■小笠原に住んで14年。
初めて行った硫黄島。
沢山の事を体験することができました。
言葉では語りつくせないほどの経験でした。
その中でやはり一番印象に残っているのは生々しい戦跡の数々です。
父島や母島も戦争当時は島が要塞化され、
各地に壕や大砲跡が残ります。
空襲や病死、餓死で人が亡くなったといいます。
しかし、硫黄島は違います。
激しい地上戦となり、日米合わせて2万人以上の人が亡くなりました。
そして、今も1万の人のご遺骨が発見されず、埋まったままになっています。
そんな戦跡の数々をめぐる時、
彼らがどんな心境で戦争に駆り出されていたのか…
とても胸が苦しくなりました。
別名「パイプ山」と呼ばれるすり鉢山です。
この景色の広がる釜岩から訪島事業で上陸しました。
1.沈没船の跡
硫黄島訪島事業の玄関口、
釜岩でまず目に付くのは錆びた船体でした。
これは戦後、アメリカが港湾施設を建設しようと船を沈め、
そこにコンクリートで固めようとしたそうですが、
島の隆起が激しく、断念した後だそうです。
今も着実に隆起し続ける硫黄島を象徴するかのような景色です。
2.大阪山壕
ここは平らな硫黄島の中でも少し盛り上がった地形があるところです。
その為に壕や大砲が点在していました。
このアームストロング社製の大砲の横腹には
なんとアメリカの艦砲射撃の弾が刺さったままになっていました。
砲身から覗くと…
見事に貫通しています。
こんな弾が飛び交うのが戦争なのだと訴えている様に、
そのままでした。
近くにはコンクリート製の崩せかけた建物跡もありました。
爆撃でボロボロです。
美しい森を抜けると、
壕が点在しています。
中からは熱風が流れてきます。
硫黄島は火山活動の影響で、
常に地熱が高い所が多いのです。
そんな中、ずっと潜んでいたこと、
なによりこんな壕を沢山掘る労力を考えると言葉がでません…
平成24年度の遺骨収集で発見された遺品の数々です。
ここの壕の中はじっとり汗をかく程度の暑さでした。
その後に行く壕はあっという間に眼鏡が曇ってしまうほどでした。
壕を周る時、
慰霊碑を拝む時、
暑さに耐え、
水と空腹に飢えていった兵士の皆さんを弔い、
水とお米をお供えして周りました。
硫黄島は壁という壁すべてに弾痕があります。
悲しいことに弾痕がない岩はほとんどありません。
弾が刺さったままの箇所も多数ありました。
戦闘の激しさを物語っています。
3.釜場
兵士が食事を作っていた跡地です。
陸軍は基本的に材料を支給され、各自自炊。
海軍はまとめて作って、各自に配給する仕組みだったようです。
この玉名山にある釜場は海軍の204設営隊のものだったそうです。
煙は場所を敵に教えることになるので、
煙を出さない工夫がされていたそうです。
4.飛行機利用のトーチカ
これはなんと飛べなくなった飛行機を骨組みにしたトーチカです。
そのままコンクリートで固めて壕にしています。
中に入ると飛行機であることが分かりました。
近くには水平砲台もありました。
「摺鉢山14糎水平砲」と呼ばれています。摺鉢山の麓に設置されていました。
大きな弾が散乱していました。
米軍艦艇を砲撃したため、米軍の艦砲射撃と爆撃の標的にされ、
この砲を含め13門の火砲が破壊されたそうです。
砲台周辺には、およそ200名が埋葬されていることが判明し、その内152柱が収容されています。
また周辺の壕で有名な日本兵の遺した手紙が発見されたそうです。
5.米軍の戦跡
少し離れたところには米軍のシャーマン戦車が横たわっていました。
この圧倒的な存在感。
どんなに恐ろしいものだったのでしょう。
内部はぼろぼろでしたが、
戦後70年経った今も綺麗に形が残っていることから、
頑丈さが伝わってきます。
米軍の輸送機も羽と胴体が残されていました。
(船首部分は再利用の為に持って行かれたそうです)
内部も圧倒的な広さでした。
こんなものが多くの人と荷物を載せて空を飛ぶのが不思議でなりません。
これはB29のプロペラです。
人の身長より遥かに大きな代物でした。
6.その他
硫黄島のあちこちには今も弾が落ちていました。
地熱と硫黄成分で草木が育たない荒野の場所があり、
そこにただ弾が転がっている…
戦闘時、一体とんな情景だったのでしょうか…
ついこの間空港付近で掘り出されたばかりの機銃台。
上空を見上げたままの機銃台。
艦砲射撃の弾でしょうか?
とても大きな鉄の塊です。
そんな数々の戦跡を巡りました。
見れば見るほど気は重くなり、
戦争の凄まじさを肌で感じました。
亡くなった兵士の皆さんのご冥福を祈ります。
硫黄島の戦闘のドキュメント映像がありましたので、
良かったらご覧ください。
戦闘の凄まじさが伝わっていきます。
戦跡パートⅡに続きます。
初めて行った硫黄島。
沢山の事を体験することができました。
言葉では語りつくせないほどの経験でした。
その中でやはり一番印象に残っているのは生々しい戦跡の数々です。
父島や母島も戦争当時は島が要塞化され、
各地に壕や大砲跡が残ります。
空襲や病死、餓死で人が亡くなったといいます。
しかし、硫黄島は違います。
激しい地上戦となり、日米合わせて2万人以上の人が亡くなりました。
そして、今も1万の人のご遺骨が発見されず、埋まったままになっています。
そんな戦跡の数々をめぐる時、
彼らがどんな心境で戦争に駆り出されていたのか…
とても胸が苦しくなりました。
別名「パイプ山」と呼ばれるすり鉢山です。
この景色の広がる釜岩から訪島事業で上陸しました。
1.沈没船の跡
硫黄島訪島事業の玄関口、
釜岩でまず目に付くのは錆びた船体でした。
これは戦後、アメリカが港湾施設を建設しようと船を沈め、
そこにコンクリートで固めようとしたそうですが、
島の隆起が激しく、断念した後だそうです。
今も着実に隆起し続ける硫黄島を象徴するかのような景色です。
2.大阪山壕
ここは平らな硫黄島の中でも少し盛り上がった地形があるところです。
その為に壕や大砲が点在していました。
このアームストロング社製の大砲の横腹には
なんとアメリカの艦砲射撃の弾が刺さったままになっていました。
砲身から覗くと…
見事に貫通しています。
こんな弾が飛び交うのが戦争なのだと訴えている様に、
そのままでした。
近くにはコンクリート製の崩せかけた建物跡もありました。
爆撃でボロボロです。
美しい森を抜けると、
壕が点在しています。
中からは熱風が流れてきます。
硫黄島は火山活動の影響で、
常に地熱が高い所が多いのです。
そんな中、ずっと潜んでいたこと、
なによりこんな壕を沢山掘る労力を考えると言葉がでません…
平成24年度の遺骨収集で発見された遺品の数々です。
ここの壕の中はじっとり汗をかく程度の暑さでした。
その後に行く壕はあっという間に眼鏡が曇ってしまうほどでした。
壕を周る時、
慰霊碑を拝む時、
暑さに耐え、
水と空腹に飢えていった兵士の皆さんを弔い、
水とお米をお供えして周りました。
硫黄島は壁という壁すべてに弾痕があります。
悲しいことに弾痕がない岩はほとんどありません。
弾が刺さったままの箇所も多数ありました。
戦闘の激しさを物語っています。
3.釜場
兵士が食事を作っていた跡地です。
陸軍は基本的に材料を支給され、各自自炊。
海軍はまとめて作って、各自に配給する仕組みだったようです。
この玉名山にある釜場は海軍の204設営隊のものだったそうです。
煙は場所を敵に教えることになるので、
煙を出さない工夫がされていたそうです。
4.飛行機利用のトーチカ
これはなんと飛べなくなった飛行機を骨組みにしたトーチカです。
そのままコンクリートで固めて壕にしています。
中に入ると飛行機であることが分かりました。
近くには水平砲台もありました。
「摺鉢山14糎水平砲」と呼ばれています。摺鉢山の麓に設置されていました。
大きな弾が散乱していました。
米軍艦艇を砲撃したため、米軍の艦砲射撃と爆撃の標的にされ、
この砲を含め13門の火砲が破壊されたそうです。
砲台周辺には、およそ200名が埋葬されていることが判明し、その内152柱が収容されています。
また周辺の壕で有名な日本兵の遺した手紙が発見されたそうです。
5.米軍の戦跡
少し離れたところには米軍のシャーマン戦車が横たわっていました。
この圧倒的な存在感。
どんなに恐ろしいものだったのでしょう。
内部はぼろぼろでしたが、
戦後70年経った今も綺麗に形が残っていることから、
頑丈さが伝わってきます。
米軍の輸送機も羽と胴体が残されていました。
(船首部分は再利用の為に持って行かれたそうです)
内部も圧倒的な広さでした。
こんなものが多くの人と荷物を載せて空を飛ぶのが不思議でなりません。
これはB29のプロペラです。
人の身長より遥かに大きな代物でした。
6.その他
硫黄島のあちこちには今も弾が落ちていました。
地熱と硫黄成分で草木が育たない荒野の場所があり、
そこにただ弾が転がっている…
戦闘時、一体とんな情景だったのでしょうか…
ついこの間空港付近で掘り出されたばかりの機銃台。
上空を見上げたままの機銃台。
艦砲射撃の弾でしょうか?
とても大きな鉄の塊です。
そんな数々の戦跡を巡りました。
見れば見るほど気は重くなり、
戦争の凄まじさを肌で感じました。
亡くなった兵士の皆さんのご冥福を祈ります。
硫黄島の戦闘のドキュメント映像がありましたので、
良かったらご覧ください。
戦闘の凄まじさが伝わっていきます。
戦跡パートⅡに続きます。