ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

国体100日前イベント参加を

2011年05月07日 01時33分15秒 | 障害者の自立
 山口国体と全国障害者スポーツ大会(山口大会)の山口県実行委員会は、国体100日前イベントの人文字づくりとスポーツ教室の参加者を募集している。

 100日前イベントは6月26日に山口市の県維新公園陸上競技場で開催する。人文字は県民千人を募集。グラウンドに並んで大きな「2011」を表現し、上空から撮影する。

 スポーツ教室は、陸上とサッカー。陸上は、油谷繁選手(中国電力)と県の国体強化選手、サッカーは国体の強化選手となっているレノファ山口の選手が指導する。両教室とも小学生対象で定員各100人。

 人文字、教室とも申し込みはファクスなどで先着順に6月3日まで受け付ける。事務局=電話083(933)4793。ファクス083(933)4799。

中国新聞

節電とバリアフリー

2011年05月07日 01時29分44秒 | 障害者の自立
■節電とバリアフリー

 原子力発電所の被災による節電で、東京電力管内では街の中がずいぶん暗くなっています。そもそも必要以上に明るかったのであり、バブル期以前はこのくらいだったような気もします。一方、そのころは「バリアフリー」という言葉がまだ一般に知られていない時代でもありました。駅の構内や地下通路などでは、照明が消され、エスカレーターも止まっているところが多いのですが、障害者や高齢者のことは十分考えられているのでしょうか。

 「節電で暗い駅 障害者困惑」(日経新聞4月24日)と「障害者『外出怖い』 節電・・・暗い道・動かぬエスカレーター」(産経新聞4月30日)は、「階段や障害物に気づきにくく危険」という視覚障害者や、エレベーターを探すのに苦労する高齢者らの声を伝えています。

 東洋学園大学教授の櫻田淳さんは、「重度身体障害の故に階段の昇り降りに難儀を来している」自らが地下鉄駅構内で困惑した経験を挙げ、「ある人々にとっては、『多少の不都合』でしかないものが、他の人々にとっては、『途方もない不都合』になるということもある」と書いています(WEBRONZA「節電励行が損ねる『バリアフリー』環境」)。産経の記事では、慶応大学の中野泰志教授が「障害者にとっては我慢できるできないの話ではなく、生死にかかわること。不便を感じても言い出しにくい雰囲気になっている」と話しています。ツイッターでは「震災で東京がバリアフル都市になった件(障害者当事者の視点から)」に様々な意見がまとめられており、この中に「当事者の思いを想像する力を付けてほしい」(@kame800)という声がありました。

 先に挙げた日経の記事によると、JR東日本の窓口に届く意見の8割は「もっと節電を強化すべきだ」という内容とのことですが、電気を使うことが本当に必要な人もいるという意識も、多くの人が持たなければならないと思います。

 また、東京大教授の福島智さんは、いつどこでどのように発生しても、最善の社会的取り組みを目指す必要があるという点で、防災とバリアフリーには共通点があると述べています(毎日新聞4月28日「これが言いたい 防災とバリアフリーを経済コストで測るな」)。発生頻度の低い障害や災害への取り組みを「コスト的に現実的ではない」ととらえることへの批判です。一方、経済の観点から考えたとしても、移動手段への不安から外出を控えることはマイナスであり、「生活弱者の安心・安全への目配りがしっかり出来ていることが、実は『消費を下支えする重要なインフラ』である」(日経ビジネスオンライン「節電で『バリアフリーの灯』を消すな」高嶋健夫)という指摘もあります。いずれも、震災後の社会の在り方を考えるうえで重要です。・・・

朝日新聞

連載「被災地から得たもの」 精神保健福祉士 広江さん

2011年05月07日 01時27分14秒 | 障害者の自立
 社会福祉法人養和会の障害福祉サービス事業所、F&Y境港(境港市中野町)の所長で精神保健福祉士の広江仁さん(45)は、心のケアや支援活動の準備のために、3月と4月の2回、被災地入りした。

 被災者の声にじっくりと耳を傾ける傾聴を基本とした支援を通して感じたのは、高齢者や障害者といった災害時要援護者への対応の大切さ。「要援護者は災害時に弱い立場。災害に備え、障害者ら当事者も交えた防災計画の見直しを」と訴える。

■心に寄り添う

 精神保健福祉士は、精神科医療機関などを活動の場に、精神障害がある人の社会参加支援のほか、医療や生活に関わる悩みの解決を手助けする国家資格。日頃から多くの人の心に寄り添う。

 被災地支援は、日本精神保健福祉士協会としての活動。広江さんを委員長に同協会内で災害時に何ができるのか検討した成果を生かし、全国の精神保健福祉士が支援活動をする準備のために3月23~25日と4月18~23日、岩手、宮城、福島の各県を回って現地の要望を聞き取った。

 中でも、地震と津波の被害に加えて福島第1原発の事故によって一時、屋内退避区域となった30キロ圏内の福島県南相馬市の状況は深刻。「30キロ圏内ということで支援の手が届いていなかった」。子どもがいる家庭など多くの市民が他の場所に避難していたが、お年寄りたちが避難所に取り残されていたという。

 現地では医療チームも活動していたが、多忙を極め、被災者の話をじっくりと聴く時間がない。「われわれこころのケアチームは医療チームと連携しながら1時間でも時間を掛けてつらい気持ちや怒り、不安を聴き、解決のお手伝いをした」と話し、「原発の問題で先行きは不透明。心のケアは重要性を増している」と強調する。

■官民で人材確保を

 心のケアの必要性は被災者だけにとどまらない。「行政職員や避難所の責任者も疲弊している。責任者は自分を差し置いて他の避難者を気遣い、心情を打ち明けるのを遠慮している」。現在も養和会の精神保健福祉士を派遣するなど支援を継続している。

 被災地で実感したのは、災害に備える意識と行動の大切さだ。以前携わったある市の防災計画の点検、見直しでは、行政職員だけでなく災害時要援護の当事者側も交えて作業をしていたといい、「避難所に指定されている体育館に灯油の備えがないといった事態が起きないためにも、災害前に検証しなくては」と気を引き締める。

 今後の課題については「医療と同様に重要な心のケアをできる人材を確保できるか。行政は民間の協力を得ていつでも心のケアができる支援態勢を整えておく必要がある」と提言する。


被災地で心のケアと災害時要援護者の支援の大切さを実感したという広江さん=米子市内

日本海新聞

佐賀県視覚障害者福祉大会が開催

2011年05月07日 01時21分00秒 | 障害者の自立
新たな法の制定もとめる
視覚障がい者福祉の推進のためのイベント「第61回県視覚障害者福祉大会」が佐賀県佐賀市のメートプラザ佐賀で開催された。主催は佐賀県覚障害者団体連合会。

関係者ら9名が表彰
大会には視覚障がいの関係者ら約180人が参加した。

福祉大会では障がい者に対して一律的な負担を求めている障がい者自立支援法に代わる新たな法律の制定を求める決議案の採択を行ったほか、公文書の点字化や音声化、視覚障がい者向けの情報通信機器の整備を求める決議案を採択した。視覚障がい者の交流会や生活安定の研究会などの本年度の事業計画の承認もなされた。

また、議事の前に開催された式典では、視覚障がい者福祉の啓発、支援に尽力した視覚障がい者福祉の関係者ら9名を表彰した。

西日本新聞
佐賀県視覚障害者団体連合会

障がい者の働く場ニュース

第二の故郷・双葉町の将来案じ、移住の避難女性が横浜の障害者施設でボランティア

2011年05月07日 01時08分10秒 | 障害者の自立
 福島第1原発事故で警戒区域にある福島県双葉町。10キロ圏内にある同町の自宅から東日本大震災直後に避難し、障害者を支援する横浜市内の施設を手伝っている女性がいる。田舎暮らしの夢をかなえようと、3年前に同市港北区から移り住み、町民として根付き始めた直後の事故だった。「早く安全な双葉町に戻してほしい」。思いを聞きに、女性を訪ねた。

 矢吹美津子さんは福島県の中通り出身。夫の重憲さんと、退職後、自然豊かな場所で暮らそうと土地を探し、同町に家を建てた。

 その後、重憲さんが2年半前に急死。落ち込んでいると、近所の人々が「何か困っていることはないですか」と声を掛けてくれた。

 「人の温かさに触れて、単身でもやっていけると思っていたのに…」。前向きな気持ちが出てきたころ、自宅の9・3キロ先で事故が起こった。

 震災発生翌日、原発1号機で水素爆発。刻々と状況が悪化していく。「少しでも早く離れなければ」。近所の住民ら17人で車5台に分乗し、関東地方を目指した。丸1日かけ、矢吹さんは横浜市中区にいる長女(29)のところへ。10日間ほど滞在したが、生活時間帯の違いもあり迷惑を掛けたくないと、前に27年間住んでいた港北区内のアパートを借りた。

 同区内には友達がたくさんいる。アパートも友達の一人が紹介してくれ、炊飯器ももらった。「家にずっといても、気が詰まるでしょ」と、食品や洗剤などを扱う「自然食品のお店 かれん」(同区大豆戸町)を紹介してくれた。ボランティアで、4月4日から週2回、レジ打ちや品出しなどを手伝っている。

 同店は障害者の就労支援施設。店長の冨岡深恵子さん(61)は「人手が足りずとても助かっている。『ここで働くようになって元気が出てきた』と話してくれたので、今は週3回来てもらっている。正式なスタッフになってとお願いしています」と話す。

 矢吹さんは、店で障害者と関わり、少しでも力になりたいと強く思うようになったという。同時に、双葉町民のこれからを案じている。共に関東に避難した人の中には、乳児を連れた若い家族もいた。「彼らの願いは、就職と住まいの確保。それぞれが得意分野を生かせる仕事と、世帯に応じた家を求めている。国が責任を持って、一人一人に対応してほしい」

 桜や桃、梅が咲き、山菜やおいしい魚に恵まれた第二の故郷。再生できるのかは分からない。「双葉町に移らなければ、こんな目には遭わなかったかもしれない」。矢吹さん自身、そう思うことがあったという。しかし「双葉町の人と出会えてよかった。主人も、田舎暮らしという夢をかなえることができた」と思う。

 道筋がついたら、恩返しに、双葉町のためにボランティアとして働くことを望んでいる。


双葉町民の思いを伝えたいという矢吹さん

カナロコ(神奈川新聞)