■ハウオリ・ラ・ハナウ( Hau'oli la hanau)、これはハワイ語でHappy Birthdayの意味があります。
我が家には二人の娘がいるのですが、誕生日は10月の中旬に1日違いで生まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/db/0dee2b0b5b24e33f15a483870b0a7e71.jpg)
この写真は2010年6月、長女が6歳、次女が0歳8か月の頃の写真です。可愛い~♡
今回は長女がカナダ留学しているおかげか、日本とカナダの時差があって、
二人の誕生日がなんと同じ瞬間に重なっている時間があります。(日本がカナダ西部より16時間進んでいるのです。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/4a/08378452040a0bb4e5a97cdfe84c49f1.jpg)
母島との距離を測ってみたらなんと約7,777㎞も離れていました)^o^(
それを記念して、6歳離れた二人の娘が生まれるまでの思い出を書いてみようと思います。
どちらも平坦な道のりではありませんでした。
我が家に可愛い娘が二人も授かったことは、
奇跡であり、本当に有難いことです。
22歳という、若くして父親になった僕は、
最初から大人だ、父親だなんて自覚は微塵もなく(笑)、
子供達と一緒に過ごす日々のお蔭で、一緒に成長させてもらって来ています。
今でも全然まともな父親にも、大人にもなれている気は一切しないのですが(笑)、
間違いなく素敵で魅力たっぷりな娘に育ってくれていると思っています。
共に育ててくれている、
この家族、
島のみんな、
この大自然と、
ご縁のある出来事すべてに深く感謝します。
どうもありがとうございます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/d7/ca9a75277febb062911b6e7c2deab958.jpg)
日赤で入院中の妻を見舞う22歳の僕です(笑)。
■さて、今年17歳に長女は2003年に東京の杉並区にあるーファンー黄助産院で産声をあげました。
しかし、その無事に生まれるまでが波乱万丈でした。
当時22歳の若い僕は、結婚したばかりで何も分からずにがむしゃらに生活をしていました。
仕事は父島の小笠原ユースホステルで働いていました。
お金のない僕たちは、父島の元飯場の部屋を間借りし、
お風呂とトイレが共同の中で暮らしていました。
当時は、等身大の僕が一生懸命というか、精一杯に生きていたのですが、
本当に何もかもが初めてで、今思っても幼い父親の僕は何も分からない故に、
色々自由だった気がします(笑)。
妻は初めての妊娠で悪阻(つわり)や体の変化にとても戸惑い、苦労していたように思います。
今でもよく覚えているのは
「何か体に悪いものが食べたい!!」
と事あるごとに妻が言っていたのを思い出します(笑)。
つわりで痩せ続ける状況の中、
食べれるものは何でも食べた気がします。
当時、ちょうど食生活に気をつけようと思い始めた矢先のことでした。
お菓子や、衣が付いた揚げ物を特に好んでいた気がします(*^_^*)
つわりというものは、
女性自身には体に新しい命が宿り、大きな変化の為にあると思うのですが、
パートナーに対しては、全然事の重大さに自覚できない男に対して、
【緊急事態発生!フォローすべし!】のためのメッセージを伝える為につわりはある気が勝手にしています(笑)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/d1/e33e7096c6b85ce8fa5fa8703ef62594.jpg)
■さて、妻のお腹が目に見えて膨らんできている最中、(妊娠28週くらいだったかな?)
お腹の張る状況が続き、診療所で「切迫早産」の診断を受けました。
つまり、早産してしまう兆候が見られるので、なるべく安静にして十分な週数まで過ごしてくださいというものだと思っています。
妻は家で横になって、あまり立ち歩いてはいけない日々が始まりました。
今も当時も小笠原では出産できる施設はなく、
皆、妊婦は32週までに定期船おがさわら丸に乗らなければいけません。
しかし、切迫早産で症状が少しずつ悪化している中、
診療所の医師が揺れる可能性のあるおがさわら丸での上京は厳しいと判断し、
内地に飛行艇で緊急搬送されることが決まりました。
急な展開に、大慌てした記憶があります。
確か午後に診断されて、診療所に入院し、翌日昼前くらいに搬送するというものだった気がします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/97/684b368ab67ef5dc325abe22b00711a8.jpg)
日赤で入院中の妻を見舞う22歳の僕。この頃はよく頭にタオルを巻いていました。
■暖かいユースホステルのオーナーと同僚、お客さんたちが色々贈り物をくれたり、
自衛隊基地から飛び立つときに、青灯台で見送りダイブをしてくれていました(#^.^#)
初めての飛行艇もドキドキでしたが、それ以上にドキドキしていたのが一緒に同乗してくれていた、
産科の研修医のドクターでした。
ポケットに沢山の参考書を詰めて、
万が一搬送中に出産の可能性も考え、色んな用意をして内地から乗って来てくれていました。
その為か、顔が青白く緊張がMAXの表情でした。
貼り止めの点滴している状態での搬送でしたが、点滴のペースをコントロールする機械がカテーテルと合わず、
悪戦苦闘していました。
研修医のTさんは頭真っ白だったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/90/6eeb2d616c5cfced1e592cd0ac5c0dd0.jpg)
そこで、元助産師の妻が、「何秒に1滴のペースを維持して下さい」みたいな指示を出していました。
すると、研修医Tさんはギョッとして「ひょっとして医療関係者ですか?」と聞いてきて、
そうだと知った瞬間の安堵した表情が忘れられません。
本当に急にわざわざ内地から飛行艇で乗って来てくれて、感謝です。
ありがとうございます。
タンカーに縛り付けられている妻はまったく動けない状態ですが、
ただの付添いの僕は外の初めて見る父島の美しい空の景色を眺めていました。
この搬送には本当に沢山の人が関わり、多額の費用がかかっています。
本土まで1000kmという超遠隔離島の暮らしを支えてくれている
搬送に携わってくれた自衛隊、村役場、診療所の皆さん、
沢山のフォローをしてくれたユースの皆さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
妻も僕も妊娠期間中、お腹の子の命が絶対大丈夫という確信はなく、
ずっと不安がある中、過ごしていました。
新しい命が生まれるということは、少しも当たり前の事ではなくて、
本当に奇跡なんだなと今はさらにそう思えるようになってきました。
■飛行艇は羽田空港(厚木基地だったかも)に島を離陸して3~4時間くらいで着陸しました。
普段24時間かかる距離をあっという間に渡ったものなので時差ボケを起こすほどでした(笑)。
飛行場から搬送される予定の広尾の日赤医療センターまでは救急車で運ばれていきました。
この救急車がまあ飛ばすし、揺れるので、切迫早産の妻にはとても辛かったようです。
一生懸命搬送してくれている消防庁の方も、
どいてくれない一般車や周囲の愚痴を漏らしていて、なんだかとてもイライラしていました。
正直、そんなに急ぐよりも、揺れないで搬送してほしい、そう伝えてからは少しマシになった気がします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/40/fe2f619bb31281e9d3ac2ffdc20877c0.jpg)
日赤の病室からの景色。ほとんど動けない妻にとっての変わらない広尾の景色です。
のどかな島から、一気に都会に降り立った僕たちは、
暮らしている人たちの大きな変化に戸惑っていました。
無事に日赤医療センターについて、参加のドクターに
「私は助産院で出産したい希望があります」と伝え、それを承諾してもらいました。
生まれても大丈夫な36週までの50日間、日赤に入院することになったのです。
日赤医療センターはお産、産科にとても力を入れていて、
希望者にはフリースタイル出産、産後母子同室も実施していて、
産科病棟で働く看護師はみんな助産師の資格を持っているという徹底ぶりでした。
僕は日赤のお見舞い家族関係者の一時滞在用のお部屋をお借りすることができて、
超有難い低価格の滞在をすることができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/9f/26b7c8a8794ee4d34c36a0a4cd9efe72.jpg)
ワンルームのお部屋で病院の裏手にありました。
トイレもバスも台所もついていて、お金のない僕たちにはとても助かる滞在先でした(*^。^*)
妻の面会は毎日あるのですが、
広尾商店街のお弁当屋さんで働くことになり、
新しい土地での生活が始まりました。
丁度、初めてのデジカメを買ったのもこの頃です。
写真が主に入院以降なのはその為です。
携帯電話はあったけど、SNSもスマホもない時代です。
そんな日々がなんか懐かしく思えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/ad/adc905776dc117cd17ec0a6f1ceab149.jpg)
■「助産院で畳の上で子どもを産みたい」
これが妻が妊娠してから言っていたことでした。
お産なんて何も分からない22歳の僕。
病院の廊下で手術中のランプを眺めて、産声を聞いて誕生を知る程度しか知識がない僕にとって、
妻からの申し出はまるっきり未知なるものでした。
助産師であった妻はアクティブバース、つまり受け身ではなく、主体的にお産に臨みたいという姿勢でした。
超新米パパの僕にとっては何もかもが新鮮過ぎる日々でした。
しかし、あまりの若さというものは
時に色んな現象を素直に受け止めれる心の柔軟さがある気がします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/b2/fb0471197251c82d7ef44a1e6a31e624.jpg)
次第に助産院で畳の上で産みたいという意味が分かって来ました。
病院で管理されたお産ではなく、できるかぎり自然な現象として、
そして自分の力で新しい命を迎えたい。
36週に退院するまでは、
面会に来てくれる友人や、慣れない共同の病室での日々、
都会での暮らしに戸惑いながらも楽しく日常が過ぎて行きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/93/a7ab34264d5bccc105583df5ce8c0d3a.jpg)
変わらない景色の中。お腹の張りが辛くて、寝たきりの妻は腰が痛くなったり、
色んな辛い状況もあった気がします。
お腹の上からも動いている赤ちゃんを僕も感じながら、
一生懸命にその日々を生きていた気がします。
50日間の入院を経て、ようやく退院する日を迎えることができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/1a/ed747bbd4891400b4b70b295589a57d2.jpg)
日赤から歩いて麻布十番の浪速屋総本店のたい焼きをよく買いに行った覚えがあります。
同じ病室の皆さんにも届けたりした気がします。
当時、同室だった妊婦同士は今でも年賀状とかで交流が続いています(*^。^*)
妊娠、搬送、退院、出産、産後、
どの場面でも大変ですが、この退院するまでが一つの節目だった気がします。
二人の娘のダブル誕生日をきっかけに書いてみましたが、
いつも通りあまりに長くなりそうなので、複数回に記事を分けることにします。
続きは次回②をお楽しみに(#^.^#)
我が家には二人の娘がいるのですが、誕生日は10月の中旬に1日違いで生まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/db/0dee2b0b5b24e33f15a483870b0a7e71.jpg)
この写真は2010年6月、長女が6歳、次女が0歳8か月の頃の写真です。可愛い~♡
今回は長女がカナダ留学しているおかげか、日本とカナダの時差があって、
二人の誕生日がなんと同じ瞬間に重なっている時間があります。(日本がカナダ西部より16時間進んでいるのです。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/4a/08378452040a0bb4e5a97cdfe84c49f1.jpg)
母島との距離を測ってみたらなんと約7,777㎞も離れていました)^o^(
それを記念して、6歳離れた二人の娘が生まれるまでの思い出を書いてみようと思います。
どちらも平坦な道のりではありませんでした。
我が家に可愛い娘が二人も授かったことは、
奇跡であり、本当に有難いことです。
22歳という、若くして父親になった僕は、
最初から大人だ、父親だなんて自覚は微塵もなく(笑)、
子供達と一緒に過ごす日々のお蔭で、一緒に成長させてもらって来ています。
今でも全然まともな父親にも、大人にもなれている気は一切しないのですが(笑)、
間違いなく素敵で魅力たっぷりな娘に育ってくれていると思っています。
共に育ててくれている、
この家族、
島のみんな、
この大自然と、
ご縁のある出来事すべてに深く感謝します。
どうもありがとうございます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/d7/ca9a75277febb062911b6e7c2deab958.jpg)
日赤で入院中の妻を見舞う22歳の僕です(笑)。
■さて、今年17歳に長女は2003年に東京の杉並区にあるーファンー黄助産院で産声をあげました。
しかし、その無事に生まれるまでが波乱万丈でした。
当時22歳の若い僕は、結婚したばかりで何も分からずにがむしゃらに生活をしていました。
仕事は父島の小笠原ユースホステルで働いていました。
お金のない僕たちは、父島の元飯場の部屋を間借りし、
お風呂とトイレが共同の中で暮らしていました。
当時は、等身大の僕が一生懸命というか、精一杯に生きていたのですが、
本当に何もかもが初めてで、今思っても幼い父親の僕は何も分からない故に、
色々自由だった気がします(笑)。
妻は初めての妊娠で悪阻(つわり)や体の変化にとても戸惑い、苦労していたように思います。
今でもよく覚えているのは
「何か体に悪いものが食べたい!!」
と事あるごとに妻が言っていたのを思い出します(笑)。
つわりで痩せ続ける状況の中、
食べれるものは何でも食べた気がします。
当時、ちょうど食生活に気をつけようと思い始めた矢先のことでした。
お菓子や、衣が付いた揚げ物を特に好んでいた気がします(*^_^*)
つわりというものは、
女性自身には体に新しい命が宿り、大きな変化の為にあると思うのですが、
パートナーに対しては、全然事の重大さに自覚できない男に対して、
【緊急事態発生!フォローすべし!】のためのメッセージを伝える為につわりはある気が勝手にしています(笑)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/d1/e33e7096c6b85ce8fa5fa8703ef62594.jpg)
■さて、妻のお腹が目に見えて膨らんできている最中、(妊娠28週くらいだったかな?)
お腹の張る状況が続き、診療所で「切迫早産」の診断を受けました。
つまり、早産してしまう兆候が見られるので、なるべく安静にして十分な週数まで過ごしてくださいというものだと思っています。
妻は家で横になって、あまり立ち歩いてはいけない日々が始まりました。
今も当時も小笠原では出産できる施設はなく、
皆、妊婦は32週までに定期船おがさわら丸に乗らなければいけません。
しかし、切迫早産で症状が少しずつ悪化している中、
診療所の医師が揺れる可能性のあるおがさわら丸での上京は厳しいと判断し、
内地に飛行艇で緊急搬送されることが決まりました。
急な展開に、大慌てした記憶があります。
確か午後に診断されて、診療所に入院し、翌日昼前くらいに搬送するというものだった気がします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/97/684b368ab67ef5dc325abe22b00711a8.jpg)
日赤で入院中の妻を見舞う22歳の僕。この頃はよく頭にタオルを巻いていました。
■暖かいユースホステルのオーナーと同僚、お客さんたちが色々贈り物をくれたり、
自衛隊基地から飛び立つときに、青灯台で見送りダイブをしてくれていました(#^.^#)
初めての飛行艇もドキドキでしたが、それ以上にドキドキしていたのが一緒に同乗してくれていた、
産科の研修医のドクターでした。
ポケットに沢山の参考書を詰めて、
万が一搬送中に出産の可能性も考え、色んな用意をして内地から乗って来てくれていました。
その為か、顔が青白く緊張がMAXの表情でした。
貼り止めの点滴している状態での搬送でしたが、点滴のペースをコントロールする機械がカテーテルと合わず、
悪戦苦闘していました。
研修医のTさんは頭真っ白だったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/90/6eeb2d616c5cfced1e592cd0ac5c0dd0.jpg)
そこで、元助産師の妻が、「何秒に1滴のペースを維持して下さい」みたいな指示を出していました。
すると、研修医Tさんはギョッとして「ひょっとして医療関係者ですか?」と聞いてきて、
そうだと知った瞬間の安堵した表情が忘れられません。
本当に急にわざわざ内地から飛行艇で乗って来てくれて、感謝です。
ありがとうございます。
タンカーに縛り付けられている妻はまったく動けない状態ですが、
ただの付添いの僕は外の初めて見る父島の美しい空の景色を眺めていました。
この搬送には本当に沢山の人が関わり、多額の費用がかかっています。
本土まで1000kmという超遠隔離島の暮らしを支えてくれている
搬送に携わってくれた自衛隊、村役場、診療所の皆さん、
沢山のフォローをしてくれたユースの皆さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
妻も僕も妊娠期間中、お腹の子の命が絶対大丈夫という確信はなく、
ずっと不安がある中、過ごしていました。
新しい命が生まれるということは、少しも当たり前の事ではなくて、
本当に奇跡なんだなと今はさらにそう思えるようになってきました。
■飛行艇は羽田空港(厚木基地だったかも)に島を離陸して3~4時間くらいで着陸しました。
普段24時間かかる距離をあっという間に渡ったものなので時差ボケを起こすほどでした(笑)。
飛行場から搬送される予定の広尾の日赤医療センターまでは救急車で運ばれていきました。
この救急車がまあ飛ばすし、揺れるので、切迫早産の妻にはとても辛かったようです。
一生懸命搬送してくれている消防庁の方も、
どいてくれない一般車や周囲の愚痴を漏らしていて、なんだかとてもイライラしていました。
正直、そんなに急ぐよりも、揺れないで搬送してほしい、そう伝えてからは少しマシになった気がします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/40/fe2f619bb31281e9d3ac2ffdc20877c0.jpg)
日赤の病室からの景色。ほとんど動けない妻にとっての変わらない広尾の景色です。
のどかな島から、一気に都会に降り立った僕たちは、
暮らしている人たちの大きな変化に戸惑っていました。
無事に日赤医療センターについて、参加のドクターに
「私は助産院で出産したい希望があります」と伝え、それを承諾してもらいました。
生まれても大丈夫な36週までの50日間、日赤に入院することになったのです。
日赤医療センターはお産、産科にとても力を入れていて、
希望者にはフリースタイル出産、産後母子同室も実施していて、
産科病棟で働く看護師はみんな助産師の資格を持っているという徹底ぶりでした。
僕は日赤のお見舞い家族関係者の一時滞在用のお部屋をお借りすることができて、
超有難い低価格の滞在をすることができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/9f/26b7c8a8794ee4d34c36a0a4cd9efe72.jpg)
ワンルームのお部屋で病院の裏手にありました。
トイレもバスも台所もついていて、お金のない僕たちにはとても助かる滞在先でした(*^。^*)
妻の面会は毎日あるのですが、
広尾商店街のお弁当屋さんで働くことになり、
新しい土地での生活が始まりました。
丁度、初めてのデジカメを買ったのもこの頃です。
写真が主に入院以降なのはその為です。
携帯電話はあったけど、SNSもスマホもない時代です。
そんな日々がなんか懐かしく思えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/ad/adc905776dc117cd17ec0a6f1ceab149.jpg)
■「助産院で畳の上で子どもを産みたい」
これが妻が妊娠してから言っていたことでした。
お産なんて何も分からない22歳の僕。
病院の廊下で手術中のランプを眺めて、産声を聞いて誕生を知る程度しか知識がない僕にとって、
妻からの申し出はまるっきり未知なるものでした。
助産師であった妻はアクティブバース、つまり受け身ではなく、主体的にお産に臨みたいという姿勢でした。
超新米パパの僕にとっては何もかもが新鮮過ぎる日々でした。
しかし、あまりの若さというものは
時に色んな現象を素直に受け止めれる心の柔軟さがある気がします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/b2/fb0471197251c82d7ef44a1e6a31e624.jpg)
次第に助産院で畳の上で産みたいという意味が分かって来ました。
病院で管理されたお産ではなく、できるかぎり自然な現象として、
そして自分の力で新しい命を迎えたい。
36週に退院するまでは、
面会に来てくれる友人や、慣れない共同の病室での日々、
都会での暮らしに戸惑いながらも楽しく日常が過ぎて行きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/93/a7ab34264d5bccc105583df5ce8c0d3a.jpg)
変わらない景色の中。お腹の張りが辛くて、寝たきりの妻は腰が痛くなったり、
色んな辛い状況もあった気がします。
お腹の上からも動いている赤ちゃんを僕も感じながら、
一生懸命にその日々を生きていた気がします。
50日間の入院を経て、ようやく退院する日を迎えることができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/1a/ed747bbd4891400b4b70b295589a57d2.jpg)
日赤から歩いて麻布十番の浪速屋総本店のたい焼きをよく買いに行った覚えがあります。
同じ病室の皆さんにも届けたりした気がします。
当時、同室だった妊婦同士は今でも年賀状とかで交流が続いています(*^。^*)
妊娠、搬送、退院、出産、産後、
どの場面でも大変ですが、この退院するまでが一つの節目だった気がします。
二人の娘のダブル誕生日をきっかけに書いてみましたが、
いつも通りあまりに長くなりそうなので、複数回に記事を分けることにします。
続きは次回②をお楽しみに(#^.^#)