名古屋地裁判事の政治的活動が論議を呼んでいる。
当該判事は、共産党が関連する天皇制反対集会に複数回参加して、身分を明らかにして意見を述べていることが裁判所法に抵触するのではとされているものであるが、ここにきて「裁判官の欠格事由」と「表現の自由」のせめぎあいに発展している。裁判所判事を含む国家公務員の欠格事由としては、国籍条項とともに『日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者』と規定されているので、武力革命を放棄していない共産党に入党しているか否かの解釈にもよるが、当該規定に抵触して失職(懲戒免職)することは当然と考える。一方、判事の行動を『表現の自由』として擁護する意見も根強いので、表現の自由について調べてみた。「表現の自由」とは一般的に<個人が外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現・発表できる自由で日本国憲法第21条で保障されている。>とされており、集会・結社の自由の範囲は集団行進・示威運動などにも及ぶと考えられている。それ故にデモ参加者が拘束される場合も、暴行・公務執行妨害・迷惑禁止条例違反であり、デモの目的によって逮捕・拘束されることは皆無であると思う。表現の自由に関しては「チャタレー夫人の恋人」がエロか文学かで争われたチャタレー裁判や、篠山紀信氏が撮影した墓場のヌード写真集が死者の尊厳を求める公共良俗に反するか否かの争い等にみられるように、かっては出版物に対する論争が主流であり、チャタレー夫人の恋人訳者の伊藤整氏などには確たる意見があっての行動であったように記憶している(篠山氏についてはあまり擁護する気もないが)。しかしながら、現在ではヘイトスピーチや放言、ネット上の中傷・誹謗さえも表現の自由と主張することが横行しており、自己主張と公共良俗・公共の福祉との兼ね合いを熟考したうえでの行動とは思えないものが多い。名古屋地裁判事についても、憲法と憲法に連なる法体系の番人である裁判官の職責を考えるならば、自分の言動が社会規範からは突出しているとともに、表現の自由の埒外であることは容易に自覚できたはずである。それとも、憲法に規定する天皇制については反対する一方で、憲法が保証する表現の自由のみは享受するという言動なのだろうか。
判事がこれまでに示した司法判断については報道されていないために知る由もないが、おそらく国家行政に起因する司法判断は、持論が投影されたものになっているであろうことは疑いないと思う。判事は、弾劾を待つことなく辞職して、自説に忠実に生きられる世界に転身することを切に望むものである。