今回は、昨日テレビで放映していた「ノートルダムの鐘」です。
フランスの文豪ビクトル・ユーゴーの名作小説を原作としたディズニーのミュージカルアニメ。醜い容姿のせいでノートルダム大聖堂の鐘楼に閉じ込められた心優しい青年カジモドと、美しい踊り子エスメラルダの触れ合いを、「美女と野獣」のスタッフが再結集して描いた。
監督はディズニーアニメ屈指の名作「美女と野獣」を手がけたゲイリー・トゥルースデイルとカーク・ワイズ、製作も同じく「美女と野獣」のドン・ハーン。音楽も「美女と野獣」のほか「リトル・マーメイド」「アラジン」などを手がけているアラン・メンケンが担当した。
<ストーリー>
15世紀末のパリ。ノートルダム大聖堂の鐘楼では、鐘つき男カジモドが孤独に暮らしていた。町の権力者で判事のフロローに育てられたカジモドは、鐘楼の外へ出ることを許されず、いつも塔の上から街を眺め、自由を夢見ていた。しかしある年の「道化の祭り」の日、カジモドは仲良しのガーゴイルの石像たちの応援を得て、生まれて初めて塔を抜け出す。そこで、美しい踊り子のエスメラルダと運命的な出会いを果たしたカジモドだったが、その醜い容姿のために人々から虐げられてしまう。エスメラルダはカジモドをかばうが、その様子を見たフロローがエスメラルダを逮捕するよう仕向ける。大聖堂に逃げ込んだエスメラルダに初めての愛を感じたカジモドは彼女を逃がすが……。
1996年公開の映画だそうだが、これまでテレビで放映していたのかどうかわからないが、私はこのタイトルの映画があることさえ知らなかった。
たぶん、内容の過激さ(どストレートに差別を取り扱っている)から、なかなか放送できなかったのだろうと思うのだが、とにかく主人公カジモドは、その醜い容姿により、生まれた時から差別を受ける。
また、エスメラルダ(ジプシー)についても同様で、まるであの歌劇「カルメン」を見ているような感じだった。
全体的に「美女と野獣」みたいな流れではあるが、何となく「レ・ミゼラブル」に似ているなあ、と思っていたら、原作はやっぱりビクトル・ユーゴーでした。
当時のフランスが、いかにヒドい国だったか、ということなんだろうと思う。
物語は、最後主人公がヒロインと結ばれるわけではないので、いわゆるハッピーエンドとは違うような気もするが、いちおう勧善懲悪の形にはなっている。
ただ、最後にエスメラルダと恋仲となるフィーバスであるが、原作では「颯爽とした美男で婚約者がいるが、エスメラルダにも恋の触手を伸ばす女癖の悪い人物」となっていた。
こんな男をヒーローにするわけにはいかないだろうから、映画では「悪に立ち向かう正義の男」みたいに描かれており、その対比として、原作では「司教補佐」であるフロローも、聖職者にするわけにはいかなかったのか、悪事を厭わない判事に変えられている。
まあ、普通にいい話ではある。
とは言え、いつも感動的な曲数々で知られるディズニーのアニメではあるが、この映画については、知っている曲はなかった。
ということで、名作と言えるかどうかは微妙だけど、特に違和感もなかったので、評価は「B」にしておきます。
さて・・・
原題は、知る人ぞ知る「ノートルダムのせむし男」であり、これがいつの間にか「ノートルダムの鐘」に替わっていた。
もちろん「せむし男」というのが、いわゆる「差別語」であるというのが理由だろうが、こういう「言い換え」によって、原題を見た人が「これって、どういう意味?」となり、何を描こうとしているのかわからなくなるわけだ。
また、ストーリーにも書いてある「カジモド」についても、その意味するところが「不完全」であるということは一切書いていない。(劇中では触れているが・・・)
たぶん、今の若い人に「せむし、ってどういう意味か知ってる?」と聞いても、ほとんどの人はいらないだろうと思うのだが、こういう形で差別がなくなると思っているとしたら、完全に方向性が間違えているとしか思えず、一方で解同みたいに「差別がなくなると困る」連中もいるのだから、日本における差別というのは、見た目で判断(差別)する白人たちとはちょっと違うイメージがある。
フランスの文豪ビクトル・ユーゴーの名作小説を原作としたディズニーのミュージカルアニメ。醜い容姿のせいでノートルダム大聖堂の鐘楼に閉じ込められた心優しい青年カジモドと、美しい踊り子エスメラルダの触れ合いを、「美女と野獣」のスタッフが再結集して描いた。
監督はディズニーアニメ屈指の名作「美女と野獣」を手がけたゲイリー・トゥルースデイルとカーク・ワイズ、製作も同じく「美女と野獣」のドン・ハーン。音楽も「美女と野獣」のほか「リトル・マーメイド」「アラジン」などを手がけているアラン・メンケンが担当した。
<ストーリー>
15世紀末のパリ。ノートルダム大聖堂の鐘楼では、鐘つき男カジモドが孤独に暮らしていた。町の権力者で判事のフロローに育てられたカジモドは、鐘楼の外へ出ることを許されず、いつも塔の上から街を眺め、自由を夢見ていた。しかしある年の「道化の祭り」の日、カジモドは仲良しのガーゴイルの石像たちの応援を得て、生まれて初めて塔を抜け出す。そこで、美しい踊り子のエスメラルダと運命的な出会いを果たしたカジモドだったが、その醜い容姿のために人々から虐げられてしまう。エスメラルダはカジモドをかばうが、その様子を見たフロローがエスメラルダを逮捕するよう仕向ける。大聖堂に逃げ込んだエスメラルダに初めての愛を感じたカジモドは彼女を逃がすが……。
1996年公開の映画だそうだが、これまでテレビで放映していたのかどうかわからないが、私はこのタイトルの映画があることさえ知らなかった。
たぶん、内容の過激さ(どストレートに差別を取り扱っている)から、なかなか放送できなかったのだろうと思うのだが、とにかく主人公カジモドは、その醜い容姿により、生まれた時から差別を受ける。
また、エスメラルダ(ジプシー)についても同様で、まるであの歌劇「カルメン」を見ているような感じだった。
全体的に「美女と野獣」みたいな流れではあるが、何となく「レ・ミゼラブル」に似ているなあ、と思っていたら、原作はやっぱりビクトル・ユーゴーでした。
当時のフランスが、いかにヒドい国だったか、ということなんだろうと思う。
物語は、最後主人公がヒロインと結ばれるわけではないので、いわゆるハッピーエンドとは違うような気もするが、いちおう勧善懲悪の形にはなっている。
ただ、最後にエスメラルダと恋仲となるフィーバスであるが、原作では「颯爽とした美男で婚約者がいるが、エスメラルダにも恋の触手を伸ばす女癖の悪い人物」となっていた。
こんな男をヒーローにするわけにはいかないだろうから、映画では「悪に立ち向かう正義の男」みたいに描かれており、その対比として、原作では「司教補佐」であるフロローも、聖職者にするわけにはいかなかったのか、悪事を厭わない判事に変えられている。
まあ、普通にいい話ではある。
とは言え、いつも感動的な曲数々で知られるディズニーのアニメではあるが、この映画については、知っている曲はなかった。
ということで、名作と言えるかどうかは微妙だけど、特に違和感もなかったので、評価は「B」にしておきます。
さて・・・
原題は、知る人ぞ知る「ノートルダムのせむし男」であり、これがいつの間にか「ノートルダムの鐘」に替わっていた。
もちろん「せむし男」というのが、いわゆる「差別語」であるというのが理由だろうが、こういう「言い換え」によって、原題を見た人が「これって、どういう意味?」となり、何を描こうとしているのかわからなくなるわけだ。
また、ストーリーにも書いてある「カジモド」についても、その意味するところが「不完全」であるということは一切書いていない。(劇中では触れているが・・・)
たぶん、今の若い人に「せむし、ってどういう意味か知ってる?」と聞いても、ほとんどの人はいらないだろうと思うのだが、こういう形で差別がなくなると思っているとしたら、完全に方向性が間違えているとしか思えず、一方で解同みたいに「差別がなくなると困る」連中もいるのだから、日本における差別というのは、見た目で判断(差別)する白人たちとはちょっと違うイメージがある。
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