「障害と共に生きる~社会で活躍するチャレンジド」の第1回は、日本パラリンピアンズ協会会長の河合純一さんをお迎えしました。河合さんは5歳で水泳を始め、視覚障害者水泳選手として1992年バルセロナ大会、1996年アトランタ大会、2000年シドニー大会、2004年アテネ大会、2008年北京大会、2012年ロンドン大会など、パラリンピック6大会に連続出場を果たし、通算獲得メダルは金5、銀9、銅7、合計21個(日本人最多)という日本の障害者アスリートの第一人者といえる存在です。
視覚障害者として生きる
初瀬:河合さんは華々しい経歴で日本のパラリンピアンの象徴的な方ですが、まず最初に障害についてお伺いします。
河合:障害者認定を受けたのは中学2年生の時です。もともと弱視で中学1年くらいから教科書の文字は虫眼鏡を使って読んでいました。不自由ですが文字が読めたので当時は普通校に通っていました。
初瀬:河合さんは中学を卒業すると盲学校に進学されますが、その際、何か挫折感のような思いはあったのですか?
僕の場合は大学時代に視覚障害者の手帳を取って、マッサージ師の学校を勧められたときは正直ショックでした。当時は弁護士になるという夢がありましたので、それが絶たれたうえに、人並みな選択肢もないのかという絶望感でいっぱいでした。
勉強家だった河合さんとしては、盲学校に通うことに葛藤があったのかなと思うのですが、どうでしたか?
河合:水泳で「うちの高校に来ないか」と誘ってくれた高校もありましたが、私も家族も、その先がどうなるのかを考えて盲学校(筑波大付属盲学校高等部)へ行くほうが将来のためになるだろうと判断しました。
進学先が盲学校だからという挫折感のようなものはありません。隣の町の高校に進学したのか、東京の学校に行ったのか、そんな違いだけです。
大きな意味があったのは東京に出てきたことによって、早い時期にパラリンピックに出合えたことです。
初瀬:とは言いましても、初めての寮生活ですし、点字はわからないし。盲学校の生活はどうでしたか?
河合:入学した年は点字がよくわからないのであまり成績がよくなくて(笑)。でも、勉強自体は苦ではなかったです。やらなきゃいけないと思って頑張っていました。
それに水泳部の練習が楽しかったですね。学校が終わって、寮に帰って、筋トレして、夕ご飯を食べてから、そのあと泳ぎに行くという毎日でした。帰ってくるのは夜の9時半から10時くらい。それから勉強して、12時くらいに寝るという生活でした。
初瀬:高校生の時からパラリンピックに出場しているのですが、いつ頃から意識されていたのですか?
河合:高校(1991年)に入ってからパラリンピックのことを知りました。91年は翌年開催のバルセロナ大会の日本代表選考会があると聞いたので、まず、その選考会に出るための大会に出場したところ日本記録が出たのです。その後、日本代表選考会に出て、そこでトップ通過してパラリンピック出場を決めました。
初瀬:高校生ながら、すでに日本記録を出していたということですが、バルセロナ大会の成績はどうでしたか?
河合:銀2と銅3です。あの大会で優勝できなかったことが悔しくて、その後の頑張りに繋がっていったのかなと思っています。
実は17歳の頃から、同じスポーツなのにオリンピックとパラリンピックが、厚生労働省と文部省に分かれているのはおかしいと思っていました。
たとえばなぜユニフォームが違うの? とかですね、細かいことまでいろいろ質問しているうちに、その違いに行きついたのです。98年の長野大会(冬季)からそれも変わりました。
初瀬:高校時代にその問題意識を持っているところが河合さんらしい。それが今の仕事に繋がっていると考えて良さそうですね。
教員への夢 その第一歩
初瀬:盲学校卒業後は、早稲田大学に進学されますね。やはり教育の道を目指して?
河合: 僕の夢は教員になることでした。早稲田を選んだ理由は、盲学校が池袋に近い護国寺にあったことによります。自分の生活圏に近い大学を探したところ早稲田、立教、学習院、上智が候補にあがって、その中で教育学部があって、推薦があって、4年間同じキャンパスがいいと考えたら早稲田大学だったというわけです。入試に関しては点字が苦手だったので、推薦で受けたいと考えました。
初瀬:住み慣れた所に近い大学を探したということですね。ところで、授業はどうやって受けていたのですか?
河合:当時はパソコンがないから点字版というものを使っていました。カチャカチャ授業中ずっとやっていましたね。毎日授業には出席して3年生までに教職含めて単位はほぼ取り終えていました。だから4年生の時は楽なものでした。(笑)
初瀬:アトランタ大会出場は大学3年生ですよね。その一番忙しい時期に平行して練習するのは大変だったんじゃないですか?
河合: 大会そのものは大学の夏休み期間だったから、大変だなんて感覚はなくて、しっかり準備できました。メダルも金2、銀1、銅1が獲得できましたし、卒業時には総長から特別表彰を受けたりして、大学時代はかなり充実していたと思います。
卒業後は浜松市内の母校の中学校に戻って、念願の教員になるのですが、僕がいた頃と何も変わっていなかったから、嬉しかったですよ。
初瀬:教員になるのが夢だったわけですから、母校の教壇に立った時は「やったぞっ!」という感じだったでしょうね。ところで、授業はどうやって教えたのですか。板書とかできないじゃないですか?
河合:そこはティームティーチング(TT)で、二人で授業を行っていました。その先生が板書して二人で補い合いながら進めていきます。授業の最初の5分くらいは導入で、直近のニュースを授業に関連するように話しをして、内容に関心を持たせてから入りました。
テーマに沿って調べさせて、必要に応じて話し合い、発表させて、みんなから吸い上げたものをまとめる。そのあとで正しいデータなどを示して納得させる。そんな展開で多角的に物事を考えるようにして、授業を終えるようにしていました。
初瀬:目が不自由ですから、大変な職業だと思うのですが、生徒とのコミュニケーションで一番気を遣ったところはどんな点ですか?
河合:一番大切なことは生徒の声を聞くということです。彼らにとっては、先生の目が見えないとか、金メダリストとか関係がないんです。自分のことを伸ばしてくれるとか、気にしてくれる先生かどうかが彼らの評価基準なので、そこに自分が応えられるかどうかだけです。近づき過ぎず遠過ぎず、今は理解してくれなくても、5年後に気づいてくれればいいと思って向き合っていました。
初瀬:生徒の声をよく聞くことと、生徒に多角的に物事を考えさせることですか。河合さんらしいですね。ところで、25歳でシドニー大会に出場して、金2、銀3を獲得されていますが、教員時代の練習はどのようにしていたのですか?
河合:水泳部の顧問ですから、生徒たちといっしょに練習していました。目が見えないので移動するのが大変ですから、職場にプールがあるのはありがたかったです。もちろん顧問は僕ひとりじゃありませんが、ここでは指導者の経験をしました。しっかり泳がせて怪我をしないように注意すれば、それなりに子どもたちは伸びることがわかりました。
初瀬:その後、いったん早稲田大学大学院の教育学研究科に通うのですが、それは勉強もしたいし、アテネ大会に向けて練習もしたかったということですか?
河合:教員としての力を養うためです。それに何が正しいかをしっかり伝えられる教師を増やしたい。そのためにはいつか大学の先生になって教員養成をやりたいと思ったのです。それにアテネ大会に向けて練習がしたいという気持ちもありました。
初瀬:その当時、僕はアテネ大会で活躍する河合さんをはじめとした視覚障害の選手達をテレビで観て、「障害者なのによくやるなぁ」と思っていました。自分の目が悪くなったことと、障害を持っても活躍している人に対しての反発心があったのでしょうね。母親からは、「目が悪くても、こんなに頑張っている人たちもいるのよ」と言われて、余計に反発したことを憶えています。あの頃の僕は、まだ障害を受け入れられなかった時期でしたから。
大学院を卒業してふたたび教育の世界へ
初瀬:大学院を卒業して、再び母校の教壇に立つのですが、以前と同じようなモチベーションで戻れるものですか?
河合:同じではありません。大学院で学んだり、その間に経験したことを教員として活かしたいと思って戻りました。最初の5年間とは違って、ずいぶん自分に余裕ができたかなと思いましたし、子どもたちもそれを敏感に感じますからね。改めて教師としての自分軸を持てたように思います。
初瀬:それなのに3年後には教育委員会へ異動ですね。
河合:他の学校に移るよりも、行政的な仕事を経験してみないかと校長先生や教育委員会から勧められて異動することになりました。僕の仕事は研修センターなので、学校の先生たちが勉強するプログラムを組んだり、資料作りをしていました。その間に北京大会にも出場しています。
初瀬:その後、教育委員会を辞めて選挙に出馬されるのですが、その意図は?
河合:教育委員会には2年ほどいて2010年に辞めるのですが、それは、行政で変えられることと、政治でなければ変えられないことがあるのがわかってきたからです。
自分がこの先どうしたいのかを考えて、選挙に出るという道を選びました。教育と障害者スポーツに関連することに取り組みたいと思っていました。
初瀬:高校生の頃から問題意識を抱えながらパラリンピックに出場し、教員をしながらも数多くのメダルを獲得しました。そんな障害者アスリートは日本には河合さんくらいです。
落選しても、その経験は生きているし、教員を辞めたことによって、東京にいて、2020年に向けて、障害者スポーツの中心的な立場にいるわけです。さらに、現在は日本スポーツ振興センター(JSC)の研究員でもありますから、全て経験は生かされていると考えてよろしいですね。
河合:現在の仕事は文科省から受託しているマルチサポート事業などを担当しています。スポーツ医科学情報を活かして、各スポーツ団体、それもメダルが取れる可能性の高い競技種目に対してサポートを行うというものです。
各団体のスタッフからニーズを聞き取るのですが、競技力を総合的に高める為に、様々な情報から判断して合宿や遠征に専門職の方を派遣しています。
初瀬:河合さんは独自の情報網を持っているので、そこから集まる情報量がリーダーとしての河合さんの力を示していると思います。
河合:ありがとうございます。現役アスリートは、そのパフォーマンスでリスペクトしてくれる人たちが周りにいます。しかし、引退してしまえばパフォーマンスを発揮する場を失います。そうなった時に何でリスペクトされるのかを考えてみれば、仕事の能力であったり人間性であったりするのは明らかです。そこを踏まえて現役の時から勉強し、良い経験を積む必要があります。それが後年信頼されるリーダーとして生きてくるはずです。
2020年 東京オリンピック・パラリンピックを契機に日本が進むべき道
大元:本稿をまとめるにあたって、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、お二人の思いとか目指すところをお聞かせください。
河合:障害のあるなしに関わらず、スポーツがもっと身近にあって、誰もがスポーツを楽しめる都市になってほしい。それが、この国を今以上に豊かにすることになると思います。
その環境に向けて、僕ができることに取り組んでいきたいと思っています。
また、子どもたちに伝えたいことは、スポーツには勝ち負けがあって、思い切りやって負ける清々しさを感じてほしいということです。それを子どもの頃から経験できれば人生の貴重な財産になると思います。
初瀬:障害のあるなしに関わらず、多様性を認める社会というもの目指したいですね。それがパラリンピックの目的でもありますので。いま障害者が近くにいると異物感みたいなものを感じているように思います。ですが、障害者を特別な人として扱わずに、ごく自然に手を貸してあげられることが大切です。このような多様性を認める社会が僕の夢です。
それがきっとこの国の豊かさに繋がっていくはずです。そのための努力は惜しみません。
河合さん、本日は貴重なお時間をありがとうございました。

2015年08月25日 WEDGE Infinity