反天皇制活動疑惑が取り沙汰されている、名古屋家裁判事のその後が報じられた。
報道は、衆院法務委員会の質疑で最高裁の人事局長が、「裁判官の私生活上の自由や思想・表現の自由にも配慮しつつ慎重に調査している」としつつも「事実関係が確認できない」と答弁したものである。後段の事実関係の確認については、本人に対する聞き取り調査を行ったのみで、事実関係を特定するための証拠の収集や分析に立ったものではないらしい。被疑者の多くが犯罪行為発覚の初期に事実を否定し、抜き差しならぬ証拠を突き付けられて事実を認めることは司法関係者であれば常識であると思うのだが、裁判所内の現実はそうではないようである。本人の初期の供述のみで事実を決するのであるならば、ゴーン氏は無罪で逮捕即日に釈放されなければならないことになるが、こと身内に対しては甘すぎるように感じられる。前段の私生活上の種々の自由に関しても、私生活や思想と仕事は別物と考えているのだろうかと疑問が湧く。極論であるが、奉行所の同心でありながら裏稼業(私生活)では殺人者である時代劇「必殺仕事人?」主人公の中村主水すら許されるとするのであろうか。君子は、「李下に冠を正さず」「盗泉の水を飲まず」として自分の生き方に疑念を抱かれることさえ恥辱とし、戦後の混乱期にあって「悪法も法」として食糧統制法に殉じて栄養失調で亡くなった裁判官が存在したとも聞いている。家裁判事の言動については疑念の域を超えて有り余る証拠が存在しているにも拘らず、いまだに厳密な意味での調査が行われていないことに、最高裁の事務方が裁判官の地位に対して過度に忖度している姿勢が窺い知れる。前文と相まって国民主権に関する根拠規定とされる憲法1条(天皇の地位)を否定する家裁判事の姿勢は日本国憲法の否定であり、私生活における思想の自由では済まされない問題であると思う。
人格が高潔で・識見が抜きんでているとした取手市の教育委員会の構成員の下した判断は、衆人に劣るものであったことが露見した事実に加えて、今回の裁判官の言動。平均的な市民の変化以上に、国民の安寧確保の中心として存在すべき階層の意識の変化や堕落が起こっているのではないだろうかと危惧するものである。大木(日本)が倒れるのは、表皮(国民)が腐るよりも、大木の中(中心的階層)に空洞があることによる場合が殆どである。大国の興亡史を見ても、すべては指導的階層の存在と彼らの意識の変革に起因している。