4月1日、私は陸前高田市の第一中学校へ向かった。第一中学校は高台にあり、津波の被害はなかった。現在、中学校の体育館は避難生活の中心になっている。高台を降りて行くと、近くのコンビニエンスストア「ローソン」の仮店舗がある。ここは市内で唯一、営業を再開しているコンビニだ。
ちなみに、近くにある高田小学校は冠水。高田保育園は津波に飲まれてしまった。高田高校では生徒18人が死亡、4人が行方不明になっている。
●高齢者が多い避難所、要介護者も
避難所生活は刻々と変化している。避難所の代表、避難生活者などはその後、変わっているので、以下はあくまでも「4月1日現在」ということを前提に読んでほしい。
この日、避難所の代表(当時)で、商工会の事務局長も務めている中井力さん(61歳)に話を聞いた。中井さんによると、第一中学校で避難生活をしている人は、震災から5日目が最大で1400人ほどが集まった。
年齢層は高齢の方が多いという。「陸前高田の高齢化率は33%ですが、体育館に避難している人たち(の高齢化率)は、それをはるかに超えています」(中井さん)
乳幼児は約10人。「保育士が必要ではありますが、親子で避難しているのでそのあたりは、おまかせになってしまっている」
このほか、視覚障害者や要介護者もいる。有資格者のボランティア派遣をしているNPOなどもあるが、積極的に連絡を取ることはない。ただ、そうしたNPOが出向いてきた場合は、歓迎する姿勢を見せていた。
こうした状況での避難所運営は楽ではないが、「誰かが避難所運営をしないといけない。去年の3月まで、市の職員でした。こういう時には率先してやっていかないといけない」と中井さんは話す。公のために自らが働く精神は、公務員を辞めた後でも続いている。同時に、商工会が仮事務所を作り、仕事が始まっているという。「商工会での仕事をしながら、避難所でのお世話をしています」
避難所の運営は、各行政区からの推薦者10人ほど集めた。ボランティアは20人ほどがいる。料理担当者も決めた。
避難所では、何が足りないのか。「これ(避難生活)は長期戦になります。今、足りていても、将来どのようになるのか分からない。いつか足りなくなるかもしれない」
長期にわたる避難生活で何が不足するのかは、その時その時の状況によって変わってくるという。どのような支援物資が届くのかでも変わってくる。ちなみに、この日のインタビューで困っていたのは「調味料」だった。
●屋上で一夜を過ごした。雪が降っていた
体育館で生活をしている、金野剛さん(74歳)は震災の当時は市役所の屋上で一晩を過ごした。雪が降っていた、という。屋上には東側に70〜80人、西側に40人ぐらい逃げのびた人たちがいた。
「暗闇から『助けて!』という声があちこち聞こえた。誰がどこにいるのか見えない。どうしようもなかった」
そこから見えるのは、市民会館、ふれあいセンター、スーパーだが、その屋根まで津波が来ていた。第1波が最も大きく、4回目あたりも大きな波だった。5回目くらいからはおさまってきていたという。
屋上には翌日の午後6時ぐらいまでいた。その後、第一中学の体育館で家族4人で過ごしている。家は市役所のそば。そのおかげで助かったという。
「最初、大きな地震があって、大津波警報があったので市庁舎へ逃げた。入れてくれたので、4階の屋上へ行ったんです。津波は3階のフェンスまで来た。避難する前、用事があって出かけており、車の中でラジオを聞いていたんです。そしたら、釜石ではもう津波が来ているとのことだった。そのため『ここにも来る』と思った」
急いで家に帰り、避難所になっているふれあいセンターに向かおうとしたときには、すでに黒い波が見えていたという。高さは17〜18メートルを超えていたのではないかと見ている。「線路の手前に2階建ての建物があったんだが、それを超えていた」(金野さん)
大切なものを取りに戻って亡くなった人がいる、という話を、今回の取材では何回か耳にすることがあったが、金野さんは、「あれも、これも置いてきてしまったとは思ったが、取りに戻ることは考えなかった」と話す。
「還暦野球をしているが、野球仲間とまだ連絡がついていない人もいる。住んでいた地域の区長さんも亡くなった」
●お菓子が食べたい
地震の時は「15日に行われる卒業式の予行練習をしていた」というのは、第一中学の千葉拓也くん(13歳)。
「地震がおさまったら校庭に行きました。すると、大津波警報が鳴った。津波は見なかったが、友達が言うには『海が広がっているみたいだ』と。でも、ここは高台にあるので、ここまでは来ないだろうなと思った」
その後、体育館へ来た。家族は無事だった。「兄ちゃんは東京にいて、お父さん山形にいるので、岩手県にいない。お母さんは、働いているところのスタッフの車で逃げたので無事だった。助かってよかった」
避難生活での大変さについては「トイレが和式なのと、飲み物が足りない。お菓子があるとうれしい。昼間はテニスができるのでストレス解消にはなる」と話していた。
●報道されなくなったら、避難所はどうなるのか
代表の中井さんが心配していることがある。家族を亡くした人が多い中で、心のケアをどうするのか。
「心のケアについては、今は、ボランティアスタッフが来てくれている。しかし家族全員亡くし、ひとりぼっちになってしまったという人もいる。相当数が家族を亡くしている。ここにいて、みんなでわいわいしている時はいい。でも、ひとりぼっち、家族単位になった時に、どのような精神状態になるのか……すごく心配です」
阪神淡路大震災でも指摘されていたことだが、避難所生活の時よりも仮設住宅に移ったときに、そうした人は孤立してしまうのではないか。中井さんはそれを心配している。心配事はそれだけではない。
「全国からの支援がなければ生活ができない。本当にありがたい。いまは報道(取材)も来ている。しかし長くなれば、報道も冷えてくる。そのときはどうするのか」
テレビや新聞で報道が数多くされる初期段階は、全国からの注目を浴び、支援物資やボランティアもそれなりに集まってくる。ただ次第に街が片付き、公共施設もそれなりに整備され、徐々にプライベート空間ができ、仮設住宅が整備されていくと、「復興」のイメージができていく。そうした段階にも、必要な支援はあるはずだが、支援の必要性は目には見えにくくなる。
支援は長期的に考えてほしい。それは中井さんだけでなく、多くの被災者が望んでいることだろう。(続く)
●渋井哲也(しぶい・てつや)氏のプロフィール
1969年、栃木県生まれ。フリーライター、ノンフィクション作家。主な取材領域は、生きづらさ、自傷、自殺、援助交際、家出、インターネット・コミュニケーション、少年事件、ネット犯罪など。メール( hampen1017@gmail.com )を通じての相談も受け付けている。
著書に『自殺を防ぐためのいくつかの手がかり』(河出書房新社)、『実録・闇サイト事件簿』(幻冬舎)、『解決!学校クレーム』(河出書房新社)、『学校裏サイト 進化するネットいじめ』(晋遊舎)、『明日、自殺しませんか?』(幻冬舎)、『若者たちはなぜ自殺するのか?』(長崎出版)など。メールマガジン 「悩み、もがき。それでも...」を刊行中。
NCN(ニコニコニュース)
ちなみに、近くにある高田小学校は冠水。高田保育園は津波に飲まれてしまった。高田高校では生徒18人が死亡、4人が行方不明になっている。
●高齢者が多い避難所、要介護者も
避難所生活は刻々と変化している。避難所の代表、避難生活者などはその後、変わっているので、以下はあくまでも「4月1日現在」ということを前提に読んでほしい。
この日、避難所の代表(当時)で、商工会の事務局長も務めている中井力さん(61歳)に話を聞いた。中井さんによると、第一中学校で避難生活をしている人は、震災から5日目が最大で1400人ほどが集まった。
年齢層は高齢の方が多いという。「陸前高田の高齢化率は33%ですが、体育館に避難している人たち(の高齢化率)は、それをはるかに超えています」(中井さん)
乳幼児は約10人。「保育士が必要ではありますが、親子で避難しているのでそのあたりは、おまかせになってしまっている」
このほか、視覚障害者や要介護者もいる。有資格者のボランティア派遣をしているNPOなどもあるが、積極的に連絡を取ることはない。ただ、そうしたNPOが出向いてきた場合は、歓迎する姿勢を見せていた。
こうした状況での避難所運営は楽ではないが、「誰かが避難所運営をしないといけない。去年の3月まで、市の職員でした。こういう時には率先してやっていかないといけない」と中井さんは話す。公のために自らが働く精神は、公務員を辞めた後でも続いている。同時に、商工会が仮事務所を作り、仕事が始まっているという。「商工会での仕事をしながら、避難所でのお世話をしています」
避難所の運営は、各行政区からの推薦者10人ほど集めた。ボランティアは20人ほどがいる。料理担当者も決めた。
避難所では、何が足りないのか。「これ(避難生活)は長期戦になります。今、足りていても、将来どのようになるのか分からない。いつか足りなくなるかもしれない」
長期にわたる避難生活で何が不足するのかは、その時その時の状況によって変わってくるという。どのような支援物資が届くのかでも変わってくる。ちなみに、この日のインタビューで困っていたのは「調味料」だった。
●屋上で一夜を過ごした。雪が降っていた
体育館で生活をしている、金野剛さん(74歳)は震災の当時は市役所の屋上で一晩を過ごした。雪が降っていた、という。屋上には東側に70〜80人、西側に40人ぐらい逃げのびた人たちがいた。
「暗闇から『助けて!』という声があちこち聞こえた。誰がどこにいるのか見えない。どうしようもなかった」
そこから見えるのは、市民会館、ふれあいセンター、スーパーだが、その屋根まで津波が来ていた。第1波が最も大きく、4回目あたりも大きな波だった。5回目くらいからはおさまってきていたという。
屋上には翌日の午後6時ぐらいまでいた。その後、第一中学の体育館で家族4人で過ごしている。家は市役所のそば。そのおかげで助かったという。
「最初、大きな地震があって、大津波警報があったので市庁舎へ逃げた。入れてくれたので、4階の屋上へ行ったんです。津波は3階のフェンスまで来た。避難する前、用事があって出かけており、車の中でラジオを聞いていたんです。そしたら、釜石ではもう津波が来ているとのことだった。そのため『ここにも来る』と思った」
急いで家に帰り、避難所になっているふれあいセンターに向かおうとしたときには、すでに黒い波が見えていたという。高さは17〜18メートルを超えていたのではないかと見ている。「線路の手前に2階建ての建物があったんだが、それを超えていた」(金野さん)
大切なものを取りに戻って亡くなった人がいる、という話を、今回の取材では何回か耳にすることがあったが、金野さんは、「あれも、これも置いてきてしまったとは思ったが、取りに戻ることは考えなかった」と話す。
「還暦野球をしているが、野球仲間とまだ連絡がついていない人もいる。住んでいた地域の区長さんも亡くなった」
●お菓子が食べたい
地震の時は「15日に行われる卒業式の予行練習をしていた」というのは、第一中学の千葉拓也くん(13歳)。
「地震がおさまったら校庭に行きました。すると、大津波警報が鳴った。津波は見なかったが、友達が言うには『海が広がっているみたいだ』と。でも、ここは高台にあるので、ここまでは来ないだろうなと思った」
その後、体育館へ来た。家族は無事だった。「兄ちゃんは東京にいて、お父さん山形にいるので、岩手県にいない。お母さんは、働いているところのスタッフの車で逃げたので無事だった。助かってよかった」
避難生活での大変さについては「トイレが和式なのと、飲み物が足りない。お菓子があるとうれしい。昼間はテニスができるのでストレス解消にはなる」と話していた。
●報道されなくなったら、避難所はどうなるのか
代表の中井さんが心配していることがある。家族を亡くした人が多い中で、心のケアをどうするのか。
「心のケアについては、今は、ボランティアスタッフが来てくれている。しかし家族全員亡くし、ひとりぼっちになってしまったという人もいる。相当数が家族を亡くしている。ここにいて、みんなでわいわいしている時はいい。でも、ひとりぼっち、家族単位になった時に、どのような精神状態になるのか……すごく心配です」
阪神淡路大震災でも指摘されていたことだが、避難所生活の時よりも仮設住宅に移ったときに、そうした人は孤立してしまうのではないか。中井さんはそれを心配している。心配事はそれだけではない。
「全国からの支援がなければ生活ができない。本当にありがたい。いまは報道(取材)も来ている。しかし長くなれば、報道も冷えてくる。そのときはどうするのか」
テレビや新聞で報道が数多くされる初期段階は、全国からの注目を浴び、支援物資やボランティアもそれなりに集まってくる。ただ次第に街が片付き、公共施設もそれなりに整備され、徐々にプライベート空間ができ、仮設住宅が整備されていくと、「復興」のイメージができていく。そうした段階にも、必要な支援はあるはずだが、支援の必要性は目には見えにくくなる。
支援は長期的に考えてほしい。それは中井さんだけでなく、多くの被災者が望んでいることだろう。(続く)
●渋井哲也(しぶい・てつや)氏のプロフィール
1969年、栃木県生まれ。フリーライター、ノンフィクション作家。主な取材領域は、生きづらさ、自傷、自殺、援助交際、家出、インターネット・コミュニケーション、少年事件、ネット犯罪など。メール( hampen1017@gmail.com )を通じての相談も受け付けている。
著書に『自殺を防ぐためのいくつかの手がかり』(河出書房新社)、『実録・闇サイト事件簿』(幻冬舎)、『解決!学校クレーム』(河出書房新社)、『学校裏サイト 進化するネットいじめ』(晋遊舎)、『明日、自殺しませんか?』(幻冬舎)、『若者たちはなぜ自殺するのか?』(長崎出版)など。メールマガジン 「悩み、もがき。それでも...」を刊行中。
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