▼〈もう二度と 相模原殺傷事件1年 娘の死、向き合えぬ〉 7月22日、毎日新聞朝刊(筆者=国本愛)
「私は意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております」
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件から1年。元職員の植松聖被告(27)はテレビの取材に対して冒頭の文言を綴った手紙を寄せ、障害者への差別と偏見を露骨にした。被害者やその家族への謝罪の言葉は無かった。逮捕時の供述は「障害者は生きていても仕方がない」。変わらぬ主張に狂気と心の歪みが見て取れる。そしてまた、事件では被害者の匿名報道が注目され、被害者が偏見と恥辱に苦しんでいることが浮き彫りとなった。
そんな折り、目にしたのは、毎日新聞・国本愛記者の「娘の死 向き合えぬ」と題した5段組みの記事だった。35歳の長女を奪われた神奈川県在住の62歳の父親の告白で、長女が旅先で父親のカメラに向かって微笑む写真、パジャマ姿のまま朝のコーヒーを飲む日常風景も掲載している。そこには彼女の、生きた笑顔があった。
長女は身長約140センチ、体重35キロと小柄で、父親のことを「ちち」と呼んだという。家族は両親と5歳年上の長男、2歳年下の次女。8年ほど前に母親にがんが見つかり、母親の入院と治療のため、長女は2012年7月にやまゆり園に入所。しかしその翌月に母親は他界した。そして今春、父親はがんと診断されたが、「もうすぐいくよ」と毎朝仏壇に語りかけ、現在、延命治療を拒否している。
仕事一筋だった父親は50歳前に早期退職してから、長女と1日中、一緒に過ごした。娘はソファに腰掛ける父親の足や肩をトントン叩き、抱っこをせがんだという。ときにすねたり、わがままだったり。甘えん坊で、いくら手がかかろうとも、娘は娘だ。可愛くて仕方なかった。
インタビューには、被告に対する父親の憎悪の言葉はなぜか出てこない。私も多くの事件取材をしてきたが、遺族の感情は悲しみ、怒り、不安がないまぜのまま、日々押し寄せては消えていく。その繰り返しのなか、時間がたつにつれて残るのは、亡き人への果てしない愛情だ。事件という、ありえない「非日常」に突然放り出されたことが、在りし日の幸せな「日常」の記憶を呼び覚ましているのかもしれない。
洗面所で歯磨きをしていると後ろからじゃれて抱きついてきた長女。トイレやリビングでの様子。自宅でともに過ごした残像があたかもそこにいるように蘇る。父親が取材を通じて訴えたかったことはたったひとつ。
「娘がこんなに可愛かったことを知ってほしい」
長女の思い出を語る時は、時おり笑顔を見せたという。
「最後に抱っこしてあげられなかった。早く会って、抱っこしてあげたいなあ」
ぽつりと漏らす父親の言葉に触れ、私は、不覚にも嗚咽してしまった。
そこには過酷な運命に巻き込まれながらも懸命に生きている市井の人の姿がある。ひとりで、もしくは家族で立ち向かったとしても抗えないこともあるだろう。それは私たちとて同じだ。
それを知る上でも、メディアが被害者、また家族の声を伝える意義は十分にある。そしてさらに、被告のような歪な思想の持ち主を生んではならない、と強く思うのだ。
人は人の悲しみに寄り沿う時にこそ共感が生まれるという。私は、この記事に心から感謝したい。
2017年08月15日 文春オンライン