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その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

硫黄島の暮らしの跡 ~ 8年ぶりの硫黄島②

2024年05月07日 | 硫黄島
①硫黄島行政視察のつづき

■前回の硫黄島記事からだいぶ間隔があいてしまいました☆
春は特に目まぐるしく、色んな島の日常があるので、
仕方ないと自分に言い聞かせつつ、
硫黄島視察の報告は自分のクレアナ(使命、責任)と思っているので、
ちょこちょことやっていきたいと思います。

さて、今回は今回の視察のメインとなった、
島暮らしの跡を巡る部分を書きたいと思います。

今までの視察では、戦跡などがメインだったそうですが、
今回は渋谷村長のご意向で、
旧島民の会の1世、2世、3世の皆さんと共に、
戦前の暮らしを意識しながら巡るという、
とても貴重な視察となりました。

過去の視察に参加してきた議員先輩も、
「今までない視察だよ~」と言っていました。

特に印象深いのが硫黄島で生まれて、
11歳で強制疎開で島を離れた奥山登喜子さんのお話でした。


自衛隊員の方に支えられながらも、
色んな場所について、昔は自分の家があった場所だったなど、
色んな話をしてくれたのです。

今の硫黄島はほとんどがジャングル化していて、
こんな景色が続きます。


■今回の視察では、自衛隊の隊員さんたちが、
旧島民の皆さんから聞いた話を参考に、
硫黄島の様々な場所を開墾してくれていて、
新たに見つかった集落跡がいくつもあり、
そこを重点的にめぐりました。

上記の写真のように、硫黄島は圧倒的なギンネムと桑の繁茂で、
普通ではその中に何があるかなんて見当もつきません。

しかし、過去の硫黄島訪島の時もそうでしたが、
旧島民の方はそのジャングルの中に入って行って、
自分の集落跡を発見し、トウガラシやパイナップルなどを手に
戻ってくるのです。

本当に硫黄島は楽園だったのだなと感じさせられました。


これが硫黄島の唐辛子です。
大きさはネズミの糞ほどですが、
その小ささでは計り知れないほど、辛みがあり、旨味があります♪

僕はあまり辛いのが得意なタイプではないのですが、
硫黄島唐辛子の青い状態の旨味と辛みのバランスが好きで、
お刺身の醬油に入れて、箸の先で潰すと最高の味が出てきます♡

唐辛子は雨が少ない地域ほど辛みが増すと言われています。
父島にも母島にも自生(母島は少ない)していますが、
世界に誇る香辛料なのではないかと思っています(^^♪



■こちらは硫黄島でこの1年以内に開墾して発見された、
暮らしの跡です。
サトウキビを擂るための設備だそうです。

母島では石臼が多いのに対して、
こちらの臼は鋼鉄製でした。


隊員さんが視察に合わせて、
島に残るサトウキビも用意してくれていいました。
本当にありがとうございます!


この溝はサトウキビを絞った汁が流れていく部分で、
その先で受け止めて、煮込んでいく行程に入っていきます。
小笠原で外来種として問題になっているアカギは、
このサトウキビを煮るための薪として導入されたそうです。


そんな暮らしの跡にもしっかりと弾痕が残っていました。
悲しい事ですが、硫黄島の岩やコンクリートに
弾痕がない場所がほとんどないほど、
島はそのすべてが戦場になっていたのだと感じます。


開墾にあたって、出てきた瓶などの暮らしの残骸も、
集められていました。
父島でも母島でも同様に山の中に瓶などがあったりします。
畑からライフルの弾が出てきたりします。



戦争というものがどれだけ暮らしに影響を与えているのか、
そこで暮らしていて、戦後80年経っても未だ島に戻れていない方と
硫黄島を巡っていると、
その圧倒的な理不尽さに言葉を失います。


「どうか、硫黄島を忘れないでください!」
硫黄島から返ってきた翌日の明治大学で行われた
シンポジウムでの登喜子さんの言葉が、
ずっと僕の頭の中でリフレインしています。
生涯、忘れられない言葉です。


■大きなガジュマルがある場所に案内してもらいました。
こちらも最近の開墾で集落の跡が見つかったといいます。


小笠原は沖縄と同じく、防風林としてガジュマルが植えられてきた経緯があります。
大きなガジュマルがある場所は人が暮らした場所であった事が多いのです。


近くには墓地がありました。
硫黄島のお墓ではとにかく水をよくかけて供養します。
戦争当時、みんな飢えと渇きで苦しんだからです。

僕も母島のレジェンドから頼まれた分も含めて、
沢山の水を撒いてきました。
先人たちのおかげで、今の暮らしがあるのです。


これは登喜子さんが住んでいた集落近くに残っていた、
硫黄島のパイナップルです。
今の母島ではあまりみかけない細い葉っぱの品種です。
こうして、代が変わりつつも今も戦前のものが残って息吹いている。
これってとてもすごいことだと思うのです。


■こちらは硫黄が丘にある船見台という岩です。
以前はここから海が見えたはずだといいますが、
硫黄島の活発な火山活動の隆起の影響か、
今はここからは海が見えないとのことでした。


近くにはレモングラスがありました。
これは戦前の硫黄島の産業の原料の一つで、
レモングラスから油を搾っていたようです。


その際にはこの硫黄が丘の常に沸き立っている
地熱や蒸気が使われていたそうです。
今もなお火山活動が続き、
8年前の景色とは全く変わっていた硫黄島。
島が生きている、とはまさにこの事と感じる瞬間です。


硫黄が丘ではトケイソウが美しい花を咲かせていました。
これは今小笠原の主要作物であるパッションフルーツの原種です。
8年前は6月だったので実が実っていて、
薄いですがほのかに甘いパッションの風味がしました。


これは硫黄島の各所に散らばる実です。
これは何の身なのでしょう?
あまり植物の生えない硫黄が立ち込めるエリアにも多くて、
いったい何なのかわかる人、教えてください‼


■集落跡を巡ると、今まで見えてこなかった硫黄島の素顔が見えてきます。

こちらは硫黄島で月下美人と呼ばれるもの。
母島ではドラゴンフルーツと呼んでいるものにそっくりです。
(逆に母島で月下美人と呼ばれるものは、
 花はドラゴンフルーツににていますが、葉っぱがもっと薄いです)


実際の学名よりも、その土地で呼ばれている名前に僕はドラマを感じているので、
クロアシアホウドリが硫黄島ではクロアホウドリと呼ばれている、
その部分を大事にしたいと思っていまします。


自衛隊の方の案内で、今までになかった景色を見ていると言う先輩議員。
普段は自衛隊の業務があるので、
休日にこうした開墾や発掘の作業をしてくれているそうで、
本当に頭が下がりっぱなしでした。

硫黄島の自衛隊の方々は、
島の急患搬送の為にとても重要な役割を課せられています。
本当にありがとうございます‼

こうした最近は近自然工法と呼ばれる様な、
みんなが歩きやすいような道の整備まで
やってくれているのです。

メインの滑走路付近には学校の跡が発見され、
そこではこうしたトイレの残骸もみつかっていました。


ここも同じく学校跡です。
このような丸い形のものは何に使われているかわかりませんが、
明らかに人が暮らしていた場所だそうです。
約80年前、11歳まで過ごしていた登喜子さんの記憶力は
本当にすごいです!


こちらは硫黄島の遺骨収集の中心的人物になっている方の
一族が暮らしていた集落の生活跡だそうです。


お釜の跡なども残っていました。
この生々しい暮らしの跡の数々が、
まだ硫黄島が戦後が終わっていないことを感じさせてくれます。


大きな大きなパパイヤの木。
硫黄島は楽園だったことを行くたびに感じさせられます。

そんな故郷に帰れないでいる旧島民も戦後80年になり、
1世が硫黄島に来れるにはギリギリの時代になっています。

僕たちはこうした機会に視察に伺わせて頂いているので、
できる限り多くの人に伝えなければいけないと感じています。

「どうか、硫黄島を忘れないでください」
小笠原に住んでいる人はもちろん、
多くの人々に知っていただきたい硫黄島です。



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