今国会初の衆院憲法審査会が15日に開催されることとなった。
討議されるのは8回も継続審議となっている国民投票法改正案であるが、同法案の取り扱いについては昨年12月に自民・立民の幹事長間で「今国会で何らかの結論を得る」ことで合意したものでありながら、解散政局をにらんだ立民・共産の反対と残された会期から見て審査会採決・本会議上程は絶望的と思われる。
通常国会の最終盤に来て形ばかりの審査会開催に同意する立民の手法からは、政権与党を目指す気概や選良としての自覚は窺えず、心情的社会主義者の集票に汲々としたあさましい行為に映る。繁栄していたギリシャ都市国家を衰退させた直接民主制を衆愚政治と呼ぶそうであるが、現在の日本の政治家と政治手法、とりわけ国家の経綸を問うことなくステーキの値段を論う立憲民主党のそれは衆愚の、それも一桁台の支持者に迎合するポピュリストの極致と云わざるを得ない。
さらに絶望的であるのは、立憲民主党ポピュリストではなくリベラリストであると呼号することである。ノーベル賞作家のイシグロ氏を始めとする世界の識者の多くは、「リベラリストは自分の主張が絶対であるとして反対意見に耳を傾けない」ことと慨嘆しており、リベラリストの理想到達点は「反対意見を封殺出来て、意のままに国民を統制できる共産党独裁」であろうと観ている。
「訓練されたコミュニスト」を公言するアンティファが、アメリカの歴史と価値観を破壊することに躍起となっていることは周知のことであり、2001年にタリバンがバーミヤンの石仏・石窟を始めとする宗教遺産を破壊したことも記憶に新しい。彼等にすれば先人の営み(歴史)であっても自分の陶酔した価値観と思想から外れたものは、全て悪であり破壊することを躊躇しない。
些か小物に過ぎるが、社民党の福島党首が丸川五輪大臣の夫婦同姓主張を口を極めて痛罵したのも、一切の異見を認めないリベラリストの典型に思える。
京大の望月新一教授が20年の研究で証明したとされる数学の超難問「ABC予想」が、8年に及ぶ学内査読を通過して国際専門誌「PRIMS」特別号に掲載されることが発表された。理論の真偽は今後に俟つとしても、科学の世界では絶対的な真理が存在するであろうが、人間の営み特に政治には絶対の真理など存在せず、多様な意見の融合、折り合いで決せざるを得ないのではないだろうか。冒頭の国民投票法については、野党の審議拒否に業を煮やした与党が憲法審査会で強行採決した過去を持っているが、討議を尽くした後に多数決に依るのは民主主義の鉄則であり、討議に参加しないのは採決参加の権利を放棄したことに他ならないと思っている。立憲民主党は憲法審査会の決定は全会一致とすることを求めているようであるが、自分が歩み寄らなければ相手も歩み寄らない現実も、リベラリストの沽券にかかわると受け入れないように思える。