ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

「この身体が、被災者のためになるなら」乙武洋匡 自分の感情よりも、美学よりも

2011年07月30日 01時54分29秒 | 障害者の自立
 手足のない乙武くんが、プロ野球の始球式をやるらしい。

 それはまるで、タチの悪い冗談みたいな話だった。デリケートな誰かが聞いたら「障害者を侮辱するな」と怒り出すかもしれないような、そんな類の戯言。あるいは、このところ乙武氏自身がTwitterで繰り返し発信しているような、とびきりブラックな自虐ギャグ――。

 だが実際、5月6日の楽天イーグルス対西武ライオンズのナイトゲーム、Kスタ宮城のマウンドに乙武洋匡氏は立っていた。サウスポーから投じられたボールはふわりと弧を描き、ライオンズ片岡易之のバットはゆっくりと、その瞬間を慈しむかのように空を切った。


 スタジアムは、割れんばかりの歓声に包まれた。「ただボールを投げる」という、健常者にとってはごく普通の動作が、やはりとことん普通ではなかったのだ。

 この始球式が乙武氏にとって、震災後初の被災地入りの機会だったという。この日のKスタを含め、茨城、福島、宮城を回った彼の被災地訪問は『希望 僕が被災地で考えたこと』(講談社)という本になった。講談社26階の会議室に乙武氏を訪ねると、あの日ボールを投げた短い短い左腕を器用に操って、ごく普通に携帯電話でTwitterにメッセージを打ち込んでいた。

──今回、被災地を訪れるにあたって「自分に何ができるのか」という、大きな葛藤があったそうですが。

乙武洋匡(以下、乙武) そうですね。震災が起こってから、ずっともどかしい思いがありました。Twitterを見ていると、友人たちが救援物資を持って被災地に行って、炊き出しのボランティアをしたり、がれきの撤去のお手伝いをしたりしていて。自分だって行きたい、という気持ちはあったけれど、いったい僕が行って何ができるんだ、かえって足手まといになるだけだろうと。ずっと悔しかったんですよ。でもだんだんと報道で、食料や必要最低限の生活物資が揃ってきたというのが分かったときに、今度は被災者の方々が前向きな気持ちを取り戻していくことが重要になっていくのかな、そのためのお手伝いなら僕にもできるのかもしれないな、と思えるようになってきた。それが4月の後半くらいですね。


──ご友人で女優の水野美紀さんがボランティアに行った際に「自分がテレビに出ている人だから喜んでもらえた」と感じられたというお話がきっかけになったとか。

乙武 やっぱり水野さんと同じように、自分がテレビに出ている、知られている人間であるということのメリットというか価値のようなものもあると思うんですけど、また他の芸能人の方たちと僕が違うのは、僕が普通にしているだけで力を感じ取ってくださる方がいっぱいいるんですね。僕は小さいころから、普通にしているだけでほめられることが多かった。字を書いた、ご飯を食べた、歩いた、というだけで、「すごいね、そんなこともできるんだ」と。それはつまり、障害者だから何もできないだろうという前提があるからなんですが。

 例えばね、僕、普段東京で町を歩いていて、突然おばあちゃんに拝まれたりするんですよ。おかしな話じゃないですか。でもきっとそれは、いろんな経験をされてきた方にとっては、こうしていろいろなものを失った身体で生きている人間を見ると、頑張っているんだな、自分もがんばらないとな、と思ってくださるものなんですよね。それは、これまでいただいたお手紙やメールでもすごく感じていて。

──楽天の始球式を引き受けたのも、そうした思いから。

乙武 実際楽天からは、マウンド上にピッチングマシーンを設置して僕がそのスイッチを押すとか、逆に僕がバッターボックスに立ってプロのピッチャーに投げてもらうとか、相談の過程ではいろいろなアイデアがあったんです。でも、僕自身が「自分で投げさせてほしい」とお願いした。僕がこの短い腕とほっぺたの間でボールを挟んで投げる姿を見ていただくことで、乙武もいろんなものを失ったけれど、残された部分でああやってボールを投げてるんだ、私たちも確かにいろいろなものを失ったけれど、この残された命と残された人のつながりで、もう一度頑張っていこうと、そんな気持ちになってくださるなら......と。

──その始球式をテレビで拝見しましたが、ものすごいビジュアルインパクトでした。正直に言えば、いろいろな感情があって、それはどこか後ろめたさ、あるいはこの風景を見て喜んでいいのか、という気持ちは湧いてきたんですけれど、それよりも、伝える力というか、ものすごく大きな感情が表現されていると感じたんです。でもそれは、これまで「自分は普通のことをしているだけだ」と言い続けてきた乙武さんが、ご自身の障害を利用することでもありましたよね。

乙武 今まではやっぱり、僕自身の感情とか思想、哲学のようなものの中では、それはきれいじゃないな、美しくないな、という思いがあったんですよね。でも今回いろいろ考えていくうちに、今優先されるべきは僕の感情でも思想でもなく、被災地の方々だなと思ったんです。そう考えたときに、僕の考えに多少そぐわなくても、僕自身がそこに対して拭いきれない気持ちがあったとしても、そんなことより優先されるべきは、僕がそれをすることで実際に力を与えられる人間がいるという事実なのかな、ということなんです。

――それは今回の震災を経て、新たに芽生えた自覚というか、もしかしたら人生の中でも大きな転換点になるものなのでしょうか。

乙武 そのご質問で言うと、答えはまだ出ていないですね。この先も、被災地に対してだけでなく、普段の行動、普段の生活からそういった考えができるようになれば、それは人生の転機と言えるかもしれない。だけど、今回、被災地の方々に対して力になりたいという思いから、僕は特例的にそういうことをしたのかもしれない。今はまだ、ちょっと分からないです。

──少なくとも今回に限っては、多くを失ったご自身の身体を見せることで、被災者に元気を与えることができた。

乙武 僕は二十歳のときに、なんで僕には手足がないんだろう、と考えたんですね。僕だけ違うということは、こういう身体を与えられた人間にしかできないことがあるんじゃないのかな、だから自分にしかできない活動をしていこう、それがここ15年間の僕のポリシーなんです。

 ただ、そこで単純に「だから被害に遭われた方もそういう風に頑張ってください」とは言えないんです。僕は、最初からなかった。確かに結果論で言えば僕の身体はハンデが大きいし、周りの方とも大きく違う。だけど、同じ僕という時間軸の中で考えれば、最初からない、今もない、で、プラスマイナスゼロなんです。そこで何かを大きく失ったという喪失感はない。

 そういった意味で、今回被害に遭われた方々は、あったものがなくなったという喪失感がすごく大きいと思うので、そこはやっぱり、僕と同じ土俵に上げて「僕もない中で頑張っているから、あなたたちも頑張って」という言い方は難しいんです。

 ただ、現地の人がすごく喜んでくれたんですよね。自分たちが見放されてないんだ、こんなにみんなが、日本中から思ってくれてるんだっていう、そのことが伝わるだけでもやっぱりみなさん喜んでくださる。ほんとに、顔をくしゃくしゃにして「よく来てくれましたね」って言ってくださるんです。僕なんかが行くだけでもこんなに喜んでくださる方がいるんだな、というのは、すごく驚きでしたね。
(【2】へつづく/取材・文=編集部/写真=岡崎隆生)

●おとたけ・ひろただ
1976年、東京都生まれ。早稲田大学在学中に出版した『五体不満足』(講談社)が多くの人々の共感を呼ぶ。卒業後はスポーツライターとして活躍。その後、05年4月より、東京都新宿区教育委員会の非常勤職員「子どもの生き方パートナー」。07年4月~10年3月、杉並区立杉並第四小学校教諭として教壇にも立った。おもな著書に『だいじょうぶ3組』、『オトタケ先生の3つの授業』(共に講談社)など。

日刊サイゾー

東日本大震災:潮のにおいに津波の恐怖、今も癒えぬ心の傷--岩手・釜石の全盲男性

2011年07月30日 01時50分04秒 | 障害者の自立
 東日本大震災では多くの視覚障害者も被災した。一命を取り留めたものの、心に深い傷が残り苦しんでいる人もいる。その一人、岩手県釜石市に住む全盲の小笠原拓生さん(44)は「『潮のにおい』で津波の恐怖がよみがえり、落ち着いて過ごすことができない」と訴える。

 小笠原さんは27歳の時、免疫疾患の一種「ベーチェット病」が原因で全盲になった。2人の叔父が会長と社長を務めるビル管理会社で働いており、震災当日は海に近い市内の3階建て自宅兼事務所にいた。

 揺れが収まり2階で待機していると「(津波が)来た来た!」と叫び声が聞こえた。必死で3階に駆け上がると、「ザザザ」という巨大な音が響いて、すぐに2階まで浸水。水が引かなかったため、他の従業員らと3階で翌朝まで過ごした。

 周囲は強い潮の香りに包まれ、漏れたガソリンや灯油のにおいも混じり合う。夜中には流れたがれきがぶつかり合う音が響いた。「何を考えて過ごしていたのか覚えていない」。妻と3人の子供は無事だったが、2人の叔父と従業員1人が津波の犠牲になった。

 叔父を継いで社長となった小笠原さんは、海岸から約5キロ離れた場所に自宅と事務所を移転。2週間に1回は片付けなどのため被災した自宅に戻る。建物に染み付いた潮のにおいをかぐたびに、「この場所にいるのが怖い」という気持ちになる。一度、衣装ケースを開けたら腐った海水があふれ出てきたことがあり、その強烈な異臭は忘れられない。

 魚の腐敗臭にも不安をかき立てられる。「被災地一帯が人間の力でコントロールできていないことを突きつけられているようだ。再び災害があった時に逃げられるのか。周りの人にリスクを負わせてしまうかもしれない」と心配は尽きない。

 視覚障害者の福祉増進などに取り組む日本盲人福祉委員会は「多くの被災者から悩みが寄せられている。生活面や心理面で、健常者よりも立ち直りが困難になっている」と話す。

毎日新聞 2011年7月19日 東京夕刊


障害者雇用:就職1.5倍目標 労働局・県など、促進計画を始動 /埼玉

2011年07月30日 01時46分46秒 | 障害者の自立
 県内企業の障害者雇用を促進しようと、厚生労働省埼玉労働局(苧谷(おたに)秀信局長)は今月から、「障害者雇用支援戦略プロジェクト」を始めた。28日は県、さいたま市、県雇用開発協会などと初会合を開き、▽ハローワークを通じて就職する障害者を、10年度の2060人から、15年度に1・5倍の3090人に増やす▽5年後には、障害者の勤続年数を今年度比で2年以上延ばす--などの目標を決めた。同局によると、県内の民間企業の障害者雇用率は1・59%(10年6月現在)で、全国で42位。障害者雇用促進法の法定雇用率1・8%をクリアできていない。

 企業が障害者雇用率を上げるには、障害者に適した職場環境を作って集中的に雇用する「特例子会社」を作る方法がある。しかし従来は、設立の相談に乗る役所の窓口が、ハローワークや県などに分散していた。設立促進のため、今後は窓口を同局に一本化する。

 同局はまた、障害者を雇用したい企業を集め、障害者向けの就職説明会などを開く。県教委など法定雇用率を達成していない公共機関には、雇用率向上に向けた助言をする。

 一方、県内で働く障害者の勤続年数は、従来はデータがなかった。今年度に初調査を行うとともに、特別支援学校の生徒と保護者、学校、企業を対象にした「4者面談」などに取り組んで勤続年数の延長を目指す。

 プロジェクトの本部長を務める、埼玉労働局の小野寺徳子職業安定部長は「関係機関が強味をいかして連携し、障害者の方が一人でも多く活躍の場を得てほしい」と話している。

毎日新聞 2011年7月29日 地方版


MMに障害者地域活動支援センター「仕事処アニミ」-カフェやパン工房も

2011年07月30日 01時43分00秒 | 障害者の自立
 NPO法人「アニミ」(服部一弘理事長)は7月27日、横浜市地域活動支援センター精神障害者作業所型「仕事処アニミ」(小林朋未所長、横浜市西区みなとみらい4)の開所式を行った。19人の通所者がカフェ接客、パン製造、小物作りなどの軽作業の3事業に従事し、地域との交流を深めつつ、全国から観光客が集まるみなとみらい21地区から「障害者の社会参加が当たり前の社会」を実践・発信していく。

 「仕事処アニミ」は、約100平方メートル。カフェ・パン製造工房・事務スペースに分かれている。ホームセンター・ファミリーレストランなどが入居するビル内、みなとみらい大通り沿いに位置している。アンパンマンミュージアムなどが近く、土日などは家族連れなどでにぎわう利便性の高い場所にある。

 アニミは2003年から、同じスペースをNPO法人の活動拠点として利用してきたが、この6月から、障害者自立支援法に基づく「地域生活支援事業」の1つである「地域活動支援センター」の位置付けで、新たに事業をスタートすることになった。

 開所式には、地域の自治会・行政・医療関係者など約40人が集まった。

 来賓の祝辞の後、自身も車いすを使っている服部理事長が、NPO法人として積み重ねてきたこの7年間の活動を振り返りながら「これからは、社会参加・地域との交流がまだまだ不十分な環境に置かれている精神障害者のみなさんを、私たち障害当事者と地域の方々とが力を合わせ一緒になって支援していきたい」と決意を述べた。

 さらに「活動の局面は変化したけれど、障害がある人が社会参加していくことで社会が変化する、という信念は変わらない」と、活動の原点を強調した。

 カフェアニミでは、工房で焼く自家製パンを使った軽食、ひき立てのコーヒー、スパイスから調合するカレーなどを楽しめる。

 現在アニミでは、発信や交流の実践事業として、インターネット放送局や哲学カフェなど、さまざまなアイデアが出ており、多様な自主事業を展開しながら、地域との共生を実践していく。

ヨコハマ経済新聞 -

改正障害者基本法:「社会のバリアー排除」成立

2011年07月30日 01時03分38秒 | 障害者の自立
 障害者の定義を見直し、社会的な障壁を取り除くための配慮を行政などに求めた改正障害者基本法が29日、参院本会議で全会一致で可決、成立した。施行は8月5日の見通し。06年に国連総会で採択された障害者権利条約の批准に必要な法整備の一環。障害の有無にかかわらず、人格と個性を尊重する「共生社会」の実現を目的に掲げた。

 改正案では、障害者の定義も見直した。制度や慣行など社会的障壁により日常・社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの、とする定義を追加、障害者が社会参加できない理由には社会の側のバリアーがあるとした。

 基本的施策では、円滑な投票のための投票所の整備や、裁判など司法手続きの際に手話など障害者の特性に応じた意思疎通の手段を確保することの配慮、関係職員に対する研修などを義務づけた。教育については、市町村教委によって障害のある子どもの受け入れ対応が異なるため、本人や保護者に対し、「十分な情報を提供し、可能な限りその意向を尊重しなければならない」と定めた。また、東日本大震災で障害者に避難情報が伝わらなかったケースを踏まえ、防災・防犯について必要な施策を講じることも義務づけた。【石川隆宣、野倉恵】

 ◇国連条約批准へ一歩
 今回の障害者基本法改正は、政府の国連障害者権利条約(06年採択)の批准に向けた、国内法整備の第一弾と位置づけられる。障害の定義を見直すなど重要な転換が図られた意味は大きい。ただし、障害者と家族がメンバーの過半数を占め、改正法について議論してきた政府の「障がい者制度改革推進会議」の素案とはまだ開きがあるなど課題も指摘されている。

 改正法で推進会議側が最も懸念するのは、障害者が「どこで誰と生活するか」などの選択の自由について「可能な限り」と制約する文言が入った点だ。「障害が重度の場合、医療設備が必要など選択が保障されない場合がある」のが理由で、内閣府が各省庁と調整し文案を作る中で盛り込まれた。「限定付きの基本法は他にない。男女平等などの基本法で『可能な限りの平等実現』はあり得ない」(福島瑞穂参院議員)と批判する声は強い。

 推進会議を1年半傍聴してきた、重度障害を抱える長女の母親で埼玉県在住の新井たかねさんは「残念な部分も多いので、私たちも(議論に)参加し働きかけ続けたい」と言う。長女は障害者自立支援法違憲訴訟の元原告。裁判での国との和解では当事者の意見を尊重するとされた。それを受けた推進会議は毎回ネット中継され、「参加意識」を感じる障害者や家族は多い。基本法に基づき福祉サービスなど関係法令を見直すことになるが、その過程で障害者の「参加意識」をしぼませないことも求められる。【野倉恵】

毎日新聞 2011年7月29日 12時51分(最終更新 7月29日 13時30分)