ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

過酷研修で障害 サニックス提訴

2016年05月17日 03時36分43秒 | 障害者の自立

 過酷な新入社員研修で障害が残ったとして、太陽光発電設備施工などを手掛ける「サニックス」(福岡市、宗政伸一社長)を相手取り、元社員の男性(50)=広島県福山市=が約2200万円の損害賠償を求める訴訟を広島地裁福山支部に起こした。24キロを歩かせ、集団の一人でも脱落すれば連帯責任を問われるなどの内容。福山支部での弁論で男性側は「無理なプログラムを強制し、安全配慮義務を怠った」と主張し、会社側は「無理な要求はしていない」と争う構えをみせている。

 提訴は1月28日付。訴状などによると、男性は2013年8月に入社し、福岡県宗像市の同社研修センターで約10日間の新人研修に参加した。研修は営業などに関する座学のほか、10人ごとの班が一定速度で長距離を歩く「歩行訓練」が繰り返された。終盤には「サニックススピリッツ」と銘打たれ、24キロを4時間で歩く訓練が課された。

 男性は2回の歩行訓練で両脚を痛めていたが、会社側から「一人でも脱落すれば班全体が失格」「クリアできない人間はうちに要らない」などと言われ、同僚に迷惑を掛けることや解雇を恐れて訓練を続けた。24キロを完歩したが、症状が悪化。両膝関節挫傷などと診断され、関節可動域が狭まる障害が残ったとしている。男性は障害のため休職し、14年に退社した。

 当時48歳で体重が100キロ近くあり、男性側は「無理な運動をさせれば負傷する可能性が高いことを十分認識していたにもかかわらず、(会社は)無理なプログラムを組んだ」と指摘。研修に医療職を配置せず、男性が訓練の中断を訴えても認められず、安全配慮義務を怠ったと主張している。

 サニックス側は弁論で「(男性から)膝と足首が痛いとは聞いたが、捻挫などの負傷の訴えはなかった。サニックススピリッツには参加の意思を確認しており、強制はしていない」などと反論している。同社は取材に対し、「係争中であり、コメントは差し控える」としている。

 毎日新聞   5月16日


障害ある子の「カルテ」義務化 小中高共通、学校が作成

2016年05月17日 03時31分59秒 | 障害者の自立

 障害のある子どもを小学校から高校まで一貫して支援し、進学や就労につなげるため、文部科学省は進学先にも引き継げる「個別カルテ(仮称)」を作るよう、各校に義務づける方針を固めた。通常学級に通う比較的軽い障害や発達障害の子どもも対象で、2020年度以降に導入する。

 個別カルテには子どもの障害や健康の状況、保護者と本人の希望や目標などを書き込む。卒業後は進学先に渡し、これまでの子どもの状況を把握してもらう。

 いまの学習指導要領では、子どもの目標や支援内容についての「個別の教育支援計画」や、教科ごとの指導状況などを記す「個別の指導計画」を作るよう勧めているが、義務化はしていない。文科省の15年度の調査では、特に支援計画は該当者のいる公立小中の1割、公立高校の4割が作成していなかった。

 さらにこうした計画を中学や高校に引き継ぐかどうかは各校が独自に判断している。このため新しい学校が障害に応じた最適な指導方針を把握しきれていない恐れがあり、特に高校では適切な進路指導がしにくい状況にあると文科省はみている。

 個別カルテは、いまの支援計画と指導計画をもとに、小学校から高校まで引き継ぐことを前提とした書式を目指す。文科省は20~22年度に順次始まる小中高校の新学習指導要領での義務化を検討する。

 義務化は公立小中の特別支援学級の子ども(15年5月で約20万人)と、比較的軽い障害や発達障害で通常学級に在籍しながら一部の授業を別に受ける「通級指導」の子ども(同約9万人)を中心に考えている。高校については18年度から始まる通級指導の生徒らを対象とする見込み。私立校に広げるかは今後検討する。

 今月中にも政府の教育再生実行会議が提言する見通し。文科省はカルテの詳しい中身や、個人情報が漏れない仕組みを詰める。

2016年5月15日   朝日新聞デジタル

 

障害児預かり、不正相次ぐ 20業者を行政処分

2016年05月17日 03時26分30秒 | 障害者の自立

 障害のある子供を放課後や長期休暇中に預かる「放課後等デイサービス」で、利用実態がないのに報酬を受け取ったり、必要な職員を配置していなかったりする不正が相次ぎ、今年2月時点で16自治体の20事業者が指定取り消しなどの行政処分を受けていたことが15日、共同通信のまとめで分かった。自治体が返還を求めた金額は約2億円に上る。

 放課後デイは、学童保育などを利用しづらい子供の居場所として2012年度に制度化され、施設数、利用者数が急増。国の審議会や国会でも「障害の特性を理解していない業者が営利目的で参入し、十分なサービスを行っていない例が増えている」との指摘が出ている。

 厚生労働省は今後、施設の運営実態を調べ、次の障害福祉サービス報酬改定(18年度)で専門職員の配置基準やサービス内容の評価を見直す方針。

 今回は事業者の指定権限がある都道府県、政令市など計69自治体に対し、2月に調査票を送り、処分状況を尋ねた。

 指定取り消しは12件、一時停止などは8件。このうち大阪市の事業者は、実際には行っていないサービスの報酬を不正に受領したとして、14年4月に指定を取り消され、約7120万円の返還を求められた。岡山県倉敷市の事業者は、必要な児童発達支援管理責任者や保育士を配置していないのに県の指定を受けたとして、約1660万円の返還を求められた。

 堺市では、子供に職員の犬小屋や風呂場の掃除をさせた事業者が15年7月に6カ月の新規受け入れ停止となっている。

 厚労省によると、放課後デイは14年度で全国約5240カ所あり、約8万8400人の子供が利用している。

2016/5/15  日本経済新聞


厚生労働省を分割するメリットとデメリット

2016年05月17日 03時11分42秒 | 障害者の自立

 厚生労働省分割案がにわかに注目を集めている。厚労省は、医療、介護、年金、生活保護、障害者福祉、感染症対策、雇用対策、職業訓練など広範な重要業務を担当しているものの、1人の大臣で担当するのは困難になりつつあるとの見方が背景にある。

その契機となったのが、5月11日に自民党の財政再建に関する特命委員会(委員長・稲田朋美政調会長)の下に設けられた2020年以降の経済財政構想小委員会(橘慶一郎小委員長、小泉進次郎事務局長)がまとめた「厚生労働省のあり方について」という提言である。

何度か分割論が出ては立ち消えに

厚労省は、2001年の省庁再編時に旧厚生省と旧労働省が合併して誕生した。それ以降、いくつかの省庁にまたがる施策を一元的に行う必要が出たときなど、何度か分割論が出た。しかし、議論がまとまらず立ち消えとなり、今日に至っている。

現に、少子化対策の重要性が高まり、厚労省が所管する保育所と文部科学省が所管する幼稚園を一体的に考えた施策を講じる必要が出てきたが、両省の間の組織再編には至らず、内閣府に別途担当部局を新設することとし、現在では子ども・子育て本部が内閣府の担当部局になっている。厚労省が所管する医療、介護、年金などに加え、子ども子育て支援を含めた社会保障改革の必要性が高まると、今度は(内閣府でなく)内閣官房に社会保障改革担当室が新設された。

しかし、これらの新設部局には、プロパーの職員を擁していなかったり足らなかったりすることから、結局は厚労省や文科省、さらには他省庁の出向職員によって、業務遂行を支えるという仕組みになっている。つまり、省庁再編をしたものの、省庁の垣根を越えた施策が必要になると、省庁をまたいだ組織再編を行うのではなく、内閣府や内閣官房に新たな組織を作るのだが、それを担う職員はもともと所管している省庁からの出向者によって構成されるというのが常態化していった。

厚労省分割論がかつて現実味を帯びた時期、筆者も一委員として、福田内閣が2008年8月に設けた厚生労働行政の在り方に関する懇談会の議論にかかわった。この懇談会は、当時大きな問題となった年金記録問題など多くの不祥事が発端となって厚労省の姿勢を根本から見直すべく設けられ、厚労省の組織の見直しや人事の適正化などを検討した。議論の途中で麻生内閣に替わり、最終的には2009年3月30日に最終報告を取りまとめた。

これも一つの契機となり、麻生太郎首相(当時)は、厚労省を2つの省に分割する具体案を検討するよう指示した。その際、厚労省を単純に2つに分割するだけでなく、内閣府や文科省の関連部局の統合も含めて、医療や介護や年金などを担当する「社会保障省」と、雇用や少子化などを所管する「国民生活省」とに分割する案が浮上した。特に、国民生活省に、幼稚園や保育所などを一元的に担当する「少子化・児童局」を新設するという案が出された。

ところが、この幼保一元化が、パンドラの箱を開けることになった。文科省や幼稚園関係者は「3歳児以降は、小学校との接続を含め学校教育体系の中で、福祉ではなく教育を担当する省庁が責任を果たすべきだ」と主張した。他方、保育関係者も、幼稚園を含んだ一元管理に反対した。結局、幼保一元化をめぐる対立が引き金となり、麻生首相が2009年5月28日に厚労省分割を見送る判断を下し、分割論は幕を下ろした。

提言で示された3つの分割案

その後、厚労省分割論が表立って議論されることはなかったが、厚労省の職務や国会に提出する法案の数は、他の省庁と比較して突出したものとなっている。前掲した「厚生労働省のあり方について」には、興味深いデータが示されている。

2016年度当初予算における一般会計での一般歳出(国債費と地方交付税交付金を除く歳出合計)に占める厚生労働省所管の歳出は52.4%に達しており、次いで多い国土交通省の10.2%を大きく引き離している(筆者調べ)。2015年通常国会における政務3役(大臣、副大臣、政務官)の国会答弁回数も、厚労省は3584回と、次いで多い外務省の2086回よりはるかに多い。

2014~2016年の3年間の通常国会における提出法案数は、厚労省は27本と、総務省の25本、国交省の24本などよりも多い。その割には、厚労省は、業務量に比して本省定員数が少なく、職員の残業時間は省庁の中で最多であるという。

これを踏まえ、同小委員会は、前掲の「厚生労働省のあり方について」において、2020年以降の我が国社会の構造変化を見据えて、社会保障改革の具体的な方針を検討するにあたって、厚生労働行政の担い手たる厚生労働省のあり方を検討しておく必要がある、と問題提起をした。そして、厚労省が所管する医療や介護などの業務は、地方自治体が担っていることを踏まえて自治体への権限・財源移譲を検討することに加え、厚労省の分割・新省設置や2大臣制を例示して、提言した。

提言「厚生労働省のあり方について」には、より踏み込んだ厚労省の分割案が3つ示されている。案には、現在では内閣府が所管している業務も含まれている。

① 社会保障(年金・医療・介護)、子ども子育て(少子化対策・子育て支援)、国民生活(雇用・再チャレンジ・女性支援)
② 社会保障(医療・介護)、子ども子育て(少子化対策・子育て支援)、国民生活(年金・雇用・再チャレンジ・女性支援)
③ 社会保障(年金・医療・介護)、国民生活(少子化対策・子育て支援・雇用・再チャレンジ・女性支援)

報道によると、同小委員会の提言は、今後自民党内で議論されるようである。また、党内には、厚労省分割論には慎重論が根強くあるという。厚労省の組織再編の議論にかかわった筆者の経験からいうと、分割と統合には正反対となる長所と短所があり、これらをどう整理して、長所を引き出すかがポイントとなろう。

分割の長所は、1人の大臣がより限定された所管に専念して責任を全うできることである。責任を負いきれないほどに広範な所管を担おうにも、責任を全うできないという問題を克服する上では効果的である。ただでさえ、社会保障制度は複雑でかつ専門的な内容を含んでおり、それを1人の大臣では負いきれないならば、複数の大臣でそれを担うことでよりよい行政が可能となろう。

その反面、他の大臣が所管する業務と連携して施策を講じなければならない場合、その調整の難度が高まるという短所がある。連携して行う必要がある施策に誰が第一義的に責任を負うかが不明確だと、複数の大臣が業務を分割して所管すると、責任の空白が起きかねない。

これと正反対なのが、1人の大臣でより広範な所管を担う場合である。同じ大臣の下で、所管する複数の業務を、大臣の命令一下連携して行わせることは容易である。しかし、その大臣が広範な所管業務を的確に把握して責任がとれるかが問題である。

権限と責任をどう配分するか

厚労省は、医療と介護、(高齢者)雇用と年金、(高齢者への)生活保護と年金など、これらの関係を決して分断してはならず有機的な連携が不可欠な業務を抱えている。だから、厚労省は分割しないのがよい、とも見える。その一方で、医療、介護、年金、生活保護、雇用のそれぞれの制度や実務をも的確に理解できていなければ、大臣としての責任は全うできないとなると、1人の大臣でこなしきれないかもしれない。だから、厚労省は分割するのがよい、とも見える。

厚労省を分割するのがよいか否かは、権限と責任をどう配分するか次第である。将来を語る以前に目先の難問に厚労省が直面していた2009年当時と比べて、省内の局間連携はずいぶん進み、課題解決能力も高まっている。その点では、今日、厚労省の将来像を議論する土台はできているといえよう。

関連する業務の有機的な連携を担保し、官の肥大化にならないよう配慮しつつ、どの業務をどの大臣に所管させて、責任を持った行政ができるかが問われる。業務と関連する業界団体、業務の受益者である患者や要介護者や年金受給者や障害者など、そして納税者といったステークホルダーの利害対立の渦の中で、限られた選択肢しか与えられずに調整に追われる現状から、厚労省(の所管する業務)を救い出す手立てが見つけられるかもしれない。

土居 丈朗 :慶應義塾大学 経済学部教授  2016年05月16日

当事者と非当事者 荻上チキ責任編集 α-Synodos vol.196

2016年05月17日 03時02分25秒 | 障害者の自立

1.小峰公子氏インタビュー 福島の美しさを歌いたい——福島に「半当事者」としてかかわって

 福島県出身、音楽ユニット「ZABADAK」で活動されている小峰さんに、「半当事者」だから言えること・言いにくいこと、原発事故に関わるデマや偏見についてお話を伺いました。

 ◇放射線を消す石?

 ――小峰さんは物理学者の菊池誠さんと『いちから聞きたい放射能のほんとう』を出されるなど、放射線のリスクの発信に積極的に取り組んでいますね。ミュージシャンの方には原発反対のひとが多いイメージがあります。

 そうですね。あの、私も原発には反対なんです。知る限りまわりに推進派っていう人はいません。たしかに声高に反原発を叫ぶひとたちは目立ちますし、それはほぼイメージ通りとは思いますが、実は事態を冷静にとらえているひとたちもけっこういます。でもそういう人はあまり声をあげませんし、WEBにわざわざ書きこんだりもしないですね。すごく詳しく原発事故のしくみを説明してくれた方もいて、だれよりもわかりやすい!って感激したのを憶えています。

 でも彼もそういったことはSNSに書いたりはしませんでした。極端な反対派の中には「実は(福島第一原発では)核爆発しているんだから」と言うような人もいます。昨年夏かな、ある打ち上げで、私が尊敬している大先輩が「福島の事故は、ほんとうはチェルノブイリよりもひどい」とおっしゃっていて……頭を抱えました。

 ――それは、ショックですね。

 いわゆる陰謀論のひとびとで…「ほんとうは、核爆発しているのにみんな知らされていない」と言うんです。「小峰さんも(実家が)福島で大変でしょう?」と。

 ――そういうときはどうされるんですか。

 そのときはなにも言いませんでした。肯定も否定もせずに聞いてました。みなさんかなり飲んだあとみたいだったし、これは言ってもだめだな、と思って。あれから第一原発の視察に二度いったので「見てきたけど爆発してなかったですよ」って今なら言えるんですけどね。残念。でもそれもきっかけのひとつになって、シノドスの記事(「福島第一原発3号機は核爆発していたのか?――原発事故のデマや誤解を考える」菊池誠×小峰公子http://synodos.jp/science/15807)を書きました。

とはいえ、はっきり指摘することもあります。福島の小高町(おだか)のコンサートに一緒にいく予定だったメンバーが「実は福島第一原発では作業員が800人も亡くなっている」というデマをSNSでシェアしていたんです。

 小高はご存知の通り、原発がらみで働いているひとが多かった場所です。主催者側もデマをまく側の人間がかかわっているのは嫌でしょうから、これはさすがにまずいなあと思って、メッセージや電話のやりとりをして、これは事故後にすぐに広まったデマのひとつなのだということを話しました。その彼と私に共通のなじみ深い秋田県のU町というところがあるんですけど、「小高はU町より人口が少ない田舎だよ、そこで働くひとが800人いなくなったら内緒にできると思う?」と言ってみたら、やっとリアルにその規模がつかめたようでした。

 「政府や東電が隠している」と聞くととたんに思考停止になってしまうのかもしれませんね。知っている町と比べているうちに、それほどの小さい町、親戚友人の誰かしら働いてる大企業で、もしそんなことが起きたら隠せるはずがない、それはそうだよな、って想像が働いたみたいでした。……つづきはα-Synodos vol.196で!

 2.山本智子 知的障害がある当事者の「思い」を支えるために――「当事者性」に関与する「私たち」のあり方

 知的障害がある人は本当に「自己決定」が難しいのか。彼らの当事者性に私たちはどう関わっているのか。「私たちが思う『当たり前』が、当事者の『意思』を見えなくしてしまう」と山本さんは指摘します。

 ◇素朴な問いとして

 知的障害がある人は自分の生活や人生に関する「自己決定」や「意思」をもつことが難しいのでしょうか。そして、もし、彼らが自分の生活や人生に対して「自己決定」したり「意思」を主張したりすることが難しいと考えるのであれば、私たちは彼らにどう関わっていこうとするのでしょうか。

 かつて、障がい者に対する支援は、「措置」、「指導」、「管理」が中心的な役割だと考えられていました。私は月に数回、スーパーヴァイズや調査でいくつかの障害者支援施設(知的)を訪れていますが、入所施設や生活介護事業所を長く利用している人々はいまだに職員のことを「先生」と呼んでいる場合があり、それを聞くたびに心が痛むことがあります。養護施設や学校からそのまま施設を利用している人も少なくないので、職員に対してつい「先生」と呼んでしまうこともあるのでしょうが、やはり私はそこにある種の力関係が含まれているように感じて苦しくなるのです。

 ひと昔前の施設では、知的障害がある人を自分の人生の主役であり「自己決定」や「意思」が尊重されるひとりの人として捉える視点はまだまだ少なかったように思います。なぜかというと、知的障害がある人を外側からみて、「認知的な機能障害や言語的なコミュニケーションに困難がある人に、果たして自分の意思があり、自分の人生の方向を決定したり主張したりすることが出来るのだろうか」と考えてしまっていたからかもしれません。そのため、知的障害がある人たちへの支援は、誰かが彼らの「代わり」となって彼らの人生を組み立てていくのが当たり前であり、支援する側の責任や役割であると考えられていたのだと思います。

 近年になり障がい者の権利や支援に関して世の中の動きを変えるような法令や指針が次々とだされるようになり、障がいがある人が自分たちの意思によって自らの人生を決定する権利を有する存在として捉えられるようになりました。しかし、制度的な変遷はあったものの、そこで、支援する人々の意識や利用者の生活が大きく変わったのかといえば、実際はそうではありません。とくに知的障害者を支援する場においてはどのように彼らの「自己決定」や「意思」を尊重すればよいのかと戸惑っているのが現状なのです。……つづきはα-Synodos vol.196で!

 3.李洪章 「研究者の言葉」から「当事者の言葉」へ

 研究者自身の当事者意識・ポジショナリティをめぐる葛藤。在日朝鮮人の調査研究を通して、「いかにも『当事者の言葉』であるように見せかけてきた」当事者研究のあり方を問います。

 ◇動機としての当事者意識

 私は、現代を生きる在日朝鮮人が、民族や国家をめぐっていかなる経験をしているのかを、その語りに基づいて記述することを目指して研究をしています。その成果を、2016年3月に上梓した『在日朝鮮人という民族経験―個人に立脚した共同性の再考へ』(生活書院)にまとめましたが、そこでは、在日朝鮮人と日本人の間に生まれたいわゆる「ダブル」や、朝鮮籍在日朝鮮人、日本人との「国際結婚」などを事例として取り上げました。

 私がこのような研究に取り組むようになったのは、やはり当事者意識によるものでした。在日朝鮮人社会に身を置きながら、コミュニティの必要性や重要性を強く感じながらも、閉鎖的な共同性がゆえに排除・周縁化される人々がいる状況に忸怩たる思いがあったからです。そこで私は、在日朝鮮人個々人の経験を有機的に繋ぎうる、開かれた共同性のあり様を模索するようになりました。

 しかし、私と配偶者はともに韓国籍を保有しており、また、非「ダブル」であることを自認しています。したがって、私が研究で取り上げてきた人々は、私とは異なる立場にあります。私は、このような立場にある自分が、在日朝鮮人社会の主流を構成し、血統主義的風潮のもとで「ダブル」や「国際結婚」した人々を、極端に言えば「民族の裏切り者」として排除・周縁化してきた側の、「正統」な在日朝鮮人であると自覚しています。インフォーマントと自分自身を「在日朝鮮人」や「当事者」として同じカテゴリーに括ってしまうことで、そうした在日朝鮮人社会内部に潜む暴力性を隠蔽してしまうことには、はじめから抵抗感がありました。

 それゆえ、研究の動機は確かに当事者意識に起因したものではありましたが、自身の研究を当事者研究として位置づけたことは、一度たりともありませんでした。しかし私は、調査を進めていくなかで、当事者意識に基づいた考えを被調査者にぶつけてしまうことで、「被調査者の経験を記述する」という調査の目的をかなえられない状況に自らを追い込むことになりました。……つづきはα-Synodos vol.196で!

 4.熊谷智博 他人同士の争いに参加する非当事者の心理

 自分は得しないのになぜ他人の争い事に参加するのか?「自分も被害者だ」という気持ちから他人の争いに加わる心理について、実験を通して解説していただきました。

 「関係の無い奴は引っ込んでいろ」「他人の問題に口を出すな」。こういった発言は人々が争いごとの最中によく聞きます。争いごとの当事者達は、一般的に無関係の人=非当事者からの介入を嫌います。それは非当事者による介入が紛争場面での力関係を変化させるので、それが自分に有利に働くなら良いのですが、反対に自分にとって不利に働くことを危惧し、それを予防する為だと考えられます。

 一方、非当事者にとって他人の争いに介入することは非当事者自身も被害を受けるというリスクを生みます。また介入による争いの解決は、多くの場合は当事者にとっての利益(例えば問題解決)にはなっても、非当事者個人の利益にはなりにくいと考えられます。従って他人の争いに非当事者が参加することは一見非合理的な行動であると言えます。それにも拘わらず非当事者はなぜ他人の争いに介入するのでしょうか。本稿では集団成員性の観点から、非当事者が他人の争いに攻撃的に参加する点を検証した実験(熊谷, 2013)を紹介し、その心理過程を解説します。

 ◇「ずるは許さない」or「自分の被害者だ」

 被害を受けていないはずの非当事者が他人同士の争いへの参加する理由としては2つの動機が考えられます。1つは「制裁」であり、これは個人的被害とは無関係に、他人の行為に対する価値判断によってその者への否定的評価が形成され、それに対する怒りが非当事者に生じ、正義や公正の回復を動機づけられた結果(大渕, 2011)、他人の争い事に介入するというものです。

 例えば詐欺によって他人の財産をだまし取った犯罪者に対して、「他人を騙してはいけない」という信念を持っている人は、違反者に対して怒りを覚えます。そしてその怒りから違反者、つまり詐欺の犯人に対し罰を与えたいと考えます。もし犯人に対して罰が与えられた場合には、違反された自分の信念が正しいものとして見なされたと解釈出来るし、罰によって損なわれた信念の価値も回復出来たと考えるでしょう。その結果、非当事者は高い心理的満足を得ることができます。言い換えると「ずるは許さない」という気持ちから他人の争い事に参加しているわけです。

 もう1つは、「報復」です。Batson et al.(2007)によれば、公正違反に対する人々の怒りには道徳的憤慨以外にも個人的怒りと共感的怒りがあります。このうち共感的怒りは、幸福を気にかけている相手が不公正な扱いを受けるのを知覚した際に生じると考えられています。個人的に好意を持っている人物に対して不公正な扱いをした者に対して人々は敵意を抱き、その敵意が加害者に対する非当事者の攻撃行動を動機づけることが考えられます。

 例えば自分の恋人や家族といった身近で親密な関係にある人に対しては、多くの人は基本的にその人が幸せになることを望んでいるでしょう。しかしながらその親密な人が詐欺被害に遭うなど幸せが損なわれた状態にあると知ると、あたかも自分自身が傷つけられたように感じ、その犯人に対しては強い怒りとその仕返しが動機付けられると思います。……つづきはα-Synodos vol.196で!

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