「障害者=いいひと」この図式をもうやめませんか――。
現代のベートーヴェン詐欺・佐村河内守氏事件について、聴覚障害を持つ方から私にメールがきた。聴覚障害を持つ方がこの件についてどんな意見を持っているのか、参考になると思いましたので、メールいただいた方の了解を得て、メール文面を紹介します。
・・・メール文面・・・
かさこさんにメールをしたくなったのは、現在騒ぎになっている「全聾の作曲家」の問題です。実は私、この作曲家と同じ聴覚障害も持っており、障害者手帳も2級、つまり「補聴器を装用しても聴こえない聾者」という枠にいる者です。実際に補聴器をつけても、健聴者のおそらく30%ぐらいしか聞こえていないと思います。
ただ、それでもなんとか会話は成立しています。読唇という方法で、相手の口の動きと顔全体を見て、だいたいの言っていることを掴み、補聴器から入るわずかな音声を聞き取り、日常生活にはほとんど不便を感じていません。
また、発音は明瞭で、おそらくほとんどの人は私の話している言葉、発音を聞いても、耳の聞こえない人とは気づかないと思います。実際に、どこへ行っても「本当に聞こえないの?」「全く普通の人に見えるけど」(この「普通」というのが引っかかりますが、これはもう置いておきます)と、いつも言われ、聞こえているんじゃないの?本当に電話出来ないの?と何年言われ続けていることか。どんなに親しくしている人でも、会話の途中で私が聞こえないことを忘れてしまうことも度々、という状態です。
聴覚障害というのは、目で確認出来る障害ではないことと、聴覚障害はとても複雑であり、人によってまちまちに聴こえたり聴こえなかったり。けれども、私がかさこさんにお伝えしたいのは、その聴覚障害に対する云々ではありません。それよりも、世間が考える「障害者」に対してです。
「障害者=いいひと」この図式をもうやめませんか、と思うのです。障害を持っているのにこんなに頑張っている、勇気をくれる、気づかされた、私はもううんざりしているのです。もう30年も昔、「愛は地球を救う」の番組で、聴覚障害者が主人公のドラマが放映されると聞いたとき、同じ障害を持つ友人と一緒に、あのお涙ちょうだいのドラマ、うんざりだよね、と話していました。
その後、いくつかのドラマで聴覚障害の主人公が回りの健聴者の心を救う、みたいなものが流行り、手話が流行り、そのおかげで聴覚障害への偏見はいくぶん薄れ、手話も少しは市民権を得たようなところがありましたが、結局はいつでも障害者は心のきれいな人で、努力家で、私たち健常な人間は見習わなければならないのですよ、な美化された風潮ばかりとなり、結局はこの作曲家も障害を持ちながらも、こんなに美しい曲を作る「スゴい人」に出来上がってしまったわけですよね。もし、彼が聴覚障害者ではなかったら、その曲はこれほどまでに評価されていたのか、そのあたりは私にわかりませんが。
障害者を美化した世間にも問題があるのではないですか。そういう期待をするから、こんな問題が起きてしまった、ただそれだけのことだと私は思うのです。もちろん、努力を重ね人々の鑑になるような障害者のかたもたくさんいます。ただ必要以上に障害者に期待するべきではない、それこそ差別だ、と私は思っています。健常者と障害者の差別を無くそう、というのも無理な話です。そんなことを大大的に言うから差別が生まれるわけで。
追記
まぁもし、佐村河内氏が完全に聞こえる健聴者で、わざと聴こえないフリをしてそれを売りにしていたのであれば、それはそれでまた、聴覚障害者を愚弄しているのということになりますよね。私は決して佐村河内氏を庇護しているつもりはありませんので。
・・・(引用終わり)・・・
障害者との接し方についての参考意見になれば幸いです。
BLOGOS : 2014年02月13日 22:22
現代のベートーヴェン詐欺・佐村河内守氏事件について、聴覚障害を持つ方から私にメールがきた。聴覚障害を持つ方がこの件についてどんな意見を持っているのか、参考になると思いましたので、メールいただいた方の了解を得て、メール文面を紹介します。
・・・メール文面・・・
かさこさんにメールをしたくなったのは、現在騒ぎになっている「全聾の作曲家」の問題です。実は私、この作曲家と同じ聴覚障害も持っており、障害者手帳も2級、つまり「補聴器を装用しても聴こえない聾者」という枠にいる者です。実際に補聴器をつけても、健聴者のおそらく30%ぐらいしか聞こえていないと思います。
ただ、それでもなんとか会話は成立しています。読唇という方法で、相手の口の動きと顔全体を見て、だいたいの言っていることを掴み、補聴器から入るわずかな音声を聞き取り、日常生活にはほとんど不便を感じていません。
また、発音は明瞭で、おそらくほとんどの人は私の話している言葉、発音を聞いても、耳の聞こえない人とは気づかないと思います。実際に、どこへ行っても「本当に聞こえないの?」「全く普通の人に見えるけど」(この「普通」というのが引っかかりますが、これはもう置いておきます)と、いつも言われ、聞こえているんじゃないの?本当に電話出来ないの?と何年言われ続けていることか。どんなに親しくしている人でも、会話の途中で私が聞こえないことを忘れてしまうことも度々、という状態です。
聴覚障害というのは、目で確認出来る障害ではないことと、聴覚障害はとても複雑であり、人によってまちまちに聴こえたり聴こえなかったり。けれども、私がかさこさんにお伝えしたいのは、その聴覚障害に対する云々ではありません。それよりも、世間が考える「障害者」に対してです。
「障害者=いいひと」この図式をもうやめませんか、と思うのです。障害を持っているのにこんなに頑張っている、勇気をくれる、気づかされた、私はもううんざりしているのです。もう30年も昔、「愛は地球を救う」の番組で、聴覚障害者が主人公のドラマが放映されると聞いたとき、同じ障害を持つ友人と一緒に、あのお涙ちょうだいのドラマ、うんざりだよね、と話していました。
その後、いくつかのドラマで聴覚障害の主人公が回りの健聴者の心を救う、みたいなものが流行り、手話が流行り、そのおかげで聴覚障害への偏見はいくぶん薄れ、手話も少しは市民権を得たようなところがありましたが、結局はいつでも障害者は心のきれいな人で、努力家で、私たち健常な人間は見習わなければならないのですよ、な美化された風潮ばかりとなり、結局はこの作曲家も障害を持ちながらも、こんなに美しい曲を作る「スゴい人」に出来上がってしまったわけですよね。もし、彼が聴覚障害者ではなかったら、その曲はこれほどまでに評価されていたのか、そのあたりは私にわかりませんが。
障害者を美化した世間にも問題があるのではないですか。そういう期待をするから、こんな問題が起きてしまった、ただそれだけのことだと私は思うのです。もちろん、努力を重ね人々の鑑になるような障害者のかたもたくさんいます。ただ必要以上に障害者に期待するべきではない、それこそ差別だ、と私は思っています。健常者と障害者の差別を無くそう、というのも無理な話です。そんなことを大大的に言うから差別が生まれるわけで。
追記
まぁもし、佐村河内氏が完全に聞こえる健聴者で、わざと聴こえないフリをしてそれを売りにしていたのであれば、それはそれでまた、聴覚障害者を愚弄しているのということになりますよね。私は決して佐村河内氏を庇護しているつもりはありませんので。
・・・(引用終わり)・・・
障害者との接し方についての参考意見になれば幸いです。
BLOGOS : 2014年02月13日 22:22