glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

童話:La tero, kiu volis forflugi

2009-09-23 10:42:53 | エスペラント
 La tero, kiu volis forflugi (飛び去りたかった地面)
著 :Demitrij Ŝevĉenko
挿絵:Anna Stringanova

Antaǔ kongreso (大会前旅行)参加者の中に若いロシア人が二人いました。二人はいつもビールらしき飲み物を携え、特に男性の方は声をかけにくいほどに暗い表情をしていました。数日後一人が声をかけていました。
『どうしていつもアルコールを飲んでいるの』
 彼は驚いたように答えました。
『えっ、これが普通のロシアの青年のスタイルです。』
 私も驚きました。ロシアの若者はいつもアルコールを飲んでいるのかと。そのあと参加者の一人ミッシェルが、夜に映写会をしたいと言い出しました。私たちは少々遅れて参加しました。それはいつのかわかりませんが、エスペラント青年大会のフィルムでした。画面に踊り楽しむ青年たちが現れるとその中に楽しげに踊るデミトリィもいました。翌日思わず声をかけました。
『昨日のフィルムの中であなたは楽ししそうに踊っていたわ。』
彼は照れたように笑っていました。
世界大会会場で彼らが本を売っていました。彼らの作品と示されたのが『La tero, kiu volis forflugi 』です。挿絵はアーニャです。本の横には草の実などでアーニャが作ったアートも展示されていました。挿絵に色が無いのが残念です。

さて、本題へ
この本の中には二つの童話が入って言います。童話といっても大人のためのお話です。
一つは『 La tero, kiu volis forflugi 』でありもう二つ目が『 Vojo laǔ maro 』です。なかなかに分かりにくい話でした。

『 La tero, kiu volis forflugi 』はこの世ができた時から生きている樫の木の立っている地面お話です。時間の流れの中ですべてが変化する。そしてこの土地も!そして樫の樹も去る時が来た。

 それを童話の形で表現したのでしょうか。

 『 Vojo laǔ maro 』は人は孤独であり、予期せぬことに出あいながら終わりが見えない時と云う道(人生)を進まねばならないことを主題にしているように感じます。感じますというのは私の感覚がそう感じたということで、他の人が別の解釈をする余地があるということです。ぜひ読んでほしいです。

 他の方々に読んでもらいたい、そしてその方々の意見を聞きたいと思う理由が他にもあります。合成語と文体です。
 特に文体ですが、雑誌KOMENCANTO を読んでいてロシア人の作品にみられる文型がこの中にもあるので引用しておきたいと思います。それは多分文を流ちょうに流すための手法ではないかと思います。確かにエスペラントは語順は自由です。と云っても技巧的にならずもっとわかりやすくかつ美しい文章を書いて欲しいです。そんな願いを込めてここに引用しました。
 また、PIVにしかないような詩のための特殊な単語が多用されていました。

p. 39-5 Ili ankoraǔ pri io parolis, nun jam en nur por ili komplenebla lingvo, poste….

p. 73-10 , kaj tie supre portis ĉiam proksime al la Vojo ekflamantajn per Elektra lumo ondojn.

p.88 Inga staris, fermetinte la okulojn kaj submeteinte la vizaĝon, jam sen tio ventharditan, al la helaj sunaj radioj.

        

 これはロシア人から聞いた話です。デミトリィの両親は出版社を経営しているそうです。この本は彼の2冊目の作品だそうです。一般人には自分の作品を出版する機会などなかなかありません。羨ましいです。
 日本の若いエスペランティストも自分の試みを世に問う機会があったら良いと思ってしまいました。

コメント (4)
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