■たった1泊2日の滞在だったのにあまりに思うことが多過ぎた硫黄島。
今回は硫黄島の暮らしに標準を定めていきたいと思います。
硫黄島は行ってみて、その大地に立ってみると、
そこが戦争さえなければ楽園であったと容易に想像ができる場所でした。
美しい花。
平坦な地形。
温暖な気候。
夜露のみで作物は育つ風土。
火山灰質の扱いやすい土。
魚影の濃さ。
たった2日間の滞在でしたが、それを感じるには十分な島でした。
戦争というもっとも愚かな行為をこんなにも悲しく感じる場所もなかなかないと思いました。
あんなに楽園であったであろう硫黄島ですが、
その頃の面影はほとんど残っていないのです!!
道路やダートの周囲のほとんどはギンネムやシマグワの雑木林でした。
ですが、僅かに残っている作物(パイナップルやレモングラス等)が、
旧島民の集落跡に残っており、
訪れた遺族や旧島民の皆さんは、それらを収穫していました。
藪の中から嬉しそうにパイナップルを持って出てきた姿を見て、
まだ戦後が終わっていないことを痛感しました。
戦前は良質な硫黄の採掘はもちろん、
他には製糖、レモングラス栽培で油を摂ったり、
パイナップル等の熱帯果実や綿花も有名だったようです。
もちろん飲み水や生活用水に苦労することはあったようですが、
それ以外は本当に住みやすい島だったようです。
■そんなかすかな戦前の爪痕をお伝えして行ければと思います。
至る所に戦前に製糖が盛んな時期に栽培されたサトウキビが残っていました。
硫黄島トウガラシも発見しました!
小さいながらも旨味も辛味もある、妻が大好きなトウガラシが自生していました。
また、パッションフルーツの原種!?、仲間でもあるクサトケイソウが実っていました。
試しに実を割ってみると、白いパッション!
味はほんのり甘くないパッションでした♪
花もまさにパッションフルーツでした!
これは硫黄島神社です。
戦前に建てられましたが、戦争で破壊されたために、戦後に建て直されたそうです。
鳥居の奥には小さな祠がありました。
とある場所には貯水槽がありました。
船の中でお話しできた旧島民の方によると、
米軍や日本軍は水道管を引いて水道を作ろうとしたけど、
熱くて飲めず、
硫黄島では雨水を貯める貯水槽が大事なんだと言っていました。
コンクリートの貯水槽の水は冷たく、フタをすればボウフラもわかず、
有効利用できたと言っていました。
雨水を有効に貯める為に屋根はシュロ葺き屋根からみんなトタンに変わっていったそうです。
壕を掘っている兵士たちも、雨の時は作業を止めて、
全員で器を持って水を集めたというから、
水の切実さが伝わりますね。
(兵隊は2万人以上いたので、圧倒的に足りなかった様です)
■硫黄島の名の通り、至る所で硫黄の匂いがして、
噴煙を上げている箇所がありました。
今もなお蒸気が立ち上り、海上からも観察できます。
絶えずずっと蒸気を出しています。
この熱気で卵やイモを蒸して食べていたそうです。
ここは「硫黄ヶ丘」という、硫黄成分と熱で全く植物が生えていない荒野でした。
■硫黄島の玄関口のすぐそばにはガソリン給油施設がありました。
硫黄島は現在も隆起が続いていて、地殻変動が激しいので、
給油施設とタンクを結ぶパイプラインがよく破損してしまうそうです。
道のりが面白いように凸凹していたのも頷けます。
硫黄島からは南硫黄島が望めました。
東京島嶼最高峰の高さを誇る南硫黄島の山がそびえていました。
きっと戦前も戦闘中も変わらず見える風景の一つなのではないでしょうか。
一直線の道ばかりが島の周囲を走っています。
戦前の景色を一度は見てみたかったです。
ほとんど戦前の名残りが残っていないのがとても切ない硫黄島。
そのわずかな戦前の暮らしを垣間見ると、
それらを失わせた戦争の愚かさを感じずにはいられませんでした。
訪島記⑦に続く
今回は硫黄島の暮らしに標準を定めていきたいと思います。
硫黄島は行ってみて、その大地に立ってみると、
そこが戦争さえなければ楽園であったと容易に想像ができる場所でした。
美しい花。
平坦な地形。
温暖な気候。
夜露のみで作物は育つ風土。
火山灰質の扱いやすい土。
魚影の濃さ。
たった2日間の滞在でしたが、それを感じるには十分な島でした。
戦争というもっとも愚かな行為をこんなにも悲しく感じる場所もなかなかないと思いました。
あんなに楽園であったであろう硫黄島ですが、
その頃の面影はほとんど残っていないのです!!
道路やダートの周囲のほとんどはギンネムやシマグワの雑木林でした。
ですが、僅かに残っている作物(パイナップルやレモングラス等)が、
旧島民の集落跡に残っており、
訪れた遺族や旧島民の皆さんは、それらを収穫していました。
藪の中から嬉しそうにパイナップルを持って出てきた姿を見て、
まだ戦後が終わっていないことを痛感しました。
戦前は良質な硫黄の採掘はもちろん、
他には製糖、レモングラス栽培で油を摂ったり、
パイナップル等の熱帯果実や綿花も有名だったようです。
もちろん飲み水や生活用水に苦労することはあったようですが、
それ以外は本当に住みやすい島だったようです。
■そんなかすかな戦前の爪痕をお伝えして行ければと思います。
至る所に戦前に製糖が盛んな時期に栽培されたサトウキビが残っていました。
硫黄島トウガラシも発見しました!
小さいながらも旨味も辛味もある、妻が大好きなトウガラシが自生していました。
また、パッションフルーツの原種!?、仲間でもあるクサトケイソウが実っていました。
試しに実を割ってみると、白いパッション!
味はほんのり甘くないパッションでした♪
花もまさにパッションフルーツでした!
これは硫黄島神社です。
戦前に建てられましたが、戦争で破壊されたために、戦後に建て直されたそうです。
鳥居の奥には小さな祠がありました。
とある場所には貯水槽がありました。
船の中でお話しできた旧島民の方によると、
米軍や日本軍は水道管を引いて水道を作ろうとしたけど、
熱くて飲めず、
硫黄島では雨水を貯める貯水槽が大事なんだと言っていました。
コンクリートの貯水槽の水は冷たく、フタをすればボウフラもわかず、
有効利用できたと言っていました。
雨水を有効に貯める為に屋根はシュロ葺き屋根からみんなトタンに変わっていったそうです。
壕を掘っている兵士たちも、雨の時は作業を止めて、
全員で器を持って水を集めたというから、
水の切実さが伝わりますね。
(兵隊は2万人以上いたので、圧倒的に足りなかった様です)
■硫黄島の名の通り、至る所で硫黄の匂いがして、
噴煙を上げている箇所がありました。
今もなお蒸気が立ち上り、海上からも観察できます。
絶えずずっと蒸気を出しています。
この熱気で卵やイモを蒸して食べていたそうです。
ここは「硫黄ヶ丘」という、硫黄成分と熱で全く植物が生えていない荒野でした。
■硫黄島の玄関口のすぐそばにはガソリン給油施設がありました。
硫黄島は現在も隆起が続いていて、地殻変動が激しいので、
給油施設とタンクを結ぶパイプラインがよく破損してしまうそうです。
道のりが面白いように凸凹していたのも頷けます。
硫黄島からは南硫黄島が望めました。
東京島嶼最高峰の高さを誇る南硫黄島の山がそびえていました。
きっと戦前も戦闘中も変わらず見える風景の一つなのではないでしょうか。
一直線の道ばかりが島の周囲を走っています。
戦前の景色を一度は見てみたかったです。
ほとんど戦前の名残りが残っていないのがとても切ない硫黄島。
そのわずかな戦前の暮らしを垣間見ると、
それらを失わせた戦争の愚かさを感じずにはいられませんでした。
訪島記⑦に続く