◇消防団員の一人息子失う 「助けてもらった」の言葉重く
東日本大震災発生から2カ月半がたち、被災地は徐々に復興へと向かっているが、大切な人を亡くした悲しみから踏み出せず、苦しみ続けている遺族も無数にいる。そうした遺族の心のケアのため遺族同士で胸中を語り合う会合に参加した、消防団員の一人息子を亡くした仙台市の女性が、「救われた」と心境を記者に語った。
◇「聞いてもらって救われた」
会合は、事故や災害などで身近な人を失った人たちの心のケア、自殺予防をテーマにしたシンポジウム開催などの活動をしている仙台グリーフケア研究会(代表、滑川明男・仙台市立病院救命救急部医長)が主催する「わかちあいの会」。
今月21日に仙台市内で震災後初めて開いた同会には震災で家族を亡くした遺族8人が参加した。その一人、同市若林区荒浜の知的障害者福祉施設職員、和地(わち)理恵さん(54)は「悲しみや怒りが入り交じったドロドロとした思いは誰にも打ち明けられなかった。同じ境遇の人の前では素直に話すことができ、聞いてもらうだけで救われた」と語った。
地域の会合で勧誘され、数年前に消防団員になった長男克倫(かつのり)さん(31)は3月11日、地震直後から住民への避難呼び掛けに従事した。団員の証言によると、「逃げ遅れた人がいる」と聞く度に海岸近くの集落と避難先の荒浜小学校を消防車両で往復。3往復して小学校の玄関にたどり着いたところで津波に流されたという。
和地さんは克倫さんが帰ってくると信じ、避難所の入り口を見つめて過ごした。苦痛だったのは、「助けてもらった。直接礼を言いたい」という高齢者からの言葉だった。行方不明と言えず、無理に笑顔を作って「まだ消防団の活動中だから」と答えるしかなかった。
家族や知人との再会で避難所内に笑い声が響くのもつらく、「喜んであげるべきだと分かってはいても耳をふさぎたくなった」。心がもたず、避難所を出て約1週間、車中で寝泊まりした。今は仙台市内のマンションで暮らしている。
「たくさんの命を救ったのに、その息子がなぜ」「消防団の上司が無理に活動を続けさせたからではないか」。自分でも嫌になるような気持ちが渦巻き、病院を受診して睡眠薬と精神安定剤を服用するようになった。そして4月7日、小学校から1キロ以上離れた場所で克倫さんの遺体が見つかった。
「周りは復興を目指しているのに、自分だけが取り残されたようだった」。そんな時に「わかちあいの会」を知った。「泣いていい、怒ってもいい」と説明された通りの会合。和地さんは「いつか元気になれたら、次は苦しい思いを聞いてあげる立場になりたい」と考え始めている。
阪神大震災で家族を亡くした遺族らと深くかかわってきた高木慶子・上智大グリーフケア研究所長は「被災から時間がたつと、周囲との比較でかえって苦しみや孤独感が強まることがある。これからの時期は『心のケア』とひとくくりにせず、一人一人の個別の喪失感に寄り添うケアが必要になる」と語る。
毎日新聞 2011年5月26日 東京夕刊