ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

障害者にラグビー体験

2011年11月25日 01時56分46秒 | 障害者の自立
関大一高部員が交流会

 吹田市の関大一高で23日、障害者を招いた「第5回チャレンジラグビー」が開かれた。同高ラグビー部員約30人が、中学生から20歳代までの障害者12人と交流。車いすの参加者もおり、部員たちに押してもらってグラウンドを駆けた。

 障害者にラグビーの楽しさを体験してもらおうと、毎年開催。準備体操の後、参加者はパスやキックの仕方を部員たちから教わった。ボールを持って走り、左右にステップを踏みながらトライをする練習も。参加者からは笑顔が絶えず、最後に「けるのがおもしろかった」「ありがとう」などと感想を話していた。

 同部の田村宏樹主将(17)は「障害のある人たちと触れ合え、笑顔を見られてよかった」と話し、東大阪市から中学2年の長男(14)を参加させた父親(40)は「息子がラグビーボールを持つのは初めてだったが、楽しそうにしていた」と満足そうだった。

(2011年11月24日 読売新聞)

障害者の製品 フェスタで販売 東海大学前駅前で初

2011年11月25日 01時53分40秒 | 障害者の自立
 東海大学前駅前南口広場で12月3日(土)、NPO法人秦野市障害者事業推進センターと同駅前商店会協同組合の共催で自主製品の展示即売会、ステージイベントなどを盛り込んだ「東海大学駅前フェスタ」が行われる。障害者週間(12月3日〜9日)に合わせて初めて開催されるもの。

 来場者に障害者に対する理解を深めてもらい、障害者がどんな製品を作っているのか知ってもらうことを目的としたこの催し。市内の障害者事業団体からの声で、今年9月頃から計画されてきた。開催にともなって協力を求められた同組合の林良洋理事長は、「できる限りやれることはやりたい。街の賑わいにもつながると思います」と快諾。催しの集客による地域の活性化への期待も高まる。

 今回は同センター会員18事業団体から、秦野精華園、くず葉学園、弘済学園、かがやき、松下園、大根工芸、ちっちゃな星の会、ジョブライフはたの、みのりの家の9事業団体が出展。それぞれの事業団体で作られた手芸品やパン、クッキー、豆腐、野菜などの自主製品が並ぶ。

 会場では、総勢およそ170人もの地域のダンスチームメンバーがキッズダンスとよさこいを披露するステージも見どころ。同組合ほかの協力による焼きそば、豚汁、おでん、クレープ、ラーメンなどの模擬店、一般公募のフリーマーケット等が催しを盛り上げる。

 時間は、午前10時から午後3時まで。当日のタイムテーブルは以下の通り。

▽大根中学校吹奏楽部(10時10分〜10時30分)▽キッズダンス&よさこい(10時40分〜12時)▽バルーンアート(午前中)▽軽音楽ステージ(13時〜13時半)▽ミュージックベル(13時40分〜14時10分)▽秦野観光和太鼓(14時20分〜14時50分)

 同センターの鈴野友市事務局長は「各障害者施設で作っているものを展示即売することで、皆さんに知ってもらえるよい機会だと思います。地元とのコミュニケーションによってそれぞれの活性化につながれば」と話している。

 イベントに関する問合せは、同センター【電話】0463(73)6031まで。

2011年11月24日号 タウンニュース


遷延性意識障害 全国アンケート(上)追いつめられる家族

2011年11月25日 01時36分56秒 | 障害者の自立
 河北新報社が全国遷延性意識障害者・家族の会などを対象に実施した調査では、介護の苦労や疲労、医療・福祉制度に対する不満など、数多くの切実な声が寄せられた。「長くは生きられない」「回復しない」などと医師らから宣告される一方で、4割が何らかの回復を示していることも分かった。241人から寄せられた回答を基に、患者と家族の現状と課題をまとめた。

◎寄り添う医療・福祉を/在宅、厳しい環境受忍?/全国遷延性意識障害者・家族の会代表 桑山雄次さんに聞く

 全国遷延性意識障害者・家族の会の桑山雄次代表(55)は、調査結果について「予想よりも介護疲れを感じる患者家族が少なかった。厳しい介護環境を受け入れてしまっているのではないか」と懸念する。医療、介護職に対しては「障害への理解を深め、患者への寄り添う姿勢がほしい」と求めた。
 ―介護疲れを「常に感じる」が約4割いたことをどう受け止めるか。
 「8割くらいと感じていたが、予想より少なく驚いた。たんの吸引などで夜もほとんど眠れなかったり、介護サービスを利用できなかったりする現状を受け入れ、家族が負担を抱え込んでしまっている危険がある。逆に怖いのは、4%の『全く感じない』との回答。つらい介護が日常化するほどまひしている恐れがあり、深刻な問題だ」
 ―患者家族の8割以上が偏見や社会の理解不足を感じている。
 「遷延性意識障害は医療的ケアが必要で症状の個別性が高く、周囲の人に理解してもらえない。医療職ですら知識が乏しいことも事実だ。意識障害に詳しいスタッフによる集中的なリハビリや介護で症状が改善する面もあり、医療職には決して諦めてほしくない。仮に回復が難しい場合でも、障害を重くしないための寄り添う姿勢がほしい。回復に時間のかかる重度の意識障害を支える保険医療制度も必要だ」
 ―震災調査では要援護者登録制度について「あるか分からない」が6割を超えた。
 「個人情報保護法が悪い方向に出た典型で、行政は個人情報を逃げ口上に準備を怠っている。本来ならば絶対に把握しなくてはならない情報。在宅家族も3日程度、支援なしで乗り切れる備えが必要だ」
 ―家族会として行政に求めることは。
 「医療や介護の現場は、ぎりぎりの人数やぎりぎりの単価で運営されており、余裕が全くない。結果として家族が負担を抱え込みがちになる。介護疲れで家族が倒れたり、今回のような震災が起きたりすれば、現在の仕組みは崩壊する。在宅医療を進めたいのであれば、何が在宅を阻んでいるのか、国はきちんと分析すべきだ。命をしっかり守っていく姿勢を堅持してほしい」

<くわやま・ゆうじ>次男敦至さん(24)が小学2年の時に交通事故に遭い、遷延性意識障害になる。全国遷延性意識障害者・家族の会の設立準備にかかわり、2004年の発足とともに代表に就任。大阪府交野市の自宅で妻晶子さん(51)と敦至さんの3人暮らし。


◎負担/60代、20時間超介護23%

 遷延性意識障害者の家族が介護に関わる1日当たりの時間では、在宅は20時間超が29.3%で最も多く、16時間超~20時間以下21.4%、12時間超~16時間以下15.0%の順。在宅世帯の3分の2が12時間を超える介護に従事していた。
 病院・施設では4時間以下が最多の52.0%。次いで4時間超~8時間以下の27.0%だった。
 介護者の年代でみると、60代は20時間超が23.8%で最も高く、50代は20時間超と4時間以下がともに21.3%で最多。70代以上で20時間超の介護を続けている人が3人いた。
 介護の疲れの度合いでは、介護者の全ての年代で「常に感じる」がトップ。とりわけ80代以上の割合が66.7%と高い。
 障害者の所在別では、在宅は「常に感じる」が59.3%を占めたが、病院・施設は「週に何度か感じる」が最多の30.0%で、「常に」は25.0%にとどまり、介護場所で疲れの度合いに大きな違いが出た。
 障害者の年代別では、介護保険制度の対象外となる20代以下、30代で、「常に感じる」が5割を超えたほか、脳卒中などの特定疾患を除き介護保険を利用できない40代でも48.6%と高かった。
 家計への負担感に関しては、「大いに感じる」が25.7%、「ある程度感じる」が43.6%で計7割に迫った。介護場所で見ると、「大いに感じる」は病院・施設で34.0%と負担感が高く表れたが、在宅も20.0%に上った。
 1カ月当たりの自己負担額は4万円超~6万円以下(18.3%)、8万円超~10万円以下(13.3%)の順。4分の1が10万円超を自己負担しており、そのうち20万円超が7.5%あった。
 所在別では、在宅は4万円超~6万円以下(19.3%)、2万円以下(17.9%)、2万円超~4万円以下(16.4%)が上位だった。一方、病院・施設は4万円超~6万円以下、6万円超~8万円以下(いずれも17.0%)、8万円超~10万円以下15.0%が上位を占めており、病院・施設の自己負担額は在宅よりも高めの傾向だった。

◎経過/4割に何らかの回復

 介護者なき後に頼れる人や施設が「いない(ない)」との回答は63.1%に上った。主介護者の年代で見ると、7割以上を占めたのは40代(70.4%)と60代(70.0%)で、80代以上(33.3%)を除くほかの年代も5割を上回った。
 頼れる人や施設が「いない(ない)」と回答した人のうち、きょうだいを介護している人が最も多く75.0%に上り、子の69.7%が続いた。「いる(ある)」の割合が高かった配偶者(43.4%)、親(38.5%)でも4割程度で、問題の深刻さをうかがわせた。
 遷延性意識障害になってからの経過年数は、2年超~4年以内が19.9%と最多。6年超~8年以内が17.8%、4年超~6年以内が17.4%だった。10年超の患者が2割以上おり、18年を超える患者も12人いた。
 介護場所では、在宅は6年超~8年以内が最多の22.1%だったが、病院・施設は2年超~4年以内の28.0%が最も高かった。10年超の割合は在宅(24.3%)が病院・施設(14.0%)を上回っている。
 病院や施設の転院・転所回数の最多は3、4回の37.8%。5、6回は12.4%あり、5回以上となると計20.2%に達した。9回以上の転院者も10人いた。
 遷延性意識障害の定義の6項目のうち、改善した症状(複数回答)では、意思の疎通が27.0%、視覚認識が19.5%、自力摂食が10.4%。患者の約4割に何らかの回復が見られた。変化の見られないケースは57.3%だった。
 発症原因別で「変化なし」の割合が低かったのは、脳外傷の転倒・転落(40.9%)、交通事故(50.0%)。割合の高かったのは心疾患、医療事故(ともに75.0%)、脳卒中(71.1%)で7割を超えた。
 介護場所でみると、在宅の方が改善傾向が高い。変化なしの割合は在宅が51.4%、病院・施設が66.0%だった。
 障害を負った年代別で、変化なしの割合が低かったのは、60代(41.2%)、10代以下(42.9%)、40代(47.1%)。高かったのは70代以上(90.0%)だった。 (2011/11/24)




河北新報

まず、個より始めよ――被災障害者の過酷な現実から考える防災のあるべき姿

2011年11月25日 01時12分42秒 | 障害者の自立
 前回、東日本大震災の際、高さ2.7メートルの津波に襲われた北海道・浦河町で「完璧」に津波避難を成し遂げた「浦河べてるの家」の精神障害者たちのエピソードを紹介した。

 それでは、障害者が被災するとはどういうことなのであろうか?

「障害者」と一口に言っても、障害の程度や内容は人によりさまざまである。まず、比較的想像しやすい身体障害者の実例を紹介しよう。

障害者が被災するということ
――熊篠慶彦氏の体験


 川崎市宮前区在住の熊篠慶彦氏は、特定非営利活動法人ノアールを運営して障害者の性のバリアフリー化に関する活動を行う、極めてアクティブな身体障害者である。生まれつきの脳性麻痺により四肢が不自由なので、電動車椅子を利用している。

 3月11日、熊篠氏は、自宅で外出の準備を始めようとしたところ、地震に襲われた。川崎市は震度5弱であった。熊篠氏の住まいの中では、家具の転倒は起こらなかったが、本棚の本が何冊か落ちたそうだ。

 地震の発生後、川崎市ではすぐに停電が発生した。このことは、熊篠氏が外に出られなくなることを意味した。熊篠氏が外に出るためには、住まいに設置されている電動リフトを利用しなくてはならない。停電すれば、リフトは利用できなくなる。外出に備えて、電動車椅子のバッテリはフル充電状態だったが、それ以前に外に出ることができない。


熊篠慶彦氏。特定非営利活動法人ノアール理事長。障害者の性のバリアフリー化に関する多様な活動を展開。

 熊篠氏は、まず情報を得ようとした。何が起こったのか。電車は動いているのか。停電しているので、パソコンとインターネットは利用できない。非常時に備えて所有していた電池式のラジオで情報を得た。東京の都市圏に大混乱が起こっていることが判明した。熊篠氏は出かける予定を断念した。

 次に熊篠氏が行ったのは、友人知人たちに無事を知らせることだった。出かけるためにフル充電状態にしてあった携帯電話を利用し、Twitterとブログに「無事」と書き込んだ。この後は、電気の供給が復旧するまで携帯電話の電源をオフにしていたそうだ。いざという時の最後の命綱だからである。

 熊篠氏は独居で自立生活を営んでいるが、四肢の不自由な障害者が自立生活を営むにあたっては、数多くの電気機器が必要である。停電のため、それらは全く利用できなくなった。照明も暖房も利用できず、暗く寒い中で、熊篠氏は数多くの問題について思いをめぐらせた。食事はどうすればよいのか。米は買ってあるし、ふだんから、3日分くらいのレトルト食品の備蓄などの危機管理はしている。しかし、水とガスは止まっていないけれども、電気が使えない。ピザや寿司の出前を取ることも考えたが、電話は不通になっていた。結局、その晩は、冷凍庫にあったおにぎりをガスの火で煮込んで食べたそうだ。

 飲食すれば大小便が出る。しかし停電のため、トイレの局部洗浄機能は使えない。熊篠氏は「大が出たらどうしよう」と心配した。幸いにして、「大」は出なかったそうだ。

 暗くて寒くてすることがないので、熊篠氏は17:30ごろにベッドに入り、ラジオに耳を傾けていた。ベッドは電動ベッドである。熊篠氏はふだん、ベッドをさまざまな高さで利用する。高くして読書用の机がわりに利用することもある。もし、その状態で停電していたら、熊篠氏が自力でベッドに入ることは不可能であったと思われる。幸い、その時の電動ベッドは、熊篠氏がベッドから電動車椅子に移乗した時のままの状態であった。熊篠氏は自力でベッドに入ることができた。

 そのうちに、いわゆる「帰宅難民」の様子がラジオで報じられはじめた。もし熊篠氏が予定通り外出していたら、車椅子で「帰宅難民」になったであろう。

 各自治体は、災害時に障害者の安否を確認して避難などの行動を支援するシステムを提供している。川崎市にもそのシステムはあり、熊篠氏も登録していた。しかし、電話回線のつながりにくい状態が長時間続き、熊篠氏も携帯電話の電源をオフにしていた。結局、そのシステムを利用した連絡は、来なかったのか、来ても通じなかったのか判然としない状態であったそうだ。

 熊篠氏は、「宮前区の福祉課の職員の人数は5人か10人くらいだから、人数を考えると対応できっこないんですよ」という。

 ふだんヘルパー派遣を受けている介護事業所からの連絡もなかったそうだ。介護事業所は、どこもギリギリの少人数でやりくりしているので、このような非常時に対応する余裕はないことが多い。致し方ない事情ではあるのだが、結局、熊篠氏の安否を公式には誰も確認できなかったということになる。

 電気の供給は、22:00ごろに復旧した。熊篠氏は「停電はそんなに長くは続かないだろう」と楽観していた。その後の計画停電も、近くにJRの操車場があるため免れた。

震災後、ライフスタイルは一変
外出を控えざるを得なくなった様々な事情


 しかし、極めてアクティブだった熊篠氏の行動は、震災後、一変した。熊篠氏は「出かけるのが怖い」と考え、なるべく外出を控えるようになってしまったのである。あの震災の日、多数の健常者が「帰宅難民」となり、徒歩で数時間をかけて帰宅することになった。

 熊篠氏は、「障害者だからというつもりはないし、言いたくもないけど」と語るけれども、大型の電動車椅子に乗っており、タクシーを利用することのできない熊篠氏が「帰宅難民」となったら、健常者には想像を絶する困難があることだけは間違いない。

 また震災後、道路の路面の状況が変わったことも、熊篠氏に外出を控えさせる原因となっている。震災で陥没したり、陥没した跡が埋められたりで、路面の凹凸などの状況は大きく変わっている。しかし、そのような細かい路面情報はどこにもない。車椅子利用者は、自分が通過することによって路面の情報を集積して行動に役立てているのだが、震災などで大きく状況が変わると、情報の収集と集積をやり直さなくては安全を維持できないことになってしまうのだ。

 では、次に大きな災害が首都圏を襲ったら?

 熊篠氏は、「どうにもならないものはどうにもならないでしょう。行政に頼る・地域で支えるといったことが絵空事とは言わないけれど、そういう備えが機能しなくなるのが大災害の時でしょう?都市部のように集中していればいるほどリスクが大きいし」と語る。確かに、それはそのとおりであろう。


震災で発生したバリアの例。東日本大震災でタイル舗装が破損した後、修復されていない。車椅子にとってのバリアとなっている。点字ブロックも破損している。(下)配慮不足によって発生したバリアの例。ある施設の構内に入る通路と歩道の間に設けられた排水溝の縁が、歩道から3cmほど切り立っている。歩行困難者・車椅子利用者にとってはバリアとなりうる。

浦河町役場の取り組み
――自治体の限界の中で必要なインフラ整備


 では、精神障害者たちが完璧な津波避難をやり遂げた浦河町では、自治体はどう考えているのか。

 浦河町保健福祉課長・吉野祐司氏は、筆者に、「緊急時、自治体が災害弱者すべての避難を支援することは、基本的に無理だと思います。地域の協力をお願いするという方向にならざるを得ません」と答えた。

 正直なところ、筆者は驚いた。「無理」と明言する自治体職員に初めて接したからである。しかし、考えてみれば当然のことである。有事の際、東京23区と概ね同面積の浦河町に点在する災害弱者を、140人(平成22年4月現在)の浦河町職員が支援することは、現実的に不可能だ。

 では、自治体として出来ることは、浦河町の場合は何であろうか。

「行政として行わなくてはならないことは、まず第一に現状の確認と、情報提供、避難所の開設です。その後、物資提供、健康ケアを行う必要もあります。物資も、地域住民全員に行きわたる量は備蓄できないので、足りない場合は、自衛隊や他の自治体に応援をお願いする可能性があります」(吉野氏)

 幸い、今回の震災では、避難所の必要性はそれほど高くなかった。もともと浦河町は、全国平均の数十倍の頻度で地震に襲われてきた地域である。住民は地震に対して非常な慣れがある。今回も、避難所に避難しなくてはならない差し迫った脅威があるかどうかは疑問であった。避難所に避難した住民の主なニーズは、「夜間に来るかもしれない津波が怖いので、海岸線から少しでも離れたい」ということであった。避難所の使用率が特に高かったのは、海の近くに住んでいる高齢者夫妻であった。ちなみに、3月11日の大震災の際の浦河町全体での避難率(避難所に来た人の比率)は11%だったそうである(この他に、知人宅等への避難・車で避難して車中泊といった避難行動を行った人々もいた)。

 浦河町企画課長・浅野浩嗣氏は、役所としてすべきこととして

「避難場所を作ること」

 を挙げる。学校・公園などがあれば、それらを利用するが、避難場所として適切な場所がない地域も多い。そのような地域には、民間の空き地などを避難場所として利用できるようにする必要がある。実際に、浦河町職員が所有者と交渉を行ってきた結果、現在はどの地域にも避難場所がある状態になっているそうだ。

 次に必要なのは、その避難場所に実際に避難できることである。そのためには、避難ルートを確保する必要がある。その手すりは、平時にも生活の利便性を高めるであろう。

 浦河町の場合、町の動脈といってよい「浦河街道」が海のすぐそばを走っており、その道路が被害を受けた場合には交通が利用できない状態になることが問題である。そこで、もっと高い場所に第二の道路を作り、地域と地域を結ぶ役割を担わせる計画があるそうだ。

「利便性が高くなり、安全性も高くなるのが理想です」と浅野氏は語る。

“地震慣れ”した住民の防災意識をどう高めるか

 それにしても、インフラに関して可能な取り組みは多くない。より重要なのは、住民の意識を高めることだと思われる。この問題について、浦河町総務課参事(防災担当)・三澤裕治氏は「ふだんの防災意識を高めることは、簡単ではありませんね」と率直に語る。

「浦河町の住民は地震慣れしています。地震に対して、経験値があります。経験値がありすぎて、安心しています。だから問題なんです。そこで、生の情報を提供することにしました」(三澤氏)

 浦河町では、「何メートルの津波が来たら、どこが浸水するか」を予測した浸水予測地図を作成した。今月(2011年11月)中に全世帯に配布する予定である。「だからこうしなさい」と書いてあるわけではなく、ただ、浸水予想が示されているだけである。

「まず、ご自分で考えていただきたいんです。『津波てんでんこ』ではないけれど、個人の意識を高めることが一番大事だと思っています」

 それでは、考えることはできるけれども行動できない弱者はどうすればよいのか。

「町の民生委員さんたちから、『どうやって避難の必要な人たちを守ったらいいんですか』とよく聞かれるんです。そこで『まず、自分が“逃げるぞー!”と大きな声を出して逃げてください』と言っています。誰かが大声を出して逃げていれば、それを聞いて逃げる人が出てくるし、その逃げる人を助ける人も出てきます」(吉野氏)

 結局、自分で考えて自分で行動する人が数多くいなければ、共同体や公共には何もできないということなのかもしれない。

「よく、『自助共助公助』と言っています。自分を助けるのが最初。次に共同体での助け合い。最後に公共が支援させていただく。どうしても、この順序にならざるを得ません」(浅野氏)

まず、個人が自分を助けよ

 前回述べたように、「べてるの家」の完璧な津波避難の出発点は、清水里香氏の「津波の時にパニックになったら逃げられない、どうしよう」という個人的な悩みだった。清水氏の「助かりたい、自分を助けたい」という思いが、清水氏の住む「べてるの家」のグループホームのメンバーに共有され、国立リハビリテーションセンター研究所を巻き込み、浦河町を動かす動きとなったのだった。

「べてるの家」には、「自分助けは人助け」という格言がある。自分の困っていることを解決すれば、そのことで同じ悩みを持つ他の人も助けられる、という意味だ。清水氏の「自分助け」は、数多くの人を地震と津波の恐怖から救うことになった。

 熊篠氏の場合も、冷静な情報収集・判断・日常からの危機管理が、パニックや被害の拡大から本人を救った。山で遭難した時の対処の基本は、まず「うかつに動かないこと」である。状況を把握し、どうすれば確実に対処できるかが理解できるまでは、動くこと自体がリスクである。熊篠氏は停電によって外出できず、その状態で情報収集を行わざるを得なかったのだが、重度障害者の1人が自分自身の安全確保を行うことによって、どれだけ医療その他の社会資源の有効活用が行われたか。考えるまでもないであろう。

 浦河町役場の吉野氏は語る。

「ハードウェア、インフラはなかなか作れません。資金の問題もありますし、作ったからといって役に立つかどうかという問題もあります。たとえば、津波から逃げようのない地域に、高さ30mくらいの『お助けタワー』を作ればいいんじゃないか?というご意見もあるんですが、着工途中に津波が来ちゃうかもしれないし、30年後、老朽化した時に津波が来て倒壊して役に立たないかもしれません。でも、ソフトウェア、意識や知識はその日から役に立ちます。だから、防災地図などのソフトウェアづくりや、地域住民の意識を高めることに、特に力を入れています」

 自分は災害時に何が怖いか。どのような災害から、どのように助かりたいか。

 まずは自問自答してみることが、より確実な防災への一歩かもしれない。


海すぐそばにある防潮堤。海抜4mの高さ。東日本大震災の際、浦河町を襲った津波(2.7m)から町を守った。だが、ハードウェアだけに頼らずに、防災時図などのソフトウェアに力を入れたり、住民の意識を高めることも重要だ。

2011年11月25日 ダイヤモンド・オンライン