参院予算委員会での桜田五輪相の発言に関する「やりとり」が報道されている。
本来、予算委員会での攻防は「質疑」と書くべきであろうが、一般的に「質疑」とは「疑問の点を問いただすこと。特に、議案や動議について提出者・発議者などに口頭で説明を求めること」とされており、我々が国会、特に予算委員会に求めるのは「行政府に対する高所・対処に立った質疑」であり、大臣の見極めや首のすげ替えだけを期待するものではない。特に予算は、年度単位で決められるものであっても、長期的な国家運営の中の1年を決定づける重要な要素と思うが、国会中継を見る限り長期的な視野に立った質疑は少ないようである。来年度予算案では文教関係予算は防衛関係費とほぼ同額であり文武のバランスはとれていると思えるが、さらに「幼児教育と大学教育の無償化」を主張する政党が多い。そこには日本の現状を維持するための軍備と将来を決定する人材の育成という注力配分が現時点でどうあるべきかというような議論、まさに質疑と呼ぶに相応しい論戦は無い。働き方改革の「やりとり」にしても大半は厚労省のデータ改竄の犯人捜し、大臣の首の争奪戦であり、主題に関する質疑は低調であったように思う。予算委員会には質問範囲に制限がなく全ての事象・案件に対して質問できるために、与野党ともにスター議員を委員として送り込んでいるがテレビ中継を意識した印象操作の場としか見えない。本来、予算委員会の場で質疑されて当然の日韓関係に対して立憲民主党は殆ど質問していなのは何故だろうか。邪推すれば、政府の強硬姿勢を引き出せば政府にポイントを与えることになり、弱腰を際立たせた場合は韓国の左派親北政権を勢いづかせる、いずれの場合にも党利党略にとってプラスにならないという判断に立ってのことであろうが、国会議員としての責任を放棄したもので無責任の極致とも思えるものである。
以前にも書いたことであるが、調べた限りでは戦後「予算の政府原案」が国会で修正されたことは1度もないようである。各委員は政府原案の誤謬や注力対象について、政府を圧倒する正論をもって質疑・論破して原案を修正させることが予算委員会での勝利と捉え、そのために努力して欲しいと願うところである。さらには、日本国の行く末よりも党利党略を優先する予算委員会であって欲しくないものである。