■昨日、仙台の祖母が亡くなりました。
90歳だした。
3週間前に近所の道端で倒れていて、
クモ膜下出血だったそうです。
たまたま倒れるのを見てくれてい方がいて、
すぐに救急車を呼んでくれて、
手術し、数日後、意識も回復していました。
だけど、
たった3週間で天国に登って行ってしまいました。
すごい人でした。
今でも大好きです♪
いつも人の世話をしていて、
いつも慕う人に囲まれている人でした。
■とってもひょうきんな人で
すぐに歌うし、踊りだしてしまうばーちゃん。
既成概念とか、
周りの評価とか全く関係なくて、
あの世代なのに
何か国語も話せるし、
読書家だし、
絵も写真も音楽も大好き。
最近はなんとFacebookやInstagramも使いこなしたばーちゃん。
一度も「昔の人だから」みたいな感覚を感じたことがないかもです。
いつも先鋭的に笑顔で生きてる人でした。
僕が小学生の時にBOOWYやキックボクシングを教えてくれたのも祖母です。
うちにテレビがないので、プロレスや生き物地球紀行を観たい時、
いつもばーちゃんの家に行ってました。
僕だけでなく、誰に対しても優しかったです。
■僕の母が56歳でカナダで亡くなり、
祖母は娘に先立たれてどんなに悲しかっただろうと思います。
身体も弱くて、眼も心臓も悪くて、
ばーちゃんは「あの子はよく生きた。頑張った」と。
今頃、天国でようやく再開して、ゲラゲラ笑っている事だろうと思います。
あれだけ人の世話してきたのに、
自分が世話をされるのがちょっとで、
あっという間に逝ってしまうのは、
なんかばーちゃんらしいと思います。
おがさわら丸が出港してすぐの今日。
葬儀は明日。
僕が仙台に駆けつけれる訳じゃないけれど、
姉や祖母の息子ファミリーたちが
みんなで頑張ってやってくれている。
本当に感謝です。
島からはありったけの愛と、花を贈ります。
■そんなトリッキーなばーちゃん。
我が親戚は「お母さん」とか「おばーちゃん」
というよりは何故か「〇〇さん」と名前で呼ぶのです。
父は僕が13歳の時に亡くなっているので、
写真を見て似てるなぁとは思うけど、
精神性は思いっきりばーちゃんから受け継いでいると思います。
それと同様にうちの長女にもその面影をみます。
踊りだす時や、
人と接する時にふと感じるのです。
中学を卒業して、
単身で海外に行ってしまうのも、
なんだか色んな人に愛されるのも、
ばーちゃんのスピリットのような気がしてなりません。
小さな体で、
ピースの天火オーブンを駆使しながら、
色んな料理を振舞って、
献身的にじーちゃんの世話をしながら、
色んな人に囲まれて生きるばーちゃんは僕の誇りです。
■僕にとっては去年の7月に仙台にバイクで行った時に逢ったのが
ばーちゃんとの最後になりました。
家の周りの伐採をしたり、
雨漏りを修理したり、
網戸を張り替えたり、
色んな事をしながら、
僕が子供の頃に感じていた家の大きさは、
ミニチュアの様に小さく感じていました。
僕が21歳の時に、
僕は小笠原に行き、
母はカナダに行くとき、
「もうこれでこのまま会えなくても、後悔はないよね」
そう言い合って、別れました。
その後、母は一度だけ小笠原に来て、
色んな人とご縁が出来て楽しそうに過ごしていたのが本当の最後でした。
去年の夏にじーちゃん、ばーちゃんに会った時、
「もうお互い生きて会うのはこれで最後かもね」
僕がバイク事故で死ぬかも知れないし、
じーちゃんばーちゃんが何らかの形でお別れになるかもしれない、と。
それでも、笑顔で別れられる。
そんな間柄でとても良かったと思っています。
戦争、空襲、災害を越えて、
90年間、本当にお疲れ様でした。
きっとまた会いに行くね。
今日の母島の美しい夕陽を捧げます。
90歳だした。
3週間前に近所の道端で倒れていて、
クモ膜下出血だったそうです。
たまたま倒れるのを見てくれてい方がいて、
すぐに救急車を呼んでくれて、
手術し、数日後、意識も回復していました。
だけど、
たった3週間で天国に登って行ってしまいました。
すごい人でした。
今でも大好きです♪
いつも人の世話をしていて、
いつも慕う人に囲まれている人でした。
■とってもひょうきんな人で
すぐに歌うし、踊りだしてしまうばーちゃん。
既成概念とか、
周りの評価とか全く関係なくて、
あの世代なのに
何か国語も話せるし、
読書家だし、
絵も写真も音楽も大好き。
最近はなんとFacebookやInstagramも使いこなしたばーちゃん。
一度も「昔の人だから」みたいな感覚を感じたことがないかもです。
いつも先鋭的に笑顔で生きてる人でした。
僕が小学生の時にBOOWYやキックボクシングを教えてくれたのも祖母です。
うちにテレビがないので、プロレスや生き物地球紀行を観たい時、
いつもばーちゃんの家に行ってました。
僕だけでなく、誰に対しても優しかったです。
■僕の母が56歳でカナダで亡くなり、
祖母は娘に先立たれてどんなに悲しかっただろうと思います。
身体も弱くて、眼も心臓も悪くて、
ばーちゃんは「あの子はよく生きた。頑張った」と。
今頃、天国でようやく再開して、ゲラゲラ笑っている事だろうと思います。
あれだけ人の世話してきたのに、
自分が世話をされるのがちょっとで、
あっという間に逝ってしまうのは、
なんかばーちゃんらしいと思います。
おがさわら丸が出港してすぐの今日。
葬儀は明日。
僕が仙台に駆けつけれる訳じゃないけれど、
姉や祖母の息子ファミリーたちが
みんなで頑張ってやってくれている。
本当に感謝です。
島からはありったけの愛と、花を贈ります。
■そんなトリッキーなばーちゃん。
我が親戚は「お母さん」とか「おばーちゃん」
というよりは何故か「〇〇さん」と名前で呼ぶのです。
父は僕が13歳の時に亡くなっているので、
写真を見て似てるなぁとは思うけど、
精神性は思いっきりばーちゃんから受け継いでいると思います。
それと同様にうちの長女にもその面影をみます。
踊りだす時や、
人と接する時にふと感じるのです。
中学を卒業して、
単身で海外に行ってしまうのも、
なんだか色んな人に愛されるのも、
ばーちゃんのスピリットのような気がしてなりません。
小さな体で、
ピースの天火オーブンを駆使しながら、
色んな料理を振舞って、
献身的にじーちゃんの世話をしながら、
色んな人に囲まれて生きるばーちゃんは僕の誇りです。
■僕にとっては去年の7月に仙台にバイクで行った時に逢ったのが
ばーちゃんとの最後になりました。
家の周りの伐採をしたり、
雨漏りを修理したり、
網戸を張り替えたり、
色んな事をしながら、
僕が子供の頃に感じていた家の大きさは、
ミニチュアの様に小さく感じていました。
僕が21歳の時に、
僕は小笠原に行き、
母はカナダに行くとき、
「もうこれでこのまま会えなくても、後悔はないよね」
そう言い合って、別れました。
その後、母は一度だけ小笠原に来て、
色んな人とご縁が出来て楽しそうに過ごしていたのが本当の最後でした。
去年の夏にじーちゃん、ばーちゃんに会った時、
「もうお互い生きて会うのはこれで最後かもね」
僕がバイク事故で死ぬかも知れないし、
じーちゃんばーちゃんが何らかの形でお別れになるかもしれない、と。
それでも、笑顔で別れられる。
そんな間柄でとても良かったと思っています。
戦争、空襲、災害を越えて、
90年間、本当にお疲れ様でした。
きっとまた会いに行くね。
今日の母島の美しい夕陽を捧げます。
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