ゴエモンのつぶやき

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少年院に対する「先入観」 障害者アスリートのメッセージ

2014年09月06日 16時19分45秒 | 障害者の自立
車椅子ラグビー 三阪洋行氏の講話

2014年7月23日 昨年に引き続き、茨城県の初等・中等少年院『水府学院』の障害者アスリート講座で三阪洋行氏の講話が行われた。

 「昨年初めて講話のお話をいただいた時、『自分にできるのか』と不安になりました。今までいろいろな講演をしてきましたが、少年院はまったく違った環境だからです。とても言葉にしづらい先入観がありました。荒れていて規律がないのではないかとか、人の話を聴く姿勢ができていないのではないかと不安が大きくなってしまったのです」

 「また、何を話せばいいのか、そもそも自分が少年院で話す意味があるかどうかなど、いろいろ考えました。ですが、どんな子たちかわからないけれど、やってみなければ答えはわかりませんよね。だから、敢えて狙いを持たずに、怪我から現在に至るまでの自分の経験を伝えて、何かを感じてくれたら、それだけでよいのではないかと思ってお受けしました。実際に彼らに会ってみると自分が勝手に膨らませた先入観で不安になっていただけだと気付いたのです」

 三阪はラグビーの練習中の事故で頚椎を損傷した。詳しい経緯は別記事を参照されたいが、彼の感じた深い絶望、そして何度も挫折しながらも前を向いて歩んでいく姿勢は、少年たちに何を訴えたのだろうか。

社会の暗部とも言える彼らの「背景」

 参加者は15歳~18歳未満の少年たち約70人。このシリーズでは何度となく書いているが、華奢な体に制服を着て、視聴覚室に集まるあどけなさを見る限り、ここが少年院であること以外は、同世代の高校生たちとなんら変わりない。むしろ見た目には幼さを感じてしまうほどだ。

 少年院に収容される彼らの背景は様々だが、家族からのネグレクトや虐待を受けたり、ひどい場合には家族に捨てられたというケースもある。このように幼い頃に被害者として過ごした経験を持つ割合が高いと聞いているが、学校の友人に何年間にも渡って陰湿ないじめを受け続けたり、教師との信頼関係が築けず学校で居場所を失うケースもある。またスポーツにおける挫折が原因となって自分を見失うこともある。

 付け加えておくと、入院する少年たちの学力は小学校高学年のレベルで止まっていることが多い。

 社会の暗部とも言える背景がそれぞれにある。しかし、どんな家庭環境や背景、理由があるにせよ、犯罪には彼らによる被害者がいることを忘れてはならない。確かなことは、法を犯したからこそ、一般社会とは隔てられた矯正施設に収容されているということだ。

 だからといって、彼らに未来がないわけではない。少年院では矯正教育として、生活指導,職業補導,教科教育,保健・体育及び特別活動の5つの領域にわたって指導が行われ、社会に帰っていく。

「何を頑張れっていうんだ」

 三阪の講話に話を戻そう。

 「僕の夢は花園(全国大会)でプレーすることで、高校時代はラグビー漬けの毎日でした」

 三阪は布施工業高校(現布施工科高校)ラグビー部員として、全国一の激戦区・大阪でライバル校としのぎを削り合っていた。

 高校ラグビーの聖地と呼ばれる『花園ラグビー場』。その声援が聞こえてくるほど近くで生まれ育った三阪にとって、それは必然だったのかもしれない。

 だが、高校3年生の6月。アタック&ディフェンスの実戦的な練習の最中、こぼれ出たボールを取ろうと飛び込んだ直後に三阪の夢は断たれた。 

 今でこそ車椅子に乗り、両手を使ってパスもキャッチも出来るが、事故の直後は首から下は全て麻痺して動かすことが出来なかった。そして寝たきりの入院生活が始まった。

 「お見舞いに来る人、来る人、みんな同じことを言って帰るんです。『頑張れよ』です。『頑張って学校戻ってこいよ』とか『頑張って早く元気になれよ』とか簡単に言うけれど、今の俺に何を頑張れっていうんだ。身体を動かせないから、寝返りを打つことも出来ないし、ひとりじゃご飯も食べられない。水も飲めない。何もできずに一日中ベッドの上で、ただ天井だけを見つめて寝ているだけの俺に、何を頑張れっていうんだよ!と思いながらその言葉を聞いていました。悪気がないことぐらいわかっているのに、受け入れられませんでした」

 「今では頑張れという言葉を受け入れることが出来ますが、怪我の直後は一番聞きたくない言葉でした」

 急性期治療が終わり、「元の生活に戻れるんじゃないか」と希望を持ってリハビリ病院に転院すると、

 「二度と歩くことも立ち上がることもできないでしょう。残された機能を使って、車椅子で生活するためのリハビリを始めます」という医師からの告知。

 「18歳ですから、みんなと同じくらいの年齢で、君は一生車椅子生活になると言われたのです。ラグビーで花園に出ることが夢だった僕にとって、それはあまりにもショックな言葉でした。厳しい現実を突きつけられて泣くことしかできません。ですが、どんなに泣いても叫んでも何も変わりません。翌日から辛いリハビリが始まりました。服を着るのに1時間、ご飯食べるのに2時間も掛かるんです。何をやっても時間ばかり……」

 三阪は夢を失うどころか、未来の全てをも失ったような気持ちになり2度自殺を試みた。しかし、どうしても死ねなかった。それは車椅子で生きる道を選んだということである。

「毎日リハビリしているうちに少しずつですが出来ることが多くなってきました。そんな頃に作業療法士からウィルチェアーラグビーを紹介され、ビデオを見せてもらいました。最初これはラグビーじゃない!とも思いましたが、車椅子同士が激しくぶつかり合う音を聞いた瞬間に“やりたい!”と思ったのです」

 車椅子によるコンタクトスポーツ。この激しい衝撃音が三阪の停滞していた思考を再び前へ向かわせた。

 しかし、退院後に感じた社会は障害者には厳しかった。ちょっとした段差でさえも一人では越えることが出来ず、また、周囲からの視線に過剰に反応するようになり、怖くて表に出られなくなった時期もあった。 

 ウィルチェアーラグビーの時だけは唯一生きていると実感することもできたが、それ以外では心を閉ざし、家に引きこもるようにして1年近くが過ぎた。

「僕が掴んだもの」 そんな時だ。

 「このままでいいはずがない。俺は変わりたい」「このままでは周りに甘えてしまう。自分を変えるには、誰も助けてくれない環境に行くしかない」という思いが募った時に、両親の反対を押し切ってニュージーランド留学を決めた。

 この決断が三阪の人生を劇的に好転させた転換点である。

 最初は英語が怖くて周囲とコミュニケーションが取れなかったものの、「このままじゃ帰れない」と固まっていた自身の殻を破り、身振り手振りで積極的に意思を伝え、行動した結果、学校でもチームでも認めてくれる仲間が増えていった。練習中にわからないことがあれば、何度でも質問して理解できるように努めた。

 「この身体でも頑張ればいろいろなことができることを知りました。確かに現実に出来ることと出来ないことはあります。でも頑張れば少しずつでも確実にできることが増えていくのです。それを知ったら自信が出てきて、事故後にやっと自分が好きになれたし、自分に期待が持てるようになりました」

 その後、2003年にウィルチェアーラグビーの日本代表に選ばれ、ワールドカップにはキャプテンとして出場し、パラリンピックにもアテネ、北京、ロンドンの3大会連続出場を果たした。夢の形は変わったが活躍の場を広げ、アスリートとして世界に挑むまでになった。

少年たちへのメッセージ

 「僕が掴んだものは、自ら動き出さなければ何も変わらないという実感でした。待っていたり、諦めてしまっては何も変わりません。また、自分を信じてあげられるのは自分しかいないということです。自分を変えられるのも自分だということです。それはみなさんも同じです」

 「チームに必要なことは自己犠牲の精神と自分を理解して適材適所で活かすことです。これはスポーツに限らず社会でも同じことが求められます。自己犠牲の気持ちで自分を活かしていけば、かならず認められるはずです」

 三阪は最後に願いをこめて、

 「怪我をしたあと日本代表になって成功体験と言えるようなことがあっても、怪我をして良かったなどと思ったことは一度もありません。生きているのがしんどいと思ったことは一度や二度ではありません。それでも死なせてくれなかったし、死に切れませんでした。そして僕は自ら生きる道を選んだ」

 「障害を負った僕にも出来るんだから、みんなはもっといろいろなことが出来るはずです。親からもらった健康な身体があるのだから、諦めずに自分の可能性にチャレンジしてほしい。
人の可能性は無限大だ. と講話を締めた。

 質疑応答ではウィルチェアーラグビー用の車椅子のことやパラリンピックの質問の他に、「辛い時の頑張り方」や「人とのコミュニケーションの取り方」など活発な質問が溢れた。三阪はそれらの質問の一つひとつに「辛い時は一番辛かった時のことを思い出して、あれを乗り越えたのだから今度もきっと乗り越えられると思って頑張っている」、また「人とのコミュニケーションでは相手を知ろうと努力することが大切であり、そのためには相手の目を見て話すこと、そして相手が何を考え何を伝えようとしているのかを理解し、自分の思いを伝えること」と言葉を選びながら丁寧に答えていった。また、矯正施設という特殊性ゆえか、練習中の事故ではあるが「加害者のことをどう思っていますか」というものもあった。こうした質問はまず他の講演会場では出ない質問である。

少年院と社会を繋ぐ「接点」

 本稿冒頭の三阪の言葉にもあるが、きっと誰もが少年院に対して歪んだ先入観を持っている。筆者も2009年ラグビー元日本代表の故石塚武生氏のスタッフとして水府学院に入る以前は、三阪と同様の先入観を抱いていた。しかし、石塚氏の話を聴きながら涙を流していた少年を見たときに見方が少し変わった。その半年後、石塚氏がお亡くなりになられた後に、石塚氏がどんな思いで少年たち全員から体当たりを受けていたのか話をしたときに多くの少年たちが涙を流した。

 その石塚氏の思いとは「絶対に腐って自分を粗末にしてはならない。人に喜ばれることを自分の喜びとしよう。奉仕の精神、自己犠牲の精神を持っている限り、人に愛され社会に信頼され、天が味方についてくれる。人生は逃げることなく、まっすぐに思い切りぶつかって行くことによって拓かれる」というものだ。

 全員から体当たりを受けた身体は上半身が痣だらけになり、帰り道の車の中では胸を押さえて苦しむほどだった。

 平成25年度の犯罪白書で、近年の少年院の入院者の人員における人口比を見てみると平成14~15年をピークに減少している。ただし、14歳未満の少年を含む低年齢の犯罪は横ばい傾向にあるようだ。

 複雑化、多様化する社会の中で家庭や生活習慣、また学校など子どもたちを取り巻く社会が変わってきている。それだけに問題点も多様であり、一朝一夕に何かを改善できるとは思えないが、少年院に指導や取材で行くたびに人や社会の基盤は家庭にあることを再認識させられる。

 以前のレポートにも記したが、少年それぞれに個別の教育計画が立てられ「1年あれば見違えるように成長する」ことを教官たちは実感していると書いた。しかし、少年たちの成長をそのまま社会で活かせるかは別の問題であるように思える。個々の成長を活かせるような少年院と社会を繋ぐ接点のようなものが必要ではないかと思う。少年たちを社会に復帰させるまでの課題は多いはずだ。再犯をさせないための工夫は足りていない。

三阪洋行 プロフィール

1981年大阪府東大阪市に生まれる。
ウイルチェアラグビー日本代表副将。HEAT(大阪)所属。布施工業高校ラグビー部3年生の時に、練習中の事故で頸椎を損傷し車いす生活になる。8カ月間の入院生活のあとに車いすラグビーと出会う。2002年に「自分を変えたい」とニュージーランドに4カ月ラグビー留学。2010年、サウスオーストラリア・シャークスに所属しオーストラリアリーグに参戦。日本代表として2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンのパラリンピック3大会連続出場を果たす。
2011年バークレイズ証券入社。2014年アジアパラリンピックでは日本代表のアシスタントコーチとして臨む。

2014年09月05日(Fri)  大元よしき (ライター)

恵庭市中心街に障害者施設 市内法人が来春開設 障害児専用フロアも

2014年09月06日 16時15分45秒 | 障害者の自立
 【恵庭】市内で障害者の生活介護や就労支援の施設を運営している社会福祉法人「恵庭光風会」(大川健一理事長)が来年4月、新町30の3に複合福祉施設「えにわ地域活動センター(仮称)」を開設する。18歳未満の障害児専用のフロアを市内で初めて設け、複数のサービスを一体で展開する。

 施設は鉄筋コンクリート造り3階建て延べ床面積1165平方メートル。1階には、現在市内末広町にある障害者の生活相談窓口「市障がい者総合相談支援センター e―ふらっと」が移転。2階に成人通所者がタオルたたみなどをする作業室(定員10人)や食堂が入る。

 障害児専用の3階には、小さなトランポリンや絵本などを備え、放課後に利用できるデイサービススペース(同20人)のほか、寝たままで入浴できる重度障害児専用の特殊な浴槽を市内で初めて設置した。このほか、一時的に入所できる個室4室も設ける。

 約660平方メートルの土地は大川理事長の私有地を同法人が無償で譲り受けた。総工費は約3億6千万円。

 恵庭光風会によると、市内で障害児が放課後にサービスを受けられる施設は4カ所あるが、重度障害児用の特殊浴槽はなく、利用するには近隣では北広島や札幌などに出向く必要があった。

 同法人は「複数のサービスを一体化した施設を市中心街に建てることで、利用者の利便性が向上する」としている。

 利用料金は未定。特殊浴槽の利用は市民に限る予定で、他のサービスは市民でなくても同法人と契約すれば利用できる。問い合わせは恵庭光風会(電)34・0848へ。(

(09/04 16:00) 北海道新聞

つながり困窮者救え

2014年09月06日 16時12分07秒 | 障害者の自立
 ◇206事業者でセンター設立 今年度は子の学習支援や職員研修重点

 県内の社会福祉法人などが連携し、行政の制度や補助が不足している生活困窮者らを支援する取り組みが始まった。1日には19市町の206事業者が「滋賀の縁えにし創造実践センター」を設立。障害者の入浴支援や貧困家庭の子どもの学習支援など、様々な福祉分野の活動を展開し、行政に事業化を提案していきたい考えだ。(小野圭二郎)

 センターは、「障害者福祉の父」と呼ばれ、県内に障害者の入所施設を開いた糸賀一雄氏(1914~68)の生誕100年に合わせて開設。県内の7割に当たる社会福祉法人や団体が参加しており、県社会福祉協議会を事務局に、要養護児童の自立や引きこもりに悩む人らの支援など、分野別に七つの小委員会を設ける。

 県介護福祉士会や県保育協議会、県身体障害者福祉協会なども名を連ね、様々な職種が横のつながりを強めることで、個別の施設や団体ではできなかった支援のあり方を模索する。

 支援対象は、障害者や、保護者が育てられない子ども、介護が必要な高齢者ら、これまで福祉施設などが対象としてきた困窮者のほか、引きこもりの中高年や貧困家庭の子どもらも含める。

 活動では、福祉現場で見つかった制度上の課題を持ち寄り、民間のノウハウや設備を生かして解決に向けたモデル事業を展開。事業費は、構成員の寄付などで基金を作って賄い、効果を検証しながら県や市町に事業を提案する。

 福祉ボランティア体験の機会を増やすなど、市民レベルでも困窮者への理解を深めてもらう取り組みを進める。

 1日に大津市で開かれた設立総会には約160人が参加し、センターの代表理事を務める県老人福祉施設協議会の前阪良憲会長が「制度で線引きすることなく、支えることこそ民間の福祉の役目」とあいさつ。今年度は貧困家庭の子どもの学習支援や居場所づくり、福祉関係職員の研修会などに取り組むことを確認した。

 ◇障害者の入浴回数など現行制度不十分

 県内の福祉団体関係者らがセンターを設立した背景には、障害者や高齢者らに対する現行制度が十分に応えられていないという問題がある。

 このうち県内に869人いる重症心身障害児者を巡っては、「訪問看護による入浴が週数回まで」といった制限があり、それ以上は費用面の自己負担が大きい。利用回数が限られていることで、介護する家族らの負担軽減につながっていない実情もある。体の状態から自宅の風呂の改修が必要な障害者もおり、センターでは高齢者向け施設での受け入れを検討する。

 一方、県内で165人が利用している児童養護施設は入所が原則18歳までで、退所後の支援制度は設けられていない。社会生活の知識や経験を身につける機会が限られ、仕事が続かず自立に挫折するケースもみられる。

 全国で子どもの貧困率が16・3%に悪化する中、学習環境の整備も求められており、センター所長の谷口郁美・県社協地域福祉部長は「ボランティアの手も借りながら、既存の施設利用の枠を超えて人材や設備を組み合わせることが、必ず解決への力になるはず」と強調している。

2014年09月05日 読売新聞

社説:刺された盲導犬 人の心も傷ついた

2014年09月06日 16時06分34秒 | 障害者の自立
 さいたま市の全盲の男性が連れていた盲導犬オスカーが7月下旬、何者かに腰付近を刺されけがをした。盲導犬は、視覚障害者の目の代わりになって生活を支える。男性は「ショックで外に出るのが怖い」と話したという。卑劣と言うほかない。

 視覚障害者に対する悪意や敵意を感じさせる事件だ。模倣犯が出てくるのではと不安も募る。オスカーにとどまらず、全盲の男性の心にも大きな傷を負わせた罪は重い。警察は徹底的に捜査してもらいたい。

 男性が仕事に向かう電車内でオスカーは被害に遭ったようだ。先のとがったもので刺されたとみられる。

 盲導犬と障害者の関係は濃密だ。1年近い訓練を経た盲導犬は、最後に障害者と約1カ月間の合宿生活を経てパートナーになる。盲導犬が献身する一方で、障害者側は衛生面を含めた日常の世話を尽くす義務を法的に負う。深い信頼関係で結ばれ、生活を共におくる。

 人間との生活を楽しみ、穏やかに反応する犬が盲導犬に選ばれる。主人に危険が及んだ時以外はむやみにほえない。オスカーも刺された時にほえなかった。

 そのため、事件の報道後、「盲導犬は痛みをがまんする訓練を受けている」との誤解が広まった。「盲導犬は抑圧されてかわいそう」といった、矛先を障害者に向けるかのような言葉を投げかけられた人もいる。看過できないことだ。こうした無理解が障害者を深く傷つける。

 また傷害に至らなくても、盲導犬をたたこうとしたり、しっぽを踏んだりの嫌がらせは多くあるという。

 盲導犬のほか、肢体の不自由な人を助ける介助犬、さらに聴導犬について定めた身体障害者補助犬法が2002年に成立した。

 公共施設や交通機関、民間でも不特定多数の人が利用する施設は、原則として補助犬を伴った入店を拒んではならないと規定する。だが、入店拒否がいまだ後を絶たない。

 飲食店や医療機関などが衛生面などを理由に拒むことも多い。だが、補助犬は決まった場所でしか排せつしないようしつけられ、障害者の責任で清潔に保たれる。

 そうした前提で、法が同伴の受け入れを義務付けていることを理解したい。補助犬を拒むことは、その隣にいる障害者を拒むことと同じなのだ。

 残忍な事件の動機は不明だが、障害者や補助犬への社会の理解がまだまだ足りない。事件をきっかけに、そんなことを考えさせられる。

 ただし、盲導犬の育成団体などには事件後、「市民の一員として盲導犬の安全を見守りたい」との声が多く寄せられたという。そうした声が社会の力となることを信じたい。

毎日新聞 2014年09月05日 02時40分

映画イベントで就労体験 川崎市とNPOが連携

2014年09月06日 15時55分40秒 | 障害者の自立
 障害者の雇用・就労促進事業に取り組む川崎市と事業提携したNPO法人ピープルデザイン研究所(東京都渋谷区/須藤信之(しんじ)代表)は8月23日、第1弾イベントを開いた。障害者らがスタッフとなって映画上映の運営など就労体験を実施、障害への理解を深めるトークショーも行った。

 両者の連携による障害者雇用・就労促進事業は、「心のバリアフリー都市川崎」を目指し、様々な取り組みを実施していく。その最初の取り組みとして映画上映やトークショーなどを行う「夏休みピープルデザインシネマ」をラゾーナ川崎プラザソルで開いた。就労体験として障害者9人を含むスタッフ27人で会場設営や受付を実施、170人の来場者を出迎えた。

 上映作品は全国公開されている「グレートデイズ!―夢に挑んだ父と子―」という新作映画で、親子として向き合えずにいた父親と、車いすの息子がトライアスロンに出場し挑戦する感動作品。聴覚障害者向けにパイオニア株式会社が開発した体感音響システムで映画を楽しむスタイルを実践するなど、民間企業による協力も得てイベントは行われた。

 就労を体験した人は「映画の舞台づくりに自分が携われたのが良かった」「自信になった。またやりたい」などと感想を話した。

 トークショーでは、須藤代表がロンドンパラリンピックに出場した山田拓朗選手らとハンディを可能性に変えることをテーマに対談を行った。須藤代表は「いつもは招待される側の障害者が170人の方々をもてなす素晴らしい仕事ができた。映画を通じて障害のある人とない人の交流が楽しめたひと時だった」とイベントを振り返った。

 ピープルデザインは、ファッション性を重視し、同時に障害者向けの機能性を兼ね備えているデザインのこと。この考え方を生かし、靴やシャツ、バッグなどの製品が販売されている。

 川崎市と7月に協定を結んだNPO法人ピープルデザイン研究所は、今後、イベントを通した就労体験のほか、研修や講演などを行い、市民や市職員などに向けた、心のバリアフリー意識の普及啓発を行う。7日にはアメフトの試合会場での就労体験を行う予定になっている。

2014年9月5日 タウンニュース