枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

節分、師走・大潮

2019年02月03日 | Weblog

 この日になると、何故かおにたのぼうしを思い出す。いわさきちひろさんの絵が、何とも憂いのある淋しさをかもし、鬼なのに胸を打つ。また、斎藤隆介作・滝平次郎挿絵の、ソメ子と鬼には、鬼の悲喜が描かれていて、アイヌ同様、先住民族を追いやった詫びに頭を垂れる。沖縄も、そういった偏見が根強い。

 某新聞にも書かれていたが、沖縄県民だけではなく、日本に棲む者全てが、考え取り組む必要性がある。戦争の際の、最初の犠牲を強いておきながら、今尚理不尽な屁理屈で抑えようとしている。現政権には、慈悲の心も、相手を思い遣り、原点に還る気持ちも見当らない。人間の根本の資質が失われているのだ。

 オリンピックどころではない。福島の汚染状況にも、今以て改善はみられず、野放しの増税を繰り返し、改憲に意欲を燃やす。国民は、まるで議員だけであるかのような、勝手な政策ばかりを、多数決でたてていくが、庶民の下々の生き方には無頓着で、生活の糧さえ不安に陥るばかりだ。万博も何等無意味に。

 働けなくったら、収入が無くなれば、生きてはいけない行政にも期待はしない。でも説くと考えてみるに、自分のことでない限り、どうでもいい問題なのだ。口先や言葉だけで、親身になってまではやらない。そんなことをしていたら、財政は底を突き、議員ばかりが増える。矛盾した堂々巡りを繰り返すばかり。

 曇っていると、空を見ていたら、音もなく落ちてき始めた。洗濯物は、最低限の室内干しにしているが、天気は崩れ易いようだ。耳の痒さでも分かり、暫くすると降って来る。旧正月も近いので、まとめての休日にしている。最近は、業務のきつさに勤務時間を減らしているが、身体が元になるのに日数がかかるのだ。

 何年も遣っていると、コツが判って来るし、行事の進め方にも支障がないように気をつける。それでも、若い者等は肝心の事が無頓着で、手落ちが多い。出来ているようでも見落としがあって、出来なかったの、なんたらと文句が出る。自分で気づかなくては、と暗澹たる想いになる。見た目だけを気にし、中身が無。

 相手は認知症状があるから、何をやっても構わない、という考えでは、上っ面だけのことに終わる。それくらいなら何もしない方がいいのだ。相手に寄り添い、心を和らげる仕事には資格はない。施設に入れているから、ではなく、自分の親が住む場所なのを忘れないで。付け届けは要りません。会いに来てください。

 長崎茂木。南側のと一緒に植えたのが、中々育たなくて・・・剪定をしてみたら花芽が付きだす。

 

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