◆島で介護の仕事をしていて、先日父島の老人ホームに家族で遊びに行って色々感じ、
日々日常を暮らしていて、最近自分の終末期について考えます。
どんな死に方をしたいかはやはり考えておくべきと思ってます。
遺される家族、子供たちにどう死にたいか伝えておくのはその人たちのためにも大切です。
「リビングウィル」というやつですね。
僕は小さなころから母親に
「私が何か病気や怪我で生命維持装置を必要とする場面になったら、それを止めるようにしてほしい」
と言われ続けていました。
小さな僕にとってはあまり現実的には考えれてなかったかもしれませんが、心の根底には残っていました。
そしてそれがとても意味あるものになったのです。
ちょっと重いテーマですが、人はいずれ必ず死を迎えます。
そのときに自分の心や周りの人たちの為にできることは何かを考えました。
◆父は39歳の時に心不全で亡くなりました。
僕が中学1年生ときです。
親は僕が6歳の時に離婚していたので別に暮らしていました。
父は自分の夢を叶え、小さなケーキ・お茶屋さんを経営していました。
よく1歳上の姉と一緒に地下鉄に乗って遊びに行き、家では禁じられているファミコンや滅多にない外食を子供心に楽しんでいました♪
しかし、今考えると共に暮らしていたときから父は偏食家で野菜をあまり食べない人だった気がします。
その影響か、成人病に侵されていたのかも知れません。
1週間連絡が取れず、不審に思った伯父が大家さんに連絡して死亡を確認したのです。
原因は心不全としか言われませんでした。
夏場の死亡して1週間という月日は遺体を腐敗させるには十分な月日で、子供だった僕は死んだ父をこの目で見ることはできませんでした。
父と再会したのは火葬場で骨となってからでした。
ひとつひとつ、大きな角ばった箸で骨を拾った覚えがあります。
そのせいか、僕はずっと肉親の死というものを実感できずにいました。
ただ、逢えなくなっただけといった印象です。
父はずっと夢を追う男性だったのだと思っています。
家庭的には不器用だったのだなと勝手に想像しています。
ほとんど家で共に過ごした記憶はありませんが、遊びに行くとうちにはなかった自家用車を駆使して郊外へのドライヴ、釣り、スキーに連れて行ってくれました。
家庭の中で僕が父親のいる雰囲気を知らないので、自分が父親になるときはとても戸惑いました。
心のどこかに穴が開いて、それは今も埋まらないままです。
◆一方、母はカナダで55歳のときに亡くなりました。
僕が26歳の時です。
母は子育てを終えて、カナダ人のパートナーと幸せにカナダで暮らしていました。
1度は小笠原にも来て孫と対面し遊ぶことができました♪
しかし、2008年2月カナダで急に記憶障害や言語障害が発生し、病院に搬送されました。
その後、意識不明となり動脈瘤破裂→脳死状態と診断されたのです。
当時父島に住んでいた僕は週に1度の定期船おがさわら丸出港後に連絡を受け、運良くその後に出港予定であっの貨物船「共勝丸」に飛び乗ったのです。
48時間の航海の中、地元が同じ宮城県の船員さんからはずっと温かい言葉で励まされ、役場の方はパスポートの緊急発行に動いてくれました。
そして、東京に来てくれた姉と合流し、飛行機でカナダ、エドモントンへ飛びました。
空港に着くとマイナス40度の雪景色!
外に出ると一瞬で鼻毛が凍ります(笑)。
パートナーのKちゃんがお迎えしてくれます。
最愛の母が危篤状態なのに、いつも冗談ばかりで笑わせてくれて、英語が不自由で外国初の僕たちの不安を和らいでくれます。
病院近くの用意されたホテルに着くと、一足先に来ていた伯父も迎えてくれました。
エドモントンは立派な都市でした。
そして大きなエドモントン州立病院へ。
脳死状態の母と対面しました。
触れば柔らかく温かいのに、もう会話ができない状態の母。
中を見て、目の焦点が合わない母。
頭からは溜まった体液を抜くためのドレインが繋がれ、喉に開けた穴からは人工呼吸器が繋がっています。
まさに機械で生かされている状態でした。
状況は知っていて覚悟はしていましたが、やはりショックでした。
しばらく母と接した後、みんなで食事をしてホテルに戻りました。
あのときの綺麗な景色を忘れられません。
夜に姉と色々話をしました。
お互い成人してから初めての真剣な会話だったかも知れません。
そして、母がずっと示していた「尊厳死」というものを子供である私たちからドクターとパートナーに伝えなければなりませんでした。
母が尊厳死協会というのにも入会していて、書面でもリビングウィルを残していたのも大事でした。
数少ない事例の中には何年もの脳死状態から奇跡的に復帰した例もあったりします。
しかし、母の場合はそれは絶望的であると、脳の損傷具合を見たドクターは言いました。
でも僕たちには人工呼吸器や頭のドレインを外すことにあまり迷いはありませんでした。
それは生前からずっと母に尊厳死を選びたいと言われていたからです。
早口の英語の優しくないドクターと優しくて頼もしいナース相手に、つたない英語で説明します。
僕らは尊厳死=Peaceful deathをなんとか伝え、そう処置してもらいました。
そしてなんと自発呼吸にまで復帰した母は、4月にパートナーに見守られ、静かな死を迎えました。
仲の良いインディアンが遺言にあった湖に散骨に行き、見送りの祈りを捧げるとハクトウワシの珍しい群れが上空に舞い上がり、母の魂は無事に行ったと伝えてくれたそうです。
いつか、その湖に家族と訪れたいと思っています。
ちなみに母は僕と姉が巣立つまでパートナーのいるカナダへ行くことはずっと何年も待っていたのです。
待ち焦がれていた最愛のパートナーとの幸せな時間はとても充実しているようでした。
時々くるエアメールからその雰囲気は感じ取れました。
ですがそんな時間もたった数年でこうして幕を下ろしてしまったことが残念でなりません。
心臓も眼も婦人科系も患いながらも、私たち子供の為に尽力してくれた母にはもっと自分の為に生きる時間が欲しかった気がします。
そんなこの世にはいない父と母には感謝の気持ちでいっぱいです。
今も尚、私たちの暮らしを見守ってくれているものだと信じています。
◆そんな自身の体験を踏まえつつ、日々野生動物に関わる仕事もしていると、潔い彼らの死に様を垣間見ます。
皆、たったひとりで静かに最後を迎え、骸は自然の分解者の肥やしとなり、土に還ります。
なんてシンプルなのでしょう。
そんな時も色々なメッセージを感じます。
畑でも海でも山でも色んな自然が生への営みが様々な教えを伝えてくれます。
私たちはその教えを真摯に受け止め、学んでいければと思います。
◆父親の死は早過ぎたと思いますが、母親の死は受け止めるのは容易でした。
21歳の時に仙台を引き払って小笠原へ移住するときに
「このままお互いが死ぬまで会えなくても後悔しないね」
と言って、僕は父島へ、母はカナダへ渡りました。
両親どちらもその親より先に亡くなっているので、そういう意味では親不孝だなと思います。
やはり自分より先に子供に死んでほしくないです。
もっと子育て後の楽しい時間を過ごしてほしかったと思います。
そして僕もなるべく周りが分からなくなる前に、気持ちよく最後は笑顔で死にたいと思います。
アメリカ先住民のインディアンは死ぬときに
「今日は死ぬには最高の日だ。次はもっといいだろう」
と言って笑顔で死ぬそうです。
僕もそんなカッコいい死に方ができればいいなと思います。
その為には今を精一杯生きなければ行けませんね!!
そして母がしてきたように、僕も遺される家族や子供たちの為にどう死にたいか日頃から意思を伝えていかなければと思います。
日々日常を暮らしていて、最近自分の終末期について考えます。
どんな死に方をしたいかはやはり考えておくべきと思ってます。
遺される家族、子供たちにどう死にたいか伝えておくのはその人たちのためにも大切です。
「リビングウィル」というやつですね。
僕は小さなころから母親に
「私が何か病気や怪我で生命維持装置を必要とする場面になったら、それを止めるようにしてほしい」
と言われ続けていました。
小さな僕にとってはあまり現実的には考えれてなかったかもしれませんが、心の根底には残っていました。
そしてそれがとても意味あるものになったのです。
ちょっと重いテーマですが、人はいずれ必ず死を迎えます。
そのときに自分の心や周りの人たちの為にできることは何かを考えました。
◆父は39歳の時に心不全で亡くなりました。
僕が中学1年生ときです。
親は僕が6歳の時に離婚していたので別に暮らしていました。
父は自分の夢を叶え、小さなケーキ・お茶屋さんを経営していました。
よく1歳上の姉と一緒に地下鉄に乗って遊びに行き、家では禁じられているファミコンや滅多にない外食を子供心に楽しんでいました♪
しかし、今考えると共に暮らしていたときから父は偏食家で野菜をあまり食べない人だった気がします。
その影響か、成人病に侵されていたのかも知れません。
1週間連絡が取れず、不審に思った伯父が大家さんに連絡して死亡を確認したのです。
原因は心不全としか言われませんでした。
夏場の死亡して1週間という月日は遺体を腐敗させるには十分な月日で、子供だった僕は死んだ父をこの目で見ることはできませんでした。
父と再会したのは火葬場で骨となってからでした。
ひとつひとつ、大きな角ばった箸で骨を拾った覚えがあります。
そのせいか、僕はずっと肉親の死というものを実感できずにいました。
ただ、逢えなくなっただけといった印象です。
父はずっと夢を追う男性だったのだと思っています。
家庭的には不器用だったのだなと勝手に想像しています。
ほとんど家で共に過ごした記憶はありませんが、遊びに行くとうちにはなかった自家用車を駆使して郊外へのドライヴ、釣り、スキーに連れて行ってくれました。
家庭の中で僕が父親のいる雰囲気を知らないので、自分が父親になるときはとても戸惑いました。
心のどこかに穴が開いて、それは今も埋まらないままです。
◆一方、母はカナダで55歳のときに亡くなりました。
僕が26歳の時です。
母は子育てを終えて、カナダ人のパートナーと幸せにカナダで暮らしていました。
1度は小笠原にも来て孫と対面し遊ぶことができました♪
しかし、2008年2月カナダで急に記憶障害や言語障害が発生し、病院に搬送されました。
その後、意識不明となり動脈瘤破裂→脳死状態と診断されたのです。
当時父島に住んでいた僕は週に1度の定期船おがさわら丸出港後に連絡を受け、運良くその後に出港予定であっの貨物船「共勝丸」に飛び乗ったのです。
48時間の航海の中、地元が同じ宮城県の船員さんからはずっと温かい言葉で励まされ、役場の方はパスポートの緊急発行に動いてくれました。
そして、東京に来てくれた姉と合流し、飛行機でカナダ、エドモントンへ飛びました。
空港に着くとマイナス40度の雪景色!
外に出ると一瞬で鼻毛が凍ります(笑)。
パートナーのKちゃんがお迎えしてくれます。
最愛の母が危篤状態なのに、いつも冗談ばかりで笑わせてくれて、英語が不自由で外国初の僕たちの不安を和らいでくれます。
病院近くの用意されたホテルに着くと、一足先に来ていた伯父も迎えてくれました。
エドモントンは立派な都市でした。
そして大きなエドモントン州立病院へ。
脳死状態の母と対面しました。
触れば柔らかく温かいのに、もう会話ができない状態の母。
中を見て、目の焦点が合わない母。
頭からは溜まった体液を抜くためのドレインが繋がれ、喉に開けた穴からは人工呼吸器が繋がっています。
まさに機械で生かされている状態でした。
状況は知っていて覚悟はしていましたが、やはりショックでした。
しばらく母と接した後、みんなで食事をしてホテルに戻りました。
あのときの綺麗な景色を忘れられません。
夜に姉と色々話をしました。
お互い成人してから初めての真剣な会話だったかも知れません。
そして、母がずっと示していた「尊厳死」というものを子供である私たちからドクターとパートナーに伝えなければなりませんでした。
母が尊厳死協会というのにも入会していて、書面でもリビングウィルを残していたのも大事でした。
数少ない事例の中には何年もの脳死状態から奇跡的に復帰した例もあったりします。
しかし、母の場合はそれは絶望的であると、脳の損傷具合を見たドクターは言いました。
でも僕たちには人工呼吸器や頭のドレインを外すことにあまり迷いはありませんでした。
それは生前からずっと母に尊厳死を選びたいと言われていたからです。
早口の英語の優しくないドクターと優しくて頼もしいナース相手に、つたない英語で説明します。
僕らは尊厳死=Peaceful deathをなんとか伝え、そう処置してもらいました。
そしてなんと自発呼吸にまで復帰した母は、4月にパートナーに見守られ、静かな死を迎えました。
仲の良いインディアンが遺言にあった湖に散骨に行き、見送りの祈りを捧げるとハクトウワシの珍しい群れが上空に舞い上がり、母の魂は無事に行ったと伝えてくれたそうです。
いつか、その湖に家族と訪れたいと思っています。
ちなみに母は僕と姉が巣立つまでパートナーのいるカナダへ行くことはずっと何年も待っていたのです。
待ち焦がれていた最愛のパートナーとの幸せな時間はとても充実しているようでした。
時々くるエアメールからその雰囲気は感じ取れました。
ですがそんな時間もたった数年でこうして幕を下ろしてしまったことが残念でなりません。
心臓も眼も婦人科系も患いながらも、私たち子供の為に尽力してくれた母にはもっと自分の為に生きる時間が欲しかった気がします。
そんなこの世にはいない父と母には感謝の気持ちでいっぱいです。
今も尚、私たちの暮らしを見守ってくれているものだと信じています。
◆そんな自身の体験を踏まえつつ、日々野生動物に関わる仕事もしていると、潔い彼らの死に様を垣間見ます。
皆、たったひとりで静かに最後を迎え、骸は自然の分解者の肥やしとなり、土に還ります。
なんてシンプルなのでしょう。
そんな時も色々なメッセージを感じます。
畑でも海でも山でも色んな自然が生への営みが様々な教えを伝えてくれます。
私たちはその教えを真摯に受け止め、学んでいければと思います。
◆父親の死は早過ぎたと思いますが、母親の死は受け止めるのは容易でした。
21歳の時に仙台を引き払って小笠原へ移住するときに
「このままお互いが死ぬまで会えなくても後悔しないね」
と言って、僕は父島へ、母はカナダへ渡りました。
両親どちらもその親より先に亡くなっているので、そういう意味では親不孝だなと思います。
やはり自分より先に子供に死んでほしくないです。
もっと子育て後の楽しい時間を過ごしてほしかったと思います。
そして僕もなるべく周りが分からなくなる前に、気持ちよく最後は笑顔で死にたいと思います。
アメリカ先住民のインディアンは死ぬときに
「今日は死ぬには最高の日だ。次はもっといいだろう」
と言って笑顔で死ぬそうです。
僕もそんなカッコいい死に方ができればいいなと思います。
その為には今を精一杯生きなければ行けませんね!!
そして母がしてきたように、僕も遺される家族や子供たちの為にどう死にたいか日頃から意思を伝えていかなければと思います。