時には車いすごと転倒する。しかし、その場合でも選手たちは自力で起き上がり、再び猛スピードでプレーに戻る。同じバスケットボールでも、車いすバスケットボールでは競技として違ったスキルが必要になる。
2016年2月、大阪で「国際親善女子車椅子バスケットボール大阪大会」が開かれていた。女子車いすバスケットボールの大会の中では唯一、日本に海外チームを招く貴重な大会だ。大会にはドイツ、イギリス、オーストラリアなど世界トップレベルの車いすバスケットボールチームが集結し、総当たり戦で順位を争う。
軽快に車いすを操りながら、巧みにボールをさばく、世界トップクラスの妙技。その世界の強豪たちと熱戦を繰り広げていた日本女子代表チーム12人の中に、土田はいた。土田の持ち味は、相手のディフェンスを翻弄しながら投じる的確なシュートである。
オーストラリアとの3位決定戦。土田は試合の流れを変えるために、第3クオーター、残り時間20秒でコートに入った。
土田に課せられていたのは、残り1プレーで点数をあげること。しかし、残念ながらそのシュートは、リングに吸い込まれることはなかった。
その後もチームは奮闘するが流れは変わらず、53対51とわずか1ゴール差で敗れた。
「自分に任せられた、1分の1の失敗できないオフェンスのチャンスでしたが、その責任を全うすることができませんでした。その1本を決めるべく練習をしてきたのに、この時ほど自分の無力さを感じたことはありませんでした」
苦い思い出を振り返りながら、土田は言った。
「次は必ず、成功させます。私、負けず嫌いなんです」
土田は約4年前から、コンサルティング会社のシグマクシスに所属。選手としてプレーしているのは車いすバスケットボールチームの「東京ファイターズB.C」だ。男性選手の中に入り込んで、日々トレーニングに励む。
「シグマクシスには私を含めて、現在4人の障害者アスリートが所属しています。アスリートとしてのプレーとパフォーマンスで会社のブランドに貢献するというのが私のミッションです」
仕事には結果が求められる。アスリートの場合はより明白で、競技の成績、全日本などへの選出実績、パラリンピックなどの大きな大会への出場実績など、見える形で表れる。
「シグマクシスで競技に専念できる環境になり、感謝しています。結果を残さないと、会社に所属させてもらっている意味はありません。格好良いことを言うのは簡単ですが、すべては結果だと思います。私の場合は、車いすバスケットボールで日本代表に入り、世界と戦っている姿を見せることです」
土田は以前、ある電機メーカーで働いていた。平日はフルタイムで働き、土日を利用して練習をしていたが、必然的に練習時間が限られる。
「世界を目指すということになると、やはり練習量が足りませんでした。正社員で働いていたので経済的な安定性はありましたが、覚悟を決めて、夢を追いかける決断をしました」
ハンディを背負いながらも夢を追いかけ、日々の鍛錬に向かう土田。土田の情熱の原動力とビジョンを追う。
「3歳の頃だったと思います。とにかく走り回るのが好きで、家の中で走っていて、その勢いにのったまま外に出て、車にひかれたことがあります(笑)。もちろん、即、入院です。骨折を含めかなり重症だったそうです。まだ、小さかったため記憶はありません」
そんなあり余る元気さを心配したのか、土田の父は、とても厳格だった。
「厳しい父でした。テレビの主導権は子供たちにはもちろんありません。夜8時になると決まって、父の好きな人気時代劇ドラマを見ながら育ちました。その影響だと思いますが、家の中でチャンバラをするのが大好きで、2歳年上の物静かだった姉を巻き込んで家の中で遊んでいました。本棚からジャンプをしたり、その拍子に蛍光灯を割ってケガをしたりと、大人しい女の子ではありませんでした」
バドミントンやバトン、父とのキャッチボールなど、スポーツや遊びには積極的だった。しかし、中学に入学しても運動部には入らなかった。
「父が決めた門限が厳しかったためです(笑)。少しでも帰りが遅いとものすごく怒るんです。とても怖かったので、部活に入る気になりませんでした」
その代わり、土田が家に帰って夢中になっていたのが腹筋運動だった。
「『今日は100回やった』と回数をただ増やすことを楽しんでいました」
片道1時間半の自転車通学とジョギングで鍛えられた
腹筋が趣味の女子中学生。高校生になると、今度は片道1時間半の自転車通学を始めた。
「バスで酔うのが嫌だったので、毎日、山を越える自転車通学をしていました。自転車は、通称ママチャリと言われるカゴ付きのもの。最初の頃は足がパンパンになっていましたが、通学途中で前を行く自転車に乗っている人たちを追い越すことに喜びを感じていました。
最初のうちは1時間半もかかっていた道のりが、3年生になると40分にまで短縮できたんです。通学が部活みたいなものでした(笑)」
チャンバラでも、自転車通学でも、誰よりも強い、速い自分でいたいと思っていた。土田は、自称・負けず嫌いだと言う。
「高校生になっても門限がありました。18時30分頃に家に電話をしたら『早く帰ってこい!』とめちゃくちゃ怒られていました。まして、そんな距離のある学校に通っていたのですから、運動部に入れるはずがありません」
門限時間を超えて外出することが許されていなかった土田は、家の近所で独りジョギングに取り組み始めた。
「ジョギングなら、厳しい父も許してくれていました。結果として、腹筋や長距離自転車通学、ジョギングで基礎体力ができたのだと思います」
サッカー部への入部寸前に暗転
土田は将来の進路として体のメンテナンスをするトレーナーになることを目指す。高校卒業後は親元を離れ、体育大学に進学した。
「毎日が体育だったら楽しいなぁと思うほど、体を動かすのが好きでした。会社に勤めて事務をするという漠然とした未来像よりも、より具体的な仕事をしたいと考えるようになっていた頃でした。選手としての経験値のない自分に、何ができるのだろうかと考えていました」
大学2年生になった時、友人に誘われてサッカー部に入部することを決めた。そこには、ほのかな自信と楽しみがあった。
「腹筋や自転車通学、ジョギングなど基礎は作ってありましたし、うまくなるための努力は惜しまないタイプでしたから、競技の経験はありませんでしたが躊躇しませんでした。実家を離れていましたから、変に父を気にする必要もありませんし、経験のないところに、あえて飛び込むのが楽しかったんです。思い立ったが吉日という勢いで、練習の見学に行きました」
サッカー部の練習を見学しにグラウンドを訪れた。しかし、見学をしている最中に突然の腰痛に襲われた。
立っていられなくなるほどの痛みは、土田にとって初めての経験だった。
サッカー部に入部する直前に、思いもつかなかった病魔が突然、発症したのだ。
あなたは生まれつき股関節が悪い。これから先、どんどん悪くなって長時間立っていられなくなったり、歩けなくなったり、手術をしなければならなくなるだろう──。土田はこのように病院で告げられた。
「昨日まで普通に運動ができていたのに、歩けなくなったわけでもなく、痛みが引けば、走ることだってできると思っていました。しかし、走る運動はできない、しかも将来的には歩けなくなるとも言われたんです。全く現実味がありませんでした」
突然の宣告。サッカー部への入部は中止せざる負えなかった。
それも残念ではあったが、自分の体の異変を素直に受け止めることの方が難しかった。
「腰が痛いのは、普通の腰痛くらいだろう。気にしないでおこうと思っていたのですが……」
突然の発症だったが、実は先天性のものだった。時限爆弾が爆発したようだった。
以降、土田の下肢が良くなる兆しはなかった。ゆっくりと、だが着実に病状は進行していっていた。
「徐々にできることが減っていき、やりたいことをどんどん諦めなければならなくなっていきました。なぜなのだろう、こういうものなのだろうかと、追いつめられていくのがつらかったですね。
トレーナーになるために、3年生・4年生の時に実技が伴う資格を取得しなければなりませんでした。しかし、その取得も諦めなければならなかったんです」
このようにしてトレーナーになる夢も失った。
「一緒にトレーナーの夢を追いかけていた友達の中で、自分だけが脱落していくことはやはり耐え難く、大学を辞めようと考えました。しかし、卒業だけはしてほしいと両親からも言われて、踏みとどまりました。そしてOLになろうと気持ちを切り替えたんです」
「車いすからシュートを打ってごらん」
そんなある日、体育館を訪れた。すると車いすバスケットボールの選手に「ここからシュートを打ってごらん」と声をかけられた。
「改めて、車いすに座らせてもらい、実際にシュートを打たせてもらったりしたのですが、全くリングまでボールは届きませんでした。立ったままならゴール下のシュートは簡単にリングに届くのに」
足腰のバネを使えず、通常よりも低い位置からのシュートを求められる車いすバスケットボール。それまでの感覚が全く通用しなかった。
この体験が、土田の負けず嫌いの気持ちに火をつける。
「こんなにもゴールが遠いのか、こんなはずじゃないと。まだ、車いすに乗るほど悪化していなかった私は、健常者の意識だったんですね。だから、なおのことシュートが届かない自分に悔しさを感じていました」
これが土田の車いすバスケットボール選手としてのスタートラインだった。
土田真由美(つちだ・まゆみ)
車いすバスケットボール選手。1977年生まれ。東京ファイターズ、株式会社シグマクシス所属。幼いころからスポーツが好きで、高校卒業後はスポーツトレーナーを志し体育大学に進学。大学2年生の時に突然腰痛に襲われ、その後次第に日常生活にも支障を来すまでになり、先天性の障がいと診断される。一般企業に就職し競技を続ける中、2009年の選手登録を機に本格的に競技を開始。同年、日本代表の候補合宿や強化合宿に選出される。
2010年、イギリスで行われた「IWBF世界選手権大会」において自身初となる日本代表に選出される。2013年第24回全日本女子車椅子バスケットボール選手権大会ではチームが優勝、MVPに選ばれる。
08.23.2017 CAMPANELLA [カンパネラ]