ゴエモンのつぶやき

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豊川に重症障害者施設 17年に開設

2014年02月05日 02時18分49秒 | 障害者の自立
 大村秀章知事は三日の定例会見で、豊川市小坂井町大塚の県有地に重症心身障害者の民間入所施設が新たに開設されると発表した。同市の社会福祉法人「明世会」が六十四床を整備し、二〇一七年五月の開所を目指す。愛知は重症心身障害者入所施設の人口当たりの病床数が全国最低となっており、県は民間施設の建設支援や既存の県営施設の改築で、一七年度までに現行の三百九十床から六百九十四床に増やして「脱ワースト」を図る。

 重症心身障害者入所施設は、重度の知的障害と肢体不自由の患者に医療的なケアを提供する。県内には、県立が「青い鳥医療福祉センター」(名古屋市西区)と「心身障害者コロニーこばと学園」(春日井市)、国立が二施設の計四カ所のみ。

 昨年四月時点での県内の一万人当たりの病床数は〇・五一で、全国平均(一・五八)の三分の一。県によると、二千七百人余の患者の八割が在宅介護だが、介護する親の高齢化などで入所を望むケースが増えてくると予想される。

 大村知事は「愛知ではこれまで、重症心身障害者の対応は県と国がやると考えられてきたため、民間施設の整備が進んでいなかったのではないか。病床数を飛躍的に増やしていくため、民間でも一気に整備を進めたい」と述べた。

 県が昨年末、三河地域の社会福祉法人などを対象に、県有地での施設整備の意向調査を実施したところ、明世会など二つの法人が整備の意向を示した。

 県の審査の結果、明世会が、系列の医療法人が重症心身障害者の日中預かりに取り組んでいることから整備することになった。整備費は約十億円で、半分ほどを県と国が補助する。

 県内では一五年度、三つの重症心身障害者施設の新設が計画されている。

 県が第二青い鳥学園(岡崎市)の移転改築で九十床を整備するほか、一宮市では社会医療法人「杏嶺(きょうりょう)会」が百二十床の施設を開設。名古屋市も同市北区に九十床の施設を設ける。

 県のこばと学園は「療育医療総合センター」(仮称)に改築され、現行の百八十床が百二十床に集約されるが、入所者の一部は杏嶺会の施設などで受け入れる。

 今回の明世会の分を含めると、一七年度までに八施設で六百九十四床が整備されることになり、一万人当たりの病床数は〇・九三に改善して全国で四十二位となる見通しだ。



中日新聞 - 2014年2月4日

私たち障害者には、施設の増設よりも地域で生活するための安定した介助人員の確保や、バリアフリーの公営住宅の整備等に力を入れていただき、「親亡き後でも地域で安心して
暮らせる」そんな地域作りにお金を使ってもらいたい物ですが、我が儘なかんがえでしょうか?

出所の高齢・障害者支援

2014年02月05日 02時09分39秒 | 障害者の自立
社会復帰へ 住まい探し、福祉の手配

 刑務所を出ても帰る場のない障害者や高齢者の社会復帰をサポートする自治体の取り組みが広がっている。

 全ての都道府県で開設された地域生活定着支援センターがその拠点だが、課題も明らかになっている。

 「もう刑務所には戻りたくないです」

 千葉県内の福祉施設で暮らす60歳代の男性は話す。2年ほど前、20回目の服役を終えて刑務所を出所した。それまでは服役を終えても行き先はなく、所持金がなくなると、刑務所に戻ろうと無賃乗車をした。服役期間は計40年近くに上った。

 最初の服役は20歳代の初め。母親への傷害事件が理由だったが、後はすべてタクシーの無賃乗車だ。家族には頼れず、知的な障害も疑われた男性を手助けしたのは千葉県地域生活定着支援センターだった。

 出所の半年ほど前、刑務所から連絡を受けた保護観察所で、男性の家族は身元を引き受けられないことを確認。出身地である千葉県の同センターが入れる福祉施設を探すことになった。

 岸恵子センター長が刑務所で男性の意向を聞き、住民票のあった自治体に生活保護の支給を要請した。お陰で男性は出所直後から安定した生活を始められた。

 「家族や社会の支援がなく道を踏み外した受刑者は多い。刑務所に隔離するだけでは解決にならない」と岸さんは言う。

 同センターの支援でアパート暮らしをする女性(70)も、夫が病気で倒れた後、生活苦から万引きを繰り返し服役した。「出所後はホームレスだと覚悟していたけど、住まいまで探してもらえた。もう間違いは犯しません」と感謝する。

 法務省によると、刑務所から出る人は年間約3万人。そのうち、高齢や障害のため自立が困難な人は、2006年の調査で約1000人に上った。

 行き場のない出所者は、更生保護施設に最長6か月間滞在できるが、再就職が見込める若い人が優先される。高齢者や障害者で入れる人は少なく、当てもなく出所する人が多かった。

 身元引受人のない高齢出所者は再犯率が高い。07年の犯罪白書によると、65歳以上で刑期満了まで刑務所にいた人は7割が5年以内に再犯し、その4分の3は2年以内の再犯だった。

 こうした状況を受け、国は08年に犯罪対策の行動計画を策定。各都道府県に地域生活定着支援センターの設置を求め、49か所が開設された。各センターは、保護観察所の依頼を受けて出所前から面接を行い、釈放後の住まいを探し、生活保護や介護など福祉サービスの手配を行う。

 「再犯を重ねていた人が定着したなど、効果を上げているセンターもある」と厚生労働省の担当はいう。

就労など課題 一方、課題もある。

 神奈川県のセンターでは3年間で定住を目指して支援した35人のうち、6人が再犯で収監され6人は失踪。9人は簡易宿泊所など一時的な居場所にいる。犯罪歴を持つ高齢者や障害者を受け入れる福祉施設が県内に少なく、仕事に就ける人もほとんどないからだ。

 生活保護だと1人年200万円の公費が必要だが、服役すると年300万円、裁判などでさらに500万円かかるとの試算もある。

 更生保護に詳しい藤本哲也・常磐大学教授は「これまで司法と福祉のはざまで放置されてきた人たちを支援する仕組みが全国に整備されたことは評価できる。今後は、一般の労働市場で働くことが難しい人を雇用する『社会的企業』などを増やしていくことも必要だろう」と話している。(針原陽子)

 地域生活定着支援センター 刑務所から出ても引受先のない高齢者や障害者に個別の支援計画を作り、住居や福祉サービスなどを手配し、再犯を防ぐ。

(2014年2月4日 読売新聞)

大手3社、障害者手帳「提示」で割引 個人情報保護で是正へ 労連が発表 /三重

2014年02月05日 02時07分38秒 | 障害者の自立
 北勢労連・みえタクシー労組連絡会は3日、タクシーの障害者割引時の個人情報の取り扱いについて、県内大手3社で是正が進んでいると発表した。運転手が利用者の障害者手帳番号や住所、氏名などを書き写していたが、1社は手帳の提示だけで割引が受けられるようになり、他の2社も近く同様の方法に改める。

 磯部貞幸会長によると、運賃が1割引きとなるこの制度は1990年スタート。当初、各社は手帳番号などの書き写しを運転手に求めてきた。しかし、個人情報保護の観点から国土交通省が2009年、各タクシー協会などにやめるよう指導。全国的に是正が進んだが、県内では書き写しが続いていたという。

 連絡会は昨年10月から是正活動を開始。昨年12月21日から三重近鉄タクシー(四日市市)が提示方式に改めた。三交タクシー(津市)も4月1日から同様の措置を取る。名鉄四日市タクシー(四日市市)も近く改める予定だという。

 磯部会長は「障害を持つ人や運転手の中にも、手帳の提示だけで割引されることを知らない人がいる。県内には約70のタクシー会社があり、全社が改めるよう運動を進めたい」と話した。

毎日新聞 2014年02月04日〔三重版〕

[障害者スポーツ]伊藤数子「“さらし者”という言葉から見える社会」

2014年02月05日 01時52分09秒 | 障害者の自立
 2014年がスタートしました。今年は2月にはソチオリンピック、3月にはソチパラリンピック、そして6、7月にはサッカーW杯と、世界を代表するスポーツの祭典が続くこともあって、例年以上にスポーツで盛り上がる1年となりそうですね。私が障害者スポーツに深くかかわるようになって約10年。私にとっても、節目の年となりそうです。そこで、今回は改めてこの10年を振り返ってみます。

 現在、私はNPO法人STANDでユニバーサルな社会を目指した事業を行なっています。そのひとつが、障害者スポーツです。03年からスタートしたインターネットライブ中継「モバチュウ」や、10年に開設した障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を運営するとともに、12年からはスポーツと文化のコラボレーションイベント「スポーツオブハート」の開催も行なっています。

 このように、現在は障害者スポーツに携わっている私ですが、10年前までは今の自分を想像すらしていませんでした。当時から知人の中には、障害がありながらも、スポーツを楽しんでいる人たちがいました。しかし、その時は障害者スポーツにかかわっているという認識はひとつもありませんでした。ただ、知人の中に障害がある人もいて、スポーツをしている。単に私はそれを応援しているだけのことだったのです。

 そんな私が障害者スポーツに深くかかわるようになったきっかけが、03年に初めて行なった動画配信でした。以前、このコーナーでも述べていますが、当時応援していた電動車椅子サッカーチームのメンバーの中に、障害のためにドクターから遠距離移動の許可がおりず、全国大会に出場できない選手がいました。そこで「チームメイトの活躍を見てもらいたい」という気持ちから、インターネットを使って大会会場から生中継を行なったのです。

 結果的に、それは大成功でした。会場に行くことができなかった選手は大変喜んで、自宅の部屋でユニホームを着用しながら見てくれました。さらに、他のチームにも見てもらおうと、会場ではネット配信していることを書いたカードを配っていました。すると「それ、何ですか?」と興味津々に聞いてくれた人たちも少なくありませんでした。アドレスさえあれば、全国どこでも見られることを知ると、私の知人同様、会場に足を運べなかった選手たちに連絡をしている姿も見受けられたのです。

人生を変えた突然のパンチ

 しかし、実はその時、こんな言葉を投げられたのです。
「おまえら、障害者をさらし者にする気か!」
 そう言い残し、あるひとりの男性が走り去っていきました。それは思いもよらない言葉でした。まるで突然、パンチを見舞われたかのように、あまりの驚きで私は何も言い返すことができず、その場に立ちつくすしかありませんでした。その時の衝撃は、今でもはっきりと覚えています。

 思い返せば、その言葉が私のその後を大きく変えたひとつの要因だったような気がしています。もちろん、私は障害者をさらし者にしているなどと、これっぽっちも考えてはいませんでした。ただ、全国大会に行くために頑張ってきた知人に、試合を見てもらいたいという思いだけだったのです。それが、まさかあんなふうに言われるとは……ショックでたまりませんでした。そのため、その言葉が脳裏に焼き付いて、離れなくなってしまったのです。

 その後、私は動画配信の依頼を受けるようになり、約1年後の04年には「モバチュウ」を立ち上げ、さらに05年にはNPO法人STANDを設立しました。なぜ、それまでまったく考えてもいなかった障害者スポーツに、わずか1、2年のうちにどんどん自ら深く入り込んでいったのか。そして、なぜここまで続けてきたのか――。それは、あの時言われた言葉の答えを、無意識に探し求めてきたこともあるのかもしれません。実際、この10年間、何かにつけて私はあの言葉を思い出さずにはいられませんでした。私の胸にグサリと突き刺さったトゲは、そのままの状態だったのです。

 そして最近、その答えがようやく、おぼろげながらにも分かり始めてきたように感じています。ひとつは、なぜ「さらし者」という言葉が出てくるのかということです。これは障害者を特別視しているからにほかなりません。なぜなら、映像の対象者がもし健常者だった場合、「さらし者」という言葉が出てくることはまずありません。つまり、障害者を特別視する社会の意識がある以上、こういう言葉はなくならないのです。私に「さらし者にする気か」と怒鳴った男性は、おそらく障害者のことを思って言ったのだと思います。しかし、よく考えてみれば、こうした特別視が、障害者への偏見なのです。

 私は「さらし者にする気か」と言われたことで、日本が障害者に対して「さらし者」という言葉を発してしまう社会であることに衝撃を覚えたのでしょう。そして、障害者を特別視しない社会を目指し始めた。これが、私が障害者スポーツに深くかかわるようになった理由のひとつなのだということが、最近になってわかってきたのです。

時代の変化を映すパラリンピック中継

 この10年間で、私は素晴らしい方たちと出会い、たくさんの貴重な経験をしてきました。そんな中で、私にエネルギーを与えてくれたひとりが、日本の“障害者スポーツの父”と言われている故・中村裕先生です。中村先生の存在を初めて知ったのは、大分国際車いすマラソンを観に行こうと、大会について調べた時のことでした。

 大分国際車いすマラソンは、1981年、国際障害者年の記念行事として中村先生が提案し、第1回が開催されました。その15年前、東京オリンピックが開催された64年には、パラリンピックが行なわれましたが、この時の日本選手団の団長として尽力したのが中村先生だったのです。この時代、障害者スポーツへの理解は皆無に等しく、中村先生は「障害者をさらし者にして、それでも医者か!」と批判を受けたそうです。

 そのことを知った時、「そうか、あの“障害者スポーツの父”である中村先生も、同じことを言われていたんだ……」と、なんだか勇気をいただけたような感じがしたのです。しかし、その反面、「50年経った今もまだ、同じことを言われているのか……」と愕然としたこともまた事実です。

 ただ、この50年で明らかに日本の社会は障害者スポーツへの理解を深め、前進しています。そのひとつの例として挙げられるのは、約1カ月後に迫ったソチパラリンピックでのテレビ放映です。これまでオリンピックはあっても、パラリンピックのテレビ中継はありませんでした。しかし、徐々に中継の範囲は広がってきています。4年前のバンクーバー大会では初めて決勝に進出したアイススレッジホッケーの試合が急遽、NHKで生中継されました。そして2年前のロンドン大会ではスカパーがダイジェスト版ではありましたが、毎日熱戦の模様を放映しました。

 そして、今回のソチ大会ではついにスカパーで全競技が中継されることが決定したのです。そのニュースが飛び交った際、「障害者をさらし者にする気か!」という世論は巻き起こることはありませんでした。「すごいなぁ」という声の方が圧倒的に多かったと感じています。時代は確実に変化しており、日本社会は一歩一歩、着実に前進しているのです。2020年東京大会はこの歩みを止めない最大の好機です。この絶好のチャンスを逃せば、またこの先50年、機会が訪れないかもしれないと思うと、覚悟を決めて向かう力が湧いてくるのです。

<伊藤数子(いとう・かずこ)>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。1991年に車いす陸上を観戦したことが きっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するため の「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。著書には『ようこそ! 障害者スポーツへ~パラリンピックを目指すアスリートたち~』(廣済堂出版)がある。


2014年02月04日(火) スポーツコミュニケーションズ

船橋市身体障害者福祉作業所「太陽」創立20周年-市役所ロビーでイベント

2014年02月05日 01時43分33秒 | 障害者の自立
 船橋市役所(船橋市湊町2)1階ロビーで2月3日、船橋市身体障害者福祉作業所「太陽」(二和西5、TEL 047-449-6993)利用者による作品や活動の資料を掲示する創立20周年記念イベントが始まった。


施設利用者によるカレンダーに1枚1枚習字を書き入れた作品

「太陽」の前身、身体障害者福祉センターの「機能回復訓練室」は、1985(昭和60)年4月に浜町公民館の一室からスタート。旧二和公民館跡に一時移ったが、1993年10月に新施設が完成。施設名も「船橋市身体障害者福祉作業所太陽」となった。

 全国的にみても数少ない市直営の身体障がい者の「福祉作業所」として運営してきたが、2010年6月から障がい者の日常生活および社会生活を総合的に支援するための法律による「生活介護事業所」として、地域に開かれた施設を目指し活動を展開。その一環として今回、障がい者への理解や共生感を深めるため、地域住民に向けて20周年を記念した展示イベントを企画した。

 施設の利用者は現在46人。肢体不自由者を受け入れる同施設の利用者は、精神発達遅滞を併せ持つ重度障がい者が多い。施設スタッフによる手厚い介助のもと活動を行い、個人の障がいに合わせて、意思を尊重し身体能力の維持をメーンに取り組んでいる。

 イベントでは、利用者による作品や活動の様子のパネル展示などを予定。制作の工程を何段階かに分け、利用者はそれぞれができる作業を受け持つ形で、スタッフの介助を受けながら進めてきた。ランチョンマットやコースター、木工作品にステンシルで作画を行ったり、紙すきによる箸袋の制作、習字などさまざまな作品が完成した。

 15年前、夏祭りのお化け屋敷で使う「南無妙法蓮華経」の文字を書いてみないかと施設のスタッフに誘われたことがきっかけで書を始めたという利用者の川嶋徳人さん(40)は、カレンダーに1枚1枚習字を書き入れる作品を展示。左足で筆を持ち、巧みに筆さばきをする姿は真剣で、川嶋さんは「習字を書き始めてもう15年になるが、とても楽しい時間だ」と話す。カレンダーに字を書き始めてちょうど12年になり、「馬に始まり馬に至っている」と振り返った。

 展示時間は8時45分~17時15分。入場無料。2月7日まで。

秋田経済新聞 - 2014年02月04日