もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

8.15に思う-②

2018年08月16日 | 歴史

  昨日のブログで、大東亜戦争の分析・評価が偏っているのは「正しい歴史認識の教育が行われなかったため」と書いた。

 しかしながら、正しい歴史認識という表現では言葉足らずであることに気が付いた。自分の意図するところは「正確な事実」と「日本人のアイデンティティに沿った歴史観」ということである。しからば、国家・国民のアイデンティティは何に象徴されるかと考えた時に、思い浮かんだのが「国歌」であった。世界の国歌には法制化されたもの、慣習的に使用されているもの等さまざまであるが、歌詞には国民性が象徴され国民が目指すゴールへの道筋が表わされているようで興味深い。勿論、訳文によってであるが代表的な国の国歌の歌詞について調べてみた。建国(現体制樹立)の際の血塗られた革命や戦争で勝ち取った成果を伝承しようとするもの(アメリカ、イギリス、フランス、中国)、国家の新生・再生理念を謳うもの(ドイツ)とさまざまであるが、殆どの国歌は勇壮な言葉で国民を鼓舞し・団結を促す意図のもとに作られている。また、それらの全てが国家という概念が完成された近世以降に作られたものであるために、排他的でナショナリズムに満ちている。そう考えれば、抗日戦や国共内戦の戦果を拡大しようとする中国の意図、移民排斥を主張する極右政党が伸張するEU諸国、独立戦争の理念で自国産業を保護しようとするアメリカの関税障壁、等々の事象はそれぞれの国の・国民のアイデンティティに添った行動であるとも考えられるのではないだろうか。ここで「君が代」を考えると、歌詞は1100年前の古今和歌集に採録されている詠み人知らずの原典を明治初年に採用されたとされているが、そこには穏やかな「和」を共同体の共通理念とする当時の一般的な国民性を国家理念に昇華させようする意図が働いていたのでは無いだろうか。歌詞冒頭の「君が世」の解釈によって、極めて国粋主義的な歌詞と受け取られることが多いが、歌詞採用に大きく関わったとされる大山巌の事績を見る限り自分の解釈の方が理にかなうと考えるのだが。

 欧米諸国の国歌と比較することで、日本人のアイデンティティに沿うべき歴史観を書いたつもりであるが、残念ながら意を尽くす表現力に欠けることは承知しているが、全ての国民が考えるべき命題と思う。最後に韓国の国歌であるが、1番の歌詞の大意は「君が代」そのものであり、パクリというよりも日韓併合以降の韓国人が、日本人の国民性に同化した、若しくは同化することが望ましいと考えた結果ではなかろうかとも思うものである。


8月15日に思う

2018年08月15日 | 歴史

 73回目の終戦の日が訪れた。

 戦後長らく「終戦記念日」と呼ばれていたが、戦争に敗れた日を記念日と称することに違和感を感じていた。近年はようやく「終戦の日」と呼ばれるようになった。正式には昭和57年に閣議決定された「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と呼ぶべきであろうが、長すぎるので”終戦の日”で我慢することにしよう。大東亜戦争はアジア地域に対する数例の圧政や残虐行為のみが過大に評価されて侵略戦争と規定され、アジア地域の欧米による植民地・属国支配からの脱却を加速させた面については国内で評価することはタブーですらあった。近年は、大東亜戦争の功罪を冷静に分析した著書も流布されタブー視する空気も希薄になってきたが、まだまだ不十分であると感じている。戦後に独立を勝ち取ったアジア各国の指導者、ガンジー、ネール、スカルノ、リー・クワン・ユー、マハティール等々がこぞって大東亜戦争を肯定的に評価していることは語り継がれるべきではないだろうか。大東亜戦争は既に歴史の範疇とも受け取られ、ネット上では、米国の対日要求を受諾すべき、戦艦大和をディーゼル推進にすべき、艦載機の壊滅補完策として陸軍機を転用、等々の”大東亜戦争のIf"が氾濫しているが、その殆どが当時の民情、国際関係、技術力を無視して現在の価値観から論じたものであり、正しい歴史認識を教育してこなかったツケが回ってきた感がある。好例は、当時の国際感覚では朝鮮併合は許されるものであり、対独戦に参加したドゴールのフランス亡命政権が評価されているのに対し、中国にあったとされる大韓民国臨時政府の正統性は戦前戦後を通じて国際的には一顧だにされていない事が示していると思う。

 戦後半世紀以上を経て、ようやく、特別攻撃兵や兵士個人が狂信者ではないことが定着しつつある。後は、靖国合祀問題を含めて国家として単なる謝罪外交から抜け出る道を探す8.15であって欲しいと願うところである。


富田林署の容疑者逃亡と武田節

2018年08月14日 | 社会・政治問題

 大阪府の富田林署で拘留中の容疑者が面会室から逃亡した。

 原因は、接見室のアクリル製間仕切りが脆弱であったこと、面会者側ドアを警戒すべき監視員が休日シフトのために配置されていなかったこと、監視員に代わる警報ブザーの電池が抜かれていたこととされている。富田林署の不手際と断じるのはたやすいが、根底には日本の現状と近未来の問題を端的に示していると思う。警戒員が配置できなかった背景には、働き方改革等に見られる労働環境改善(労働時間短縮)の速度に作業規律が追い付けないことと、住民サービス強化が求められるための正面(目に見える作業現場)に人手を取られ後方部門が手薄になっていることが挙げられると思う。警報装置の不使用については、人手不足を補完するための装置の必要性に対する作業員の意識改革が遅れていることが原因と思はれる。管理者は人手不足を機械に置き換えることで解決しようとするが、十分な人手の下で勤務した経験者は装置の必要性が理解できず、かつ新装備機器の操作に忌避感を持つために装置自体が宝の持ち腐れになっている例は枚挙にいとまがない。新しいサービス体系、新しい装備、新しい働き方、それらを導入する場合、最も必要なことは、社会の変革に対応できなければ現代社会を生き抜くことができないという労働者の意識改革ではないだろうか。

 武田節は信玄公の遺訓を「人は石垣、人は城」と謳い、防衛のみに留まらず諸事の根幹は「人」にありとしている。少子化による労働人口の減少とAIの発達は今後も、いろいろな場所で、いろいろなケースで顕在化して、無機質な社会がくる日も近いと思う。技術の進歩に歩調を合わせた教育とともに、人間性の教育が必要な時期に来ていると思う。


公党の党首選に思う

2018年08月13日 | 野党

 9月下旬の自民党総裁選が最終局面を迎えている。

 野田聖子氏も立候補を模索しているものの推薦人獲得すら不安視されており、既に立候補を表明した石破茂氏、安倍慎太郎総裁の一騎打ちの様相を見せている。8月5日のブログで、竹下派会長の石破氏支持の動向から石破氏善戦の雰囲気が出てきたと書いたが、以後、竹下派が衆参分裂の自主投票を決め、山崎拓最高顧問の蠢動にも拘わらず石原派が安倍総裁支持に落ち着いたことから、国会議員票では安倍総裁300票を超える一方石破氏50~60票と大差がついてしまった。前回の総裁選と同様に党員票で石破氏が大差を付ければ、竹下派と石原派を加えて石破氏善戦との読みは完全に外れて、今や安倍総裁信任投票の感さえある。以前から政党の党首選や党首交代は”コップの中の嵐”と評され、誰がなっても大差ないものと受け取られてきた。更には、政権党の党首選後の報復人事や論功行賞人事によって、大臣の椅子を棒に振ったり不適格大臣が出現したりの喜劇が繰り返されたことも思い出される。しかしながら、曲がりなりにも党首選が行われることには意義があると思う。400人を超える自民党議員が一糸乱れず単独候補を信任することは、ヒットラー体制や習近平体制のように自浄作用が働かない全体主義国家、独裁国家を生む前兆のようなものであると考えるからである。玉木代表の無投票信任の気配が濃厚であった国民民主党においても、津村啓介議員が代表選に名乗りを上げる等、盃の中でも嵐が吹こうとしている。自民党以上に異見者を抱えて迷走している公党で対立候補が出ないなどおかしいと思っていたので、国民民主党もやっと政党の体を整えつつあるのかと安堵しているが、呉越同舟を公然と示して有権者を煙に巻くかのような共同代表制は早急に改められるべきであると思う。

 現在のところ安倍総裁の圧勝が予想される自民党総裁選ではあるが、現政策に対する党員の意を汲み取る場であって欲しいと願うところである。



くまのプーさんと中国の忖度

2018年08月12日 | 中国

 米ディズニー制作の「くまのプーさん実写版」が、中国で上映禁止になったらしい。

 かねてから習近平国家主席の風貌がプーさんに似ているとして、SNSを中心として国家主席を揶揄・風刺する際の隠語若しくは画像として広く使用されてきたために、今回の公開禁止は習近平氏の個人崇拝を画策する共産党路線に沿ったものと思われる。まさか「くまのプーさん」公開に関して国家主席若しくは党中央の直接・具体的な指示があったとは思われないので、検閲機関が党上位に忖度した結果であると思う。”忖度”といえば、財務省の文書改竄問題で諸悪の根源的に扱われた言葉であるが、組織内でマニュアルに無い業務を遂行する場合や一般的な集団生活の潤滑油として、忖度は無くてはならぬ存在と思う。周囲に忖度しない・できない、いわゆる”空気を読めない人間”が組織の輪を乱すケースは多い。軍事組織で幕僚が計画を作成する場合、忖度を排除するために考え得る限りのオプションを列挙して、それぞれについて適合性・受容性・可能性を数値化して最も得点の多い計画を指揮官に提示することが求められる。勿論、指揮官の決済の場で全てが覆えることも多いが、対米戦劈頭に軍令部の南方重視作戦を押し切って山本五十六連合艦隊司令長官が主導した真珠湾攻撃が、忖度排除の好例ではないかと思う。閑話休題。全体主義の独裁国家である中国において共産党中央に対する忖度は自己の生死をも左右するものと思われるので、下に行けば行くほど忖度の程度・振幅は拡大して、我々が”まさか!”と思う事態が出現するものと思うが、決定を下した当事者にとっては首を掛けた決断であろうと同情するところである。

 対米関税戦争による元安・株安・輸出不振の悪循環、マレーシア・バングラデシュ・スリランカでの一帯一路構想の頓挫、習近平主席の指導力退潮が観測されているが、北戴河会議ではどうなったのであろうか。韓国でも積弊清算が盛んに報じられており、忖度の程度では中国を超えるのかもしれないとも感じるところである。