車椅子ラグビー 三阪洋行氏の講話
2014年7月23日 昨年に引き続き、茨城県の初等・中等少年院『水府学院』の障害者アスリート講座で三阪洋行氏の講話が行われた。
「昨年初めて講話のお話をいただいた時、『自分にできるのか』と不安になりました。今までいろいろな講演をしてきましたが、少年院はまったく違った環境だからです。とても言葉にしづらい先入観がありました。荒れていて規律がないのではないかとか、人の話を聴く姿勢ができていないのではないかと不安が大きくなってしまったのです」
「また、何を話せばいいのか、そもそも自分が少年院で話す意味があるかどうかなど、いろいろ考えました。ですが、どんな子たちかわからないけれど、やってみなければ答えはわかりませんよね。だから、敢えて狙いを持たずに、怪我から現在に至るまでの自分の経験を伝えて、何かを感じてくれたら、それだけでよいのではないかと思ってお受けしました。実際に彼らに会ってみると自分が勝手に膨らませた先入観で不安になっていただけだと気付いたのです」
三阪はラグビーの練習中の事故で頚椎を損傷した。詳しい経緯は別記事を参照されたいが、彼の感じた深い絶望、そして何度も挫折しながらも前を向いて歩んでいく姿勢は、少年たちに何を訴えたのだろうか。
社会の暗部とも言える彼らの「背景」
参加者は15歳~18歳未満の少年たち約70人。このシリーズでは何度となく書いているが、華奢な体に制服を着て、視聴覚室に集まるあどけなさを見る限り、ここが少年院であること以外は、同世代の高校生たちとなんら変わりない。むしろ見た目には幼さを感じてしまうほどだ。
少年院に収容される彼らの背景は様々だが、家族からのネグレクトや虐待を受けたり、ひどい場合には家族に捨てられたというケースもある。このように幼い頃に被害者として過ごした経験を持つ割合が高いと聞いているが、学校の友人に何年間にも渡って陰湿ないじめを受け続けたり、教師との信頼関係が築けず学校で居場所を失うケースもある。またスポーツにおける挫折が原因となって自分を見失うこともある。
付け加えておくと、入院する少年たちの学力は小学校高学年のレベルで止まっていることが多い。
社会の暗部とも言える背景がそれぞれにある。しかし、どんな家庭環境や背景、理由があるにせよ、犯罪には彼らによる被害者がいることを忘れてはならない。確かなことは、法を犯したからこそ、一般社会とは隔てられた矯正施設に収容されているということだ。
だからといって、彼らに未来がないわけではない。少年院では矯正教育として、生活指導,職業補導,教科教育,保健・体育及び特別活動の5つの領域にわたって指導が行われ、社会に帰っていく。
「何を頑張れっていうんだ」
三阪の講話に話を戻そう。
「僕の夢は花園(全国大会)でプレーすることで、高校時代はラグビー漬けの毎日でした」
三阪は布施工業高校(現布施工科高校)ラグビー部員として、全国一の激戦区・大阪でライバル校としのぎを削り合っていた。
高校ラグビーの聖地と呼ばれる『花園ラグビー場』。その声援が聞こえてくるほど近くで生まれ育った三阪にとって、それは必然だったのかもしれない。
だが、高校3年生の6月。アタック&ディフェンスの実戦的な練習の最中、こぼれ出たボールを取ろうと飛び込んだ直後に三阪の夢は断たれた。
今でこそ車椅子に乗り、両手を使ってパスもキャッチも出来るが、事故の直後は首から下は全て麻痺して動かすことが出来なかった。そして寝たきりの入院生活が始まった。
「お見舞いに来る人、来る人、みんな同じことを言って帰るんです。『頑張れよ』です。『頑張って学校戻ってこいよ』とか『頑張って早く元気になれよ』とか簡単に言うけれど、今の俺に何を頑張れっていうんだ。身体を動かせないから、寝返りを打つことも出来ないし、ひとりじゃご飯も食べられない。水も飲めない。何もできずに一日中ベッドの上で、ただ天井だけを見つめて寝ているだけの俺に、何を頑張れっていうんだよ!と思いながらその言葉を聞いていました。悪気がないことぐらいわかっているのに、受け入れられませんでした」
「今では頑張れという言葉を受け入れることが出来ますが、怪我の直後は一番聞きたくない言葉でした」
急性期治療が終わり、「元の生活に戻れるんじゃないか」と希望を持ってリハビリ病院に転院すると、
「二度と歩くことも立ち上がることもできないでしょう。残された機能を使って、車椅子で生活するためのリハビリを始めます」という医師からの告知。
「18歳ですから、みんなと同じくらいの年齢で、君は一生車椅子生活になると言われたのです。ラグビーで花園に出ることが夢だった僕にとって、それはあまりにもショックな言葉でした。厳しい現実を突きつけられて泣くことしかできません。ですが、どんなに泣いても叫んでも何も変わりません。翌日から辛いリハビリが始まりました。服を着るのに1時間、ご飯食べるのに2時間も掛かるんです。何をやっても時間ばかり……」
三阪は夢を失うどころか、未来の全てをも失ったような気持ちになり2度自殺を試みた。しかし、どうしても死ねなかった。それは車椅子で生きる道を選んだということである。
「毎日リハビリしているうちに少しずつですが出来ることが多くなってきました。そんな頃に作業療法士からウィルチェアーラグビーを紹介され、ビデオを見せてもらいました。最初これはラグビーじゃない!とも思いましたが、車椅子同士が激しくぶつかり合う音を聞いた瞬間に“やりたい!”と思ったのです」
車椅子によるコンタクトスポーツ。この激しい衝撃音が三阪の停滞していた思考を再び前へ向かわせた。
しかし、退院後に感じた社会は障害者には厳しかった。ちょっとした段差でさえも一人では越えることが出来ず、また、周囲からの視線に過剰に反応するようになり、怖くて表に出られなくなった時期もあった。
ウィルチェアーラグビーの時だけは唯一生きていると実感することもできたが、それ以外では心を閉ざし、家に引きこもるようにして1年近くが過ぎた。
「僕が掴んだもの」 そんな時だ。
「このままでいいはずがない。俺は変わりたい」「このままでは周りに甘えてしまう。自分を変えるには、誰も助けてくれない環境に行くしかない」という思いが募った時に、両親の反対を押し切ってニュージーランド留学を決めた。
この決断が三阪の人生を劇的に好転させた転換点である。
最初は英語が怖くて周囲とコミュニケーションが取れなかったものの、「このままじゃ帰れない」と固まっていた自身の殻を破り、身振り手振りで積極的に意思を伝え、行動した結果、学校でもチームでも認めてくれる仲間が増えていった。練習中にわからないことがあれば、何度でも質問して理解できるように努めた。
「この身体でも頑張ればいろいろなことができることを知りました。確かに現実に出来ることと出来ないことはあります。でも頑張れば少しずつでも確実にできることが増えていくのです。それを知ったら自信が出てきて、事故後にやっと自分が好きになれたし、自分に期待が持てるようになりました」
その後、2003年にウィルチェアーラグビーの日本代表に選ばれ、ワールドカップにはキャプテンとして出場し、パラリンピックにもアテネ、北京、ロンドンの3大会連続出場を果たした。夢の形は変わったが活躍の場を広げ、アスリートとして世界に挑むまでになった。
少年たちへのメッセージ
「僕が掴んだものは、自ら動き出さなければ何も変わらないという実感でした。待っていたり、諦めてしまっては何も変わりません。また、自分を信じてあげられるのは自分しかいないということです。自分を変えられるのも自分だということです。それはみなさんも同じです」
「チームに必要なことは自己犠牲の精神と自分を理解して適材適所で活かすことです。これはスポーツに限らず社会でも同じことが求められます。自己犠牲の気持ちで自分を活かしていけば、かならず認められるはずです」
三阪は最後に願いをこめて、
「怪我をしたあと日本代表になって成功体験と言えるようなことがあっても、怪我をして良かったなどと思ったことは一度もありません。生きているのがしんどいと思ったことは一度や二度ではありません。それでも死なせてくれなかったし、死に切れませんでした。そして僕は自ら生きる道を選んだ」
「障害を負った僕にも出来るんだから、みんなはもっといろいろなことが出来るはずです。親からもらった健康な身体があるのだから、諦めずに自分の可能性にチャレンジしてほしい。
人の可能性は無限大だ. と講話を締めた。
質疑応答ではウィルチェアーラグビー用の車椅子のことやパラリンピックの質問の他に、「辛い時の頑張り方」や「人とのコミュニケーションの取り方」など活発な質問が溢れた。三阪はそれらの質問の一つひとつに「辛い時は一番辛かった時のことを思い出して、あれを乗り越えたのだから今度もきっと乗り越えられると思って頑張っている」、また「人とのコミュニケーションでは相手を知ろうと努力することが大切であり、そのためには相手の目を見て話すこと、そして相手が何を考え何を伝えようとしているのかを理解し、自分の思いを伝えること」と言葉を選びながら丁寧に答えていった。また、矯正施設という特殊性ゆえか、練習中の事故ではあるが「加害者のことをどう思っていますか」というものもあった。こうした質問はまず他の講演会場では出ない質問である。
少年院と社会を繋ぐ「接点」
本稿冒頭の三阪の言葉にもあるが、きっと誰もが少年院に対して歪んだ先入観を持っている。筆者も2009年ラグビー元日本代表の故石塚武生氏のスタッフとして水府学院に入る以前は、三阪と同様の先入観を抱いていた。しかし、石塚氏の話を聴きながら涙を流していた少年を見たときに見方が少し変わった。その半年後、石塚氏がお亡くなりになられた後に、石塚氏がどんな思いで少年たち全員から体当たりを受けていたのか話をしたときに多くの少年たちが涙を流した。
その石塚氏の思いとは「絶対に腐って自分を粗末にしてはならない。人に喜ばれることを自分の喜びとしよう。奉仕の精神、自己犠牲の精神を持っている限り、人に愛され社会に信頼され、天が味方についてくれる。人生は逃げることなく、まっすぐに思い切りぶつかって行くことによって拓かれる」というものだ。
全員から体当たりを受けた身体は上半身が痣だらけになり、帰り道の車の中では胸を押さえて苦しむほどだった。
平成25年度の犯罪白書で、近年の少年院の入院者の人員における人口比を見てみると平成14~15年をピークに減少している。ただし、14歳未満の少年を含む低年齢の犯罪は横ばい傾向にあるようだ。
複雑化、多様化する社会の中で家庭や生活習慣、また学校など子どもたちを取り巻く社会が変わってきている。それだけに問題点も多様であり、一朝一夕に何かを改善できるとは思えないが、少年院に指導や取材で行くたびに人や社会の基盤は家庭にあることを再認識させられる。
以前のレポートにも記したが、少年それぞれに個別の教育計画が立てられ「1年あれば見違えるように成長する」ことを教官たちは実感していると書いた。しかし、少年たちの成長をそのまま社会で活かせるかは別の問題であるように思える。個々の成長を活かせるような少年院と社会を繋ぐ接点のようなものが必要ではないかと思う。少年たちを社会に復帰させるまでの課題は多いはずだ。再犯をさせないための工夫は足りていない。
三阪洋行 プロフィール
1981年大阪府東大阪市に生まれる。
ウイルチェアラグビー日本代表副将。HEAT(大阪)所属。布施工業高校ラグビー部3年生の時に、練習中の事故で頸椎を損傷し車いす生活になる。8カ月間の入院生活のあとに車いすラグビーと出会う。2002年に「自分を変えたい」とニュージーランドに4カ月ラグビー留学。2010年、サウスオーストラリア・シャークスに所属しオーストラリアリーグに参戦。日本代表として2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンのパラリンピック3大会連続出場を果たす。
2011年バークレイズ証券入社。2014年アジアパラリンピックでは日本代表のアシスタントコーチとして臨む。
2014年09月05日(Fri) 大元よしき (ライター)
2014年7月23日 昨年に引き続き、茨城県の初等・中等少年院『水府学院』の障害者アスリート講座で三阪洋行氏の講話が行われた。
「昨年初めて講話のお話をいただいた時、『自分にできるのか』と不安になりました。今までいろいろな講演をしてきましたが、少年院はまったく違った環境だからです。とても言葉にしづらい先入観がありました。荒れていて規律がないのではないかとか、人の話を聴く姿勢ができていないのではないかと不安が大きくなってしまったのです」
「また、何を話せばいいのか、そもそも自分が少年院で話す意味があるかどうかなど、いろいろ考えました。ですが、どんな子たちかわからないけれど、やってみなければ答えはわかりませんよね。だから、敢えて狙いを持たずに、怪我から現在に至るまでの自分の経験を伝えて、何かを感じてくれたら、それだけでよいのではないかと思ってお受けしました。実際に彼らに会ってみると自分が勝手に膨らませた先入観で不安になっていただけだと気付いたのです」
三阪はラグビーの練習中の事故で頚椎を損傷した。詳しい経緯は別記事を参照されたいが、彼の感じた深い絶望、そして何度も挫折しながらも前を向いて歩んでいく姿勢は、少年たちに何を訴えたのだろうか。
社会の暗部とも言える彼らの「背景」
参加者は15歳~18歳未満の少年たち約70人。このシリーズでは何度となく書いているが、華奢な体に制服を着て、視聴覚室に集まるあどけなさを見る限り、ここが少年院であること以外は、同世代の高校生たちとなんら変わりない。むしろ見た目には幼さを感じてしまうほどだ。
少年院に収容される彼らの背景は様々だが、家族からのネグレクトや虐待を受けたり、ひどい場合には家族に捨てられたというケースもある。このように幼い頃に被害者として過ごした経験を持つ割合が高いと聞いているが、学校の友人に何年間にも渡って陰湿ないじめを受け続けたり、教師との信頼関係が築けず学校で居場所を失うケースもある。またスポーツにおける挫折が原因となって自分を見失うこともある。
付け加えておくと、入院する少年たちの学力は小学校高学年のレベルで止まっていることが多い。
社会の暗部とも言える背景がそれぞれにある。しかし、どんな家庭環境や背景、理由があるにせよ、犯罪には彼らによる被害者がいることを忘れてはならない。確かなことは、法を犯したからこそ、一般社会とは隔てられた矯正施設に収容されているということだ。
だからといって、彼らに未来がないわけではない。少年院では矯正教育として、生活指導,職業補導,教科教育,保健・体育及び特別活動の5つの領域にわたって指導が行われ、社会に帰っていく。
「何を頑張れっていうんだ」
三阪の講話に話を戻そう。
「僕の夢は花園(全国大会)でプレーすることで、高校時代はラグビー漬けの毎日でした」
三阪は布施工業高校(現布施工科高校)ラグビー部員として、全国一の激戦区・大阪でライバル校としのぎを削り合っていた。
高校ラグビーの聖地と呼ばれる『花園ラグビー場』。その声援が聞こえてくるほど近くで生まれ育った三阪にとって、それは必然だったのかもしれない。
だが、高校3年生の6月。アタック&ディフェンスの実戦的な練習の最中、こぼれ出たボールを取ろうと飛び込んだ直後に三阪の夢は断たれた。
今でこそ車椅子に乗り、両手を使ってパスもキャッチも出来るが、事故の直後は首から下は全て麻痺して動かすことが出来なかった。そして寝たきりの入院生活が始まった。
「お見舞いに来る人、来る人、みんな同じことを言って帰るんです。『頑張れよ』です。『頑張って学校戻ってこいよ』とか『頑張って早く元気になれよ』とか簡単に言うけれど、今の俺に何を頑張れっていうんだ。身体を動かせないから、寝返りを打つことも出来ないし、ひとりじゃご飯も食べられない。水も飲めない。何もできずに一日中ベッドの上で、ただ天井だけを見つめて寝ているだけの俺に、何を頑張れっていうんだよ!と思いながらその言葉を聞いていました。悪気がないことぐらいわかっているのに、受け入れられませんでした」
「今では頑張れという言葉を受け入れることが出来ますが、怪我の直後は一番聞きたくない言葉でした」
急性期治療が終わり、「元の生活に戻れるんじゃないか」と希望を持ってリハビリ病院に転院すると、
「二度と歩くことも立ち上がることもできないでしょう。残された機能を使って、車椅子で生活するためのリハビリを始めます」という医師からの告知。
「18歳ですから、みんなと同じくらいの年齢で、君は一生車椅子生活になると言われたのです。ラグビーで花園に出ることが夢だった僕にとって、それはあまりにもショックな言葉でした。厳しい現実を突きつけられて泣くことしかできません。ですが、どんなに泣いても叫んでも何も変わりません。翌日から辛いリハビリが始まりました。服を着るのに1時間、ご飯食べるのに2時間も掛かるんです。何をやっても時間ばかり……」
三阪は夢を失うどころか、未来の全てをも失ったような気持ちになり2度自殺を試みた。しかし、どうしても死ねなかった。それは車椅子で生きる道を選んだということである。
「毎日リハビリしているうちに少しずつですが出来ることが多くなってきました。そんな頃に作業療法士からウィルチェアーラグビーを紹介され、ビデオを見せてもらいました。最初これはラグビーじゃない!とも思いましたが、車椅子同士が激しくぶつかり合う音を聞いた瞬間に“やりたい!”と思ったのです」
車椅子によるコンタクトスポーツ。この激しい衝撃音が三阪の停滞していた思考を再び前へ向かわせた。
しかし、退院後に感じた社会は障害者には厳しかった。ちょっとした段差でさえも一人では越えることが出来ず、また、周囲からの視線に過剰に反応するようになり、怖くて表に出られなくなった時期もあった。
ウィルチェアーラグビーの時だけは唯一生きていると実感することもできたが、それ以外では心を閉ざし、家に引きこもるようにして1年近くが過ぎた。
「僕が掴んだもの」 そんな時だ。
「このままでいいはずがない。俺は変わりたい」「このままでは周りに甘えてしまう。自分を変えるには、誰も助けてくれない環境に行くしかない」という思いが募った時に、両親の反対を押し切ってニュージーランド留学を決めた。
この決断が三阪の人生を劇的に好転させた転換点である。
最初は英語が怖くて周囲とコミュニケーションが取れなかったものの、「このままじゃ帰れない」と固まっていた自身の殻を破り、身振り手振りで積極的に意思を伝え、行動した結果、学校でもチームでも認めてくれる仲間が増えていった。練習中にわからないことがあれば、何度でも質問して理解できるように努めた。
「この身体でも頑張ればいろいろなことができることを知りました。確かに現実に出来ることと出来ないことはあります。でも頑張れば少しずつでも確実にできることが増えていくのです。それを知ったら自信が出てきて、事故後にやっと自分が好きになれたし、自分に期待が持てるようになりました」
その後、2003年にウィルチェアーラグビーの日本代表に選ばれ、ワールドカップにはキャプテンとして出場し、パラリンピックにもアテネ、北京、ロンドンの3大会連続出場を果たした。夢の形は変わったが活躍の場を広げ、アスリートとして世界に挑むまでになった。
少年たちへのメッセージ
「僕が掴んだものは、自ら動き出さなければ何も変わらないという実感でした。待っていたり、諦めてしまっては何も変わりません。また、自分を信じてあげられるのは自分しかいないということです。自分を変えられるのも自分だということです。それはみなさんも同じです」
「チームに必要なことは自己犠牲の精神と自分を理解して適材適所で活かすことです。これはスポーツに限らず社会でも同じことが求められます。自己犠牲の気持ちで自分を活かしていけば、かならず認められるはずです」
三阪は最後に願いをこめて、
「怪我をしたあと日本代表になって成功体験と言えるようなことがあっても、怪我をして良かったなどと思ったことは一度もありません。生きているのがしんどいと思ったことは一度や二度ではありません。それでも死なせてくれなかったし、死に切れませんでした。そして僕は自ら生きる道を選んだ」
「障害を負った僕にも出来るんだから、みんなはもっといろいろなことが出来るはずです。親からもらった健康な身体があるのだから、諦めずに自分の可能性にチャレンジしてほしい。
人の可能性は無限大だ. と講話を締めた。
質疑応答ではウィルチェアーラグビー用の車椅子のことやパラリンピックの質問の他に、「辛い時の頑張り方」や「人とのコミュニケーションの取り方」など活発な質問が溢れた。三阪はそれらの質問の一つひとつに「辛い時は一番辛かった時のことを思い出して、あれを乗り越えたのだから今度もきっと乗り越えられると思って頑張っている」、また「人とのコミュニケーションでは相手を知ろうと努力することが大切であり、そのためには相手の目を見て話すこと、そして相手が何を考え何を伝えようとしているのかを理解し、自分の思いを伝えること」と言葉を選びながら丁寧に答えていった。また、矯正施設という特殊性ゆえか、練習中の事故ではあるが「加害者のことをどう思っていますか」というものもあった。こうした質問はまず他の講演会場では出ない質問である。
少年院と社会を繋ぐ「接点」
本稿冒頭の三阪の言葉にもあるが、きっと誰もが少年院に対して歪んだ先入観を持っている。筆者も2009年ラグビー元日本代表の故石塚武生氏のスタッフとして水府学院に入る以前は、三阪と同様の先入観を抱いていた。しかし、石塚氏の話を聴きながら涙を流していた少年を見たときに見方が少し変わった。その半年後、石塚氏がお亡くなりになられた後に、石塚氏がどんな思いで少年たち全員から体当たりを受けていたのか話をしたときに多くの少年たちが涙を流した。
その石塚氏の思いとは「絶対に腐って自分を粗末にしてはならない。人に喜ばれることを自分の喜びとしよう。奉仕の精神、自己犠牲の精神を持っている限り、人に愛され社会に信頼され、天が味方についてくれる。人生は逃げることなく、まっすぐに思い切りぶつかって行くことによって拓かれる」というものだ。
全員から体当たりを受けた身体は上半身が痣だらけになり、帰り道の車の中では胸を押さえて苦しむほどだった。
平成25年度の犯罪白書で、近年の少年院の入院者の人員における人口比を見てみると平成14~15年をピークに減少している。ただし、14歳未満の少年を含む低年齢の犯罪は横ばい傾向にあるようだ。
複雑化、多様化する社会の中で家庭や生活習慣、また学校など子どもたちを取り巻く社会が変わってきている。それだけに問題点も多様であり、一朝一夕に何かを改善できるとは思えないが、少年院に指導や取材で行くたびに人や社会の基盤は家庭にあることを再認識させられる。
以前のレポートにも記したが、少年それぞれに個別の教育計画が立てられ「1年あれば見違えるように成長する」ことを教官たちは実感していると書いた。しかし、少年たちの成長をそのまま社会で活かせるかは別の問題であるように思える。個々の成長を活かせるような少年院と社会を繋ぐ接点のようなものが必要ではないかと思う。少年たちを社会に復帰させるまでの課題は多いはずだ。再犯をさせないための工夫は足りていない。
三阪洋行 プロフィール
1981年大阪府東大阪市に生まれる。
ウイルチェアラグビー日本代表副将。HEAT(大阪)所属。布施工業高校ラグビー部3年生の時に、練習中の事故で頸椎を損傷し車いす生活になる。8カ月間の入院生活のあとに車いすラグビーと出会う。2002年に「自分を変えたい」とニュージーランドに4カ月ラグビー留学。2010年、サウスオーストラリア・シャークスに所属しオーストラリアリーグに参戦。日本代表として2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンのパラリンピック3大会連続出場を果たす。
2011年バークレイズ証券入社。2014年アジアパラリンピックでは日本代表のアシスタントコーチとして臨む。
2014年09月05日(Fri) 大元よしき (ライター)