ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

視覚障害者の目になって 高知市のNPO「若者の参加を」

2016年05月30日 03時07分40秒 | 障害者の自立

生活情報の音声訳不足

 10年後、視覚障害者に「声」を届けられなくなるかも―。役場広報などの生活情報文書の音声訳を続けるNPO法人「たびびと」=高知市中秦泉寺=が、ボランティア不足に悩んでいる。音声訳への理解を深め、「視覚障害者の目になってほしい」と訴えている。

 音声訳は文字や図表などの活字情報を読み上げて録音する作業。「たびびと」は広報のほか、市長選の選挙公約や行政のパンフレット、料理レシピ、商品の取扱説明書などを音に変換してきた。

 音声訳では、録音用の原稿を書き起こす作業に骨が折れる。

 例えば、「箸」は橋や端と聞き間違えないようアクセントを強調する。「ご飯を食べる箸」と言葉を足すこともある。数字の7は1との混同を避けて「なな」と発音する。「偏在」を「偏り」と言い換えるなど、聞き手が理解しやすいための作業がいくつもある。

 中でも最難関は、広報などで多用されている図や表の文章化だ。グラフの場合、目盛りの数をただ読み上げるのではなく、「AとBでは数の増減に偏りがある」などと、グラフが表す内容を端的に文章化する力が必要になる。

 録音するまでに必要なこれら準備が正確にできるようになるには一定の経験がいる。しかし、たびびとのボランティア15人の平均年齢は60歳代で、若い人材が不足している。事務局長の浜田真理子さん(57)は「仕事との両立は難しく、ボランティアを休止したり辞めたりした人もいる」と、人材確保への焦りを隠さない。

 一方で、録音図書のニーズは高い。医療の発達などで先天的な視覚障害者の数は減っているとされるが、中途失明者の多くは点字が読めないため、録音図書の高い需要につながっている。高知市立点字図書館の坂本康久館長は「目の見えない人にとって録音図書は欠かせない」と話す。

 たびびとの浜田さんはきょうも録音マイクに向かう。「音声訳は障害がある人も暮らしやすい社会をつくるために必要。このまま活動を下火にさせたくないんです」

6月からボランティア養成講座
 「たびびと」は音声訳ボランティアの養成講座を高知市(7月3日~)、香美市(6月6日~)、香南市(6月18日~)で開く。発声や発音のトレーニングのほか、図表の文章化などを全4回で学ぶ。参加費千円。問い合わせ先は浜田真理子さん(080・3168・8824)。

広報を音声訳する浜田真理子さん

2016.05.29   高知新聞


障害児サッカーで成長 「バンクル茨城D・F・C」代表兼監督 大橋弘幸さん(28)

2016年05月30日 02時55分52秒 | 障害者の自立

 十メートル先のボールがよく見えない弱視の子どもは、周りに声を掛けてもらいながらプレーする。肢体不自由で早く走れない子は、ゆっくりしたドリブルで相手を引き付けてから、パスを出す。

 「みんな欠点はある。『デコボコ』の『デコ』の部分で周りを助け、互いに『ボコ』の部分を埋め合えばいい」。障害児のサッカーチーム「バンクル茨城D・F・C」を昨年七月に立ち上げ、監督を務める。

 元Jリーガーでも強豪校出身でもなく、高校では一勝もしていない。「サッカー協会にいる人たちとは全く違い、ダメな経験ばかりしてきた。ダメ人間だったから分かることがあり、今では強みになっている」と振り返る。

 中学時代は、Jリーグ一部(J1)鹿島アントラーズのジュニアユースチームでプレーした。最初は主力だったが、次第にベンチを温めるようになり、上の世代のユースチームには入れなかった。J2水戸ホーリーホックのユースチームに入ったが、指導者と合わず二カ月で辞めた。

 通っていた高校のサッカー部に入部したが、人数もぎりぎりの弱小チーム。「レギュラーを争うのではなく、励まし合いながらプレーしていた。辞められたら困るから」と当時を思い返して笑う。

 卒業後は、アントラーズなどのサッカースクールでコーチを務めた。挫折を味わってきた経験から「トップの選手を育てるため、できる子ばかりに目を向けていていいのかな」と疑問に思っていた。

 三年ほど前から視覚障害者サッカーに関わるようになり「特に障害児はプレーの環境が整っていない」と感じた。このため、昨年夏に独立してサッカースクールを開業する際、障害児のチームも立ち上げた。

 健常児のチームで試合に出られず、しばしば練習でも外されていた子が、生き生きとプレーするようになった。肢体不自由の子には優しいパスを出すなど、周りに配慮できるようになった子もいた。「人間的な成長が、サッカーの成長につながった時がうれしい」と目を細める。

 二〇二〇年に東京でパラリンピック開催が決まったのを機に、障害者サッカーの七団体を統括する「日本障がい者サッカー連盟」が今年四月に発足。ようやく日本サッカー協会の加盟団体になり、競技体制の整備に向けて動きだした。

 「障害のある子がサッカーを楽しめる環境が、当たり前になってほしい」と願っている。 

 <おおはし・ひろゆき> 1987年、高萩市出身。中学時代は鹿島アントラーズのジュニアユースチームでプレー。県立松丘高校(現・高萩清松高校)を卒業後、アントラーズなどのサッカースクールのコーチに。現在は独立し「ジュントリールサッカースクール」を県内各地で開いている。ひたちなか市在住。

2016年5月29日  東京新聞


盲導犬普及の道 意識の壁超え共に歩む

2016年05月30日 02時46分38秒 | 障害者の自立

 視界はいつも濃霧に遮られている。松本市の前野弘美さん(58)は病気の進行で徐々に視力を失った。

 「でもね私には一人でどこにでも歩いていける自由があります」

 頼りになるパートナーがいる。盲導犬のハリスだ。ラブラドルレトリバーの雄で4歳。北海道盲導犬協会が育成し、貸与している。21年前に盲導犬と歩き始めた前野さんにとって、ハリスは4代目になる。

 盲導犬は活動範囲を広げてくれる。社会参加も後押しするのだろう。今は利用者らでつくる長野県ハーネスの会の会長だ。

 同会は1998年に発足し基金を設立した。現役の犬や引退犬の医療費の一部を支援するなど課題解決に取り組んでいる。

 昨年は松本市で「全国身体障害者ほじょ犬サミット」を開いた。聴導犬、介助犬と合わせ補助犬利用の課題を話し合った。

   <行き渡らない理解>

 今年3月、公益財団法人アイメイト協会(東京)が全国の利用者259人を対象に調査した。

 9割近い人が飲食店への入店や宿泊施設での宿泊を拒否されるなど「嫌な思いをした」経験を持つことが分かった。

 身体障害者補助犬法によれば不特定多数が利用する民間施設も盲導犬の同伴を拒んではならない。法施行から14年。改善されたとはいえ理解は行き渡っていない。

 盲導犬の普及はここ十数年、足踏み状態が続いている。厚生労働省によると全国の実働頭数は984頭(5月1日現在)。県内は21頭にとどまる。

 欧米先進国と比べ普及率は低い。帯広畜産大の鈴木宏志教授のデータによると、人口比実働数は英国や米国に比べ3分の1から8分の1にすぎない。

 犬は生後しばらく母犬やボランティア家庭のもとで暮らす。1歳ごろから適性を見て訓練を始める。半年から1年後に盲導犬として認定されるのは3割程度。利用希望に育成が追いつかない状況が常態化している。

 視覚障害者の側も利用に二の足を踏む事情がある。

 一緒に暮らす前に訓練施設に出かけ、4週間以上、寝起きを共にして訓練する必要がある。マッサージなど自営業の場合、その間の収入が途絶えてしまう。

 国と県の支援や寄付もあり、犬は無償貸与されるが、病気などの治療費は自己負担だ。数百万円の治療費がかかり、犬が死んだ後も払い続けた人もいたという。県ハーネスの会の基金設立も、そんな苦労を踏まえてのことだ。

 世界最初の盲導犬学校がドイツに誕生したのは第1次世界大戦のさなか。失明した戦傷者の社会復帰対策だった。軍用犬に使われていたシェパードを育成した。

 日本にも1939(昭和14)年にドイツから4頭が輸入された。安曇野出身の相馬愛蔵が創業した中村屋の2代目で日本シェパード犬協会役員だった相馬安雄さんらが育成に乗り出していた。

 失明した元軍人2人が訓練を経て、それぞれ故郷に戻って盲導犬と一緒に暮らした。

 このうち1頭の子が盲導犬に育った。「千歳」という。戦場で両目を失明し、陸軍病院に入院していた大阪出身の山崎金次郎さんのパートナーになる。山崎さんは千歳との生活を短歌に詠んだ。

 〈迷ひたる闇夜に活路ひらく我盲導犬と再起計らむ〉

 千歳を伴い電車に乗って通勤したり東京に出張したりした。

 相馬さんらが進めた計画は敗戦の混乱の中についえる。盲導犬も相次いで命を失った。葉上太郎著「日本最初の盲導犬」は埋もれていた盲導犬史に光を当てた。

 戦後は、アイメイト協会創設者の塩屋賢一さんが国産初の盲導犬「チャンピイ」を育てた1957年から新たな歴史が始まった。

   <闇夜の明かりに>

 盲導犬と暮らし始め、失明という絶望の闇に明かりを見つける。昔も今も変わらない希望との出合いである。もっと多くの人が経験できるといい。

 県ハーネスの会の前野さんにはこんな経験がある。雨の日、飲食店で店主に拒まれた。すると奥から声が聞こえた。「盲導犬だ。入れてやってよ」。他の客も同調し、店主は入店を認めた。

 盲導犬は食事中、足元で静かに待っていた。店主は帰り際、申し訳なかったと頭を下げ「また一緒に来てください」と言った。意識の壁を超える希望はある。

 視覚障害者は経済基盤が弱く、所得水準も下がっている。一度職を失うと容易に仕事が見つからないのが現実と前野さんはいう。

 盲導犬の普及は視覚障害者を取り巻く環境の改善を測る物差しにもなる。ともに歩ける街は誰にも優しい。その意義を共有し、盲導犬物語のページをめくりたい。 

(5月29日)  信濃毎日新聞


オリンピックとパラリンピックの溝。 水泳日本代表の壮行会で感じたこと。

2016年05月30日 02時35分21秒 | 障害者の自立

 5月20日から22日まで、競泳のジャパンオープンが行なわれた。最終日の22日、すべての競技が終わったあとには、リオ五輪に向けた壮行会が行なわれた。

 壮行会は、ロンドン五輪の年のジャパンオープンでも実施された。そのときとの変化を目の当たりにして感じたことがあったので、書いておきたい。

 まず、何が変化したのか。ロンドン五輪のときには、ロンドンオリンピック壮行会と銘打ち、競泳、シンクロナイズドスイミング、飛び込みの選手たちが一堂に会した。

 今回は、オリンピックだけでなくパラリンピックもあわせてのリオデジャネイロ壮行会として実施された。

 それは、4年前からの変化だった。

 ただし、競泳、シンクロナイズドスイミング、飛び込み、ロンドンでは出場権を逃して参加しなかった水球男子代表が全選手の参加だったのに対し、パラリンピックの水泳日本代表選手は、計19名のうち、成田真由美と木村敬一の2名のみの参加にとどまった。

 2名以外の選手たちが、都合がつかなかったとも思えない。観客席には、他の代表選手たちの姿も見受けられたからだ。

佐藤真海が指摘した「そう言えば、やっていたっけ」。

 この光景を見たときに、3年前のことを思い出した。2020年のオリンピック・パラリンピックの東京開催が決まった年だ。

 招致活動に尽力したアスリートの1人に、佐藤真海がいた。佐藤がしばしば、口にしていた言葉がある。

「オリンピックとパラリンピックの垣根をなくしたい」

 その後筆者は、佐藤が参加する対談の司会を務める機会を得た。そのとき、ロンドンパラリンピックの経験について彼女が語ったことが印象に残っている。

「ロンドンはすごく高揚感がありました。スタジアムも常に満員。純粋にスポーツを楽しみに来た観客で一杯だったんです」

 さらに、日本のパラリンピックの現状についてこう続けた。

「正直なところ、『そう言えば、やっていたっけ』という程度の感覚だと思うんです」

 理解が広がらない理由については、「障害者スポーツに触れる機会が、あまりに少ないからではないでしょうか」と指摘していた。

 彼女の競技生活、そしてロンドンでみた光景が、「垣根をなくしたい」という言葉に集約されていたのだろう。

「同じ代表」という演出は出来なかったのか。

 あれから3年。日本でも、これまでにないくらいパラリンピックの各競技の動向や選手たちの姿が伝えられるようになった。その背景には、2020年の東京開催が決まったことがもちろんある。

 今回、水泳の壮行会がオリンピックとパラリンピック双方の選手達を集めて開催されたことも、同じ流れの中にある。そして壮行会もまた、パラリンピック競技に触れてもらい、認知を高めるための1つの機会ではある。

 ただ、せっかくそのような場を設けたのであれば、あと一歩踏み込めなかったか。

 つまり「同じ代表」という演出方法はできなかったのだろうか、ということだ。彼らはともに、トレーニングに励み、身体を鍛え上げ、代表選考を経て大舞台の切符をつかんだ。日本代表としてリオ大会に臨むという点において変わりはない。

 今回のように、どこかゲストとして呼ばれたように見える形、雰囲気になるのではなく、オリンピックに出場する選手たちと並んで、パラリンピックに出場する19名の代表選手がプールサイドに立つ。指導者も参加する。そのような形であってこそ、「壮行会」という名前に相応しい場になったように思える。

オリンピックとパラリンピックを1つの大会に?

 2020年には、オリンピックとパラリンピックを合わせて1つの大会としてしまえば面白いのではないか。そう思ったこともあった。いつからいつまでがオリンピック、いつからがパラリンピックではなく、この日がオリンピックの種目なら次の日はパラリンピックの競技……のような。

 実際には、2020年も2つの大会は期間を分けて行われる。少なくとも、選手同士、そして観る人と接する、触れる、交流する機会の増加が垣根をなくす一歩ではある。

 そして、オリンピックとパラリンピックの選手たちが並んで立つのが当たり前の光景になったとき、大きく日本のスポーツ環境も変わる。

 そんなことを考えさせられた壮行会だった。

その日試合があったわけではない水球の選手も呼んでいるのなら、パラリンピックの選手たちも呼んでしかるべきだと思うのだが……

2016/05/29   Number Web


フェイスブック 「ぽっちゃり体型」の女性広告禁止で議論に

2016年05月30日 02時30分05秒 | 障害者の自立
フェイスブックは、ぽっちゃり体型の女性モデルを起用した広告を「好ましくない形で体型を描写した」として禁止したが、その後、認める決定を下した。

オーストラリアのフェミニスト・グループ「シェルシェ・ラ・ファム」は、“フェミニズムと肥満”というパネルディスカッションの告知に24号サイズのモデルのテス・ホリデーを起用した。

しかし、広告の表示を増やすように要請すると、フェイスブックは写真が容認できないとして拒否した。フェイスブックは同イベントの主催者に対し「このような広告は見た人を自己嫌悪に陥らせるため許可できない。代わりにランニングやサイクリングなどの写真を採用することを勧める」と説明したという。

しかし、今回の広告はぽっちゃり体型の女性を肯定するためのものであり、肥満体型を恥ずべきものとして提示している訳ではない。
「このイベントは肥満体型を肯定するものです。しかし、フェイスブックはそのコンセプトを無視し、私たちが採用した素晴らしい特大サイズの女性の写真が女性の自己嫌悪を煽っていると判断したのです」とグリーソンは言う。

フェイスブックは謝罪し、今回の広告は同社のポリシーに違反しておらず掲載を再認するとした。

だが、フェイスブックが差別的だと誤って判断したケースが過去にもある。同性愛者たち自身が“faggot(同性愛者を指す差別的な用語)”という言葉を肯定的に使ったにもかかわらずアカウントを停止したほか、トランスジェンダーのアーティストであるジェイン・カウンティが“tranny(性同一性障害者を指す俗語)”という単語を使ったとしてアカウントを停止したこともある。

上記の2件に関してはそれぞれの言葉が差別的に使われることもあるため、ある程度理解できるが、写真を禁止することはまた別の問題だ。

フェイスブックの規定によると、「腹部の贅肉がズボンの上に乗っているような、脂肪が垂れ下がっている様子が分かるクローズアップ」や「タイトすぎる服装をした人」の写真は禁止されている。さらには「(全身が見えていても)脂肪やセルライトをつまんでいる人」の写真も禁止されている。

これらの規定は、肥満を恥とする考え方を助長する広告の掲載を禁止するために存在していると考えられる。しかし、自分の体形を誇らしいものと考えるぽっちゃり体型の女性の写真を禁止することは理屈に合わない。

この写真が恥ずかしいものとされるなら、大きめの女性の写真はすべて恥ずかしいものになってしまう。太っていることを恥だと決めつけているのは、一体誰なのだろうか。

2016/05/29   Forbes JAPAN