃんでした☆          
   

島への恩返し

2012年01月13日 | 大切にしていること
昨日は南崎というフィールドでの仕事でした。
その最南端にある南崎海岸、そこに最近の時化で漂着したゴミがまとめてありました。
それを持って遊歩道を1時間。
処分するために持って帰りました。


僕はよく南崎に来る仕事をしているので、余裕があるときは海岸の漂着ゴミを回収することにしていました。
それは、素晴らしい暮らしをさせてもらっているこの母島に何かできないか考えていて、ふとNPO法人の活動中にメンバーの一人が言った一言が僕をハッとさせてくれたからなのです。

「私は島に恩返しがしたい」

この言葉は僕にスッとはいってきました。
僕にできることをしてみよう。
その後、僕は自分に無理のない範囲で自然の中の人工的なゴミを拾うようになりました。
キリがないので一度に10個までとか制限を付けて。
すると不思議です。
少しずつですが、海岸が綺麗になっていくのです。

少しでも人工物を飲み込んで死んでしまう野生動物が減れば嬉しいです。
以前、イルカやウミガメの胃の中から多量のプラスチックやビニールが出て驚いたことがあります。

人の手で汚してしまった自然。
それをまた人の手で綺麗にする。
そうするとなんだか気持ち良かったのです。

それに百姓として使えるお宝も時々あったりします♪
ぎょっとする外国のものもあったりします。
なかなか楽しいものです。

皆さんもふと余裕があるときに、身の回りの自然のゴミを無理のない範囲で拾ってみませんか?
意外なお宝が見つかるかも…

優しく、ありたい。

2011年10月26日 | 大切にしていること
■日常の忙しさでつい忘れてしまいがちだけど、大事にしたいことがあります。

それは、優しさ。

相手を思いやる気持ち。

そう、いつも優しく、ありたいものです。

■家族の中でも、やはり近すぎて思いやりを、優しい気持ちをどこかに置き忘れてしまいます。
そんな時、ふと小さな子供からの優しさに触れてハッとすることがあります。

いつも叱られる長女は、本当に根が優しい。
友達にも妹にも、動物にも、親にも、草木にも。


次女は少し言葉がしゃべれるようになり、優しい声を聴かせてくれる。
小さな芋虫にも、車で轢かれたカエルにも、死にそうな鳥にも分け隔てなく優しさを与えている。


いつもぶつくさ文句を言っている妻(笑)も、僕の毎日の行動に気を配り、声を掛けてくれる。

近すぎて、なかなか気付かなかったり、口に出せなかったりするけど、もっと感謝の気持ちを伝えなきゃなと思う。
どうも、ありがとう。

■家族以外の人にだって、思いやりと優しさをすぐに忘れてしまう。
困っている人がいたら、すぐに手を出せるようになろう。
僕はずっとそうして助けられてきた。

優しさや思いやりを感じたら、感謝の気持ちを素直に伝えよう。
きっとそれは、嬉しさが広がる気がする。
僕が好きな人達はみんなそれが自然にできている。

■作物にだって、自然にだって思いやりと優しさを贈ろう。
いつも僕らはその上で生かされている。

一粒の種が強い魂で芽を出し、枝を伸ばし、花が咲き、実を付け、熟すまで、一番健やかに育てるように思いやりと優しさをもって接していきたいと思う。

水の結晶だって「ばかやろう」と言われれば歪むけど、「ありがとう」と言われれば美しくなるのは有名な話。

人間の身体も、草木の体も、多くは水でできています。

優しさと思いやりはきっと伝わるでしょう。


いのちに触れていて、ふとこんなことを気付かされた今日でした。

まずはやってみること

2011年08月05日 | 大切にしていること
■先日、畑でふと思い出したことがあります。
僕の畑は普通の農業の畑と違い、草が生え、他品目栽培で、他の人と違う作物が多いです。
そして、農薬と化学肥料を使わないですし、おまけにネズミとマイマイの駆除剤も撒かないので、うまく育っていない作物ももちろん沢山あります。
なるべく化石燃料も使わないようにしています。(草刈、耕し、運搬etc)

つまり、ヘンな畑な訳です(笑)。
パッと見は草だらけなんです。


そんな畑を眺めながら、以前父島の大先輩の農業者Rさんに言われた大切な言葉をふと思い出しました。
僕は島の持続可能な畑をしたくて、
あれこれ栽培方法や作付けの時期を聞いていました。
その方は、もう高齢で第一線を退いていますが、未だに出荷してますし、話すとするどい論理が眠っていて、ハッとさせられる事が多いです。

その方は、あれこれ聞く僕を見つめて、素敵な笑顔で
「あのね、ジャイアン君。まずはなんでもやってみることだよ。」
と、言いました。

その時、僕はハッとしました。
論理よりも実践。
畑だって高低差、日当たり、土の違いなどで育ちは勿論違います。
聞くも大事ですが、なによりまずやって学ぶことを教わりました♪

そして、人生あと数十年を考えると、作付けをせいぜい数十回しかやれないのです。
いつかやれる、と思わずにまず今やること。
思ったが吉日です。
明日死んでも後悔しないように、今を精一杯生きる!

なので、実験のような栽培が多々あります(笑)。
今季は島ニンニク、島ラッキョウという沖縄在来の品種に手を出します。

■とにかく、内地から種も肥料も土も入れずに栽培できる持続可能な農を目指して精進していきたいです。
パッと見の草だらけの畑もよく観察すると、


2期目の陸稲が生えていたりします。
草のお陰で乾燥を防ぎ、微生物も反映します。


草の中に人参が隠れています。
今年の干ばつでも、草のお陰で乗り切れました。
今は自家用ですが今季は出荷も考えています。


こちらはナスです。
去年からの株ですが、素敵に身を実らせてくれます。
こちらも雑草とそこに住む生き物のお陰で元気に育っています。


秋の収穫に向かって伸び続ける自家採取ローゼル。
今年は少量ですが出荷も考えているので、お楽しみに♪

■昨日は久々の日中の大雨だったので、畑の作業はやめて、自宅で島大根の種のさや出しをしていました。
袋に入れて、叩けば良いと聞いていたのですが、なかなか上手くいかず、結局次女と妻と手でさやから出しています。
暑さに強い品種なのでもうすぐ作付けです。

1才の次女も上手にお手伝いしてくれます。
僕より飽きが来ないようです(笑)。

無農薬・無化学肥料・無駆除剤(対ネズミ、マイマイ)栽培

2011年06月07日 | 大切にしていること
我が家が子供を授かり、その時から食べ物が身体を育んでいくことを感じました。
そして、ゼロから始まる子供にまつわる食はなるべく安全にしようと思いました。
それからは有機野菜や自然食品を心がけて来ました。


ですが、ウーフ旅の時、家族で色んな農家や販売店で滞在させてもらい気付きました。
あの表示の裏には本当に真面目にやってるひと、適当に表示だけでやっているひとがいるということを。
きちんと顔が見えないと、グローバルな世の中、分からないものなんですね。

そこで次第に自分で確かな安全な作物の栽培をしたいと思うようになりました。
その延長が今の畑になりますね。

亜熱帯の母島では年中、虫がいて、土が痩せていて、ネズミとマイマイが猛威をふるっているので、
「内地と違うんだから、無農薬なんて無理だ、幻想だ」
と何人かに言われました。


でも雑草や草木は人が世話をしなくても元気に育っています。
野菜もそれくらい強くなる手伝いができれば、きっとできると思って今もやっています。
確かに人に改良された品種は化学肥料や農薬に依存していて、自立できないものもあります。
でも、昔からの在来種や島で何度も自家採取することで、気候と環境に慣れて「母島の種」になればきっと強くなれると思いました。
今育っている数少ない野菜は、そんな強い地に合った野菜たちです。


まだまだ素人で難しく、失敗ばかりですが、そのひとつひとつが学びになります。
その中で少しずつうまくいく野菜や方法を見つけ、より持続可能な農を目指していきたいものです♪