昨日の天声人語は(も?)ヒドかった。
http://habutemushi.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/2012930.html
<天声人語2012.9.30>
無人島のために戦争なんて、とつぶやける国がいい。隣国の無法に呆(あき)れ、国境の荒波にもまれる海保の精鋭たちに低頭しつつ、小欄、間違っても煽(あお)る側には回るまいと思う。立ち止まらせる9月の言葉から▼竹島は日本領と発言したら、韓国紙に極右作家と書かれた岩井志麻子さん(47)。韓国人の夫は愛犬を独島(トクト)と呼び、妻は竹島と呼ぶ。「痴話げんかはするけど本気ではやらない。夫婦関係も隣国との関係も、そういう約束の上で成立している」▼「日本だけが素晴らしいという考えは、思い上がった自国愛にすぎない。ただの排外主義。愛国とは最も遠いものです」。新右翼の一水会顧問、鈴木邦男さん(69)だ▼「福島で失われようとしている国力の問題は、その価値において領土問題の比ではない」と作家の池澤夏樹さん。「領土は隣国との意地のゲームだが、福島は現実。住む土地を追われた人々がいる」▼節電で猛暑を乗り切った大阪府豊中市の上田照子さん(70)が語る。「今ある電気で間に合う生活にしていく。夏も冬も、電気を大切にする意識はもう変わらないと思う」▼パラリンピックの旗手を務めた全盲の木村敬一さん(22)が、100メートル平泳ぎで銀メダルに輝いた。「世界にもっと飛び出したい。行った国や知り合った人が多いほど、僕の地球は広がる」▼国民感情を煽る言動、村上春樹さん言うところの「安酒の酔い」に溺れず、ここは心に一拍おいて国柄を示したい。台風が恨めしいが、今宵(こよい)は中秋の名月である。
二人執筆者がいるうちのどちらが書いたのかはわからないけど、こんなヤツらが大新聞の看板コラムを担当しているのかと思うと腹が立つと同時に、「どうして、こんなにバカなの?」と思ってしまう。
月末恒例ということで、人の言葉を取り上げて掲載するだけだが、今回は特にヒドい。
まず冒頭。
『無人島のために戦争なんて、とつぶやける国がいい』
無人島だと、何もしなくていいの?
わが国の領土であると知っていながら、それが未開国家の侵略に遭おうとしているというのに、それを黙って見ていろ、というの?
そう簡単に戦争になんかなるはずがない。
シナだって、アメリカもいる手前、不用意に攻めてくるはずもないだろう。
だから、日本が毅然とした対応をとればいいだけ。
それを放ったらかしにするから、相手が付け上がり、結果として小競り合いに発展する。
尖閣諸島も竹島もシナやあの国に差し上げたいなら、はっきりそう書けばいい。
(まあ主筆の若宮啓文はそうしたけど・・・)
次の岩井志麻子なんかどうでもいい。
次の鈴木邦男氏の言葉も、一般的な言葉としては、別におかしくも何ともない。
ただ、「日本だけがすばらしい」と思っている人間はあまりいないと思うが、それが特亜3国との比較で言えば、他が下衆すぎるので、この言葉は正しい、ということになってしまう。
それを、あたかも「愛国無罪」であるシナやあの国と比較して、「日本だって一緒じゃないか」という意味で使おうとしているのは許せない。
次の池澤夏樹の言葉が一番ヒドい。
まずは最初の発言。
『福島で失われようとしている国力の問題は、その価値において領土問題の比ではない』
原発事故と領土問題と比較すること自体意味がない。
両方ともに「大きな問題」であり、どっちが大きいとか小さいとかいう問題ではない。
そして、もう一つの発言。
『領土は隣国との意地のゲームだが、福島は現実。住む土地を追われた人々がいる』
この作家はバカなのか?
領土問題が「意地のゲーム」?
「福島は現実問題」だけど、「領土問題は架空の出来事」とでも言うつもりか?
領土問題などは、まさに「今そこにある危機」だろう。
近辺で漁業をしている人たちにとっても大きな問題だ。
竹島では、実際に殺された人たちだっているというのに・・・
こういう感覚でいる人間が、「文明や日本について詳しい」などと言われていると思うと、大江健三郎みたいなヤツなのかな、という気がする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E6%BE%A4%E5%A4%8F%E6%A8%B9
そして天声人語子も、この言葉に賛同している一人ということだろう。
もちろん、「アンタも、領土問題なんかどうでもいいと思っているのか?」と聞かれたら、「いや、これは池澤夏樹さんの言葉ですから」と逃げるに違いない。
さらに「池澤夏樹の言葉に賛同しているからこそ、それを取り上げたんじゃないのか?」と聞かれると、「多様な方々の言葉を取り上げているわけで、特定の人の言葉を取り上げたのではない」と逃げるかも知れない。
しかし、これまでの取り上げ方(ただ取り上げるだけで、いいとも悪いとも一切言わないパターン)からすると、同じ考えであることは間違いない。
朝日新聞がいかに領土問題を矮小化しようとしているのか、その代表格である天声人語の中で堂々と宣言していることで、彼らの正体が垣間見えてくる。
そして最後も同じく作家である村上春樹の言葉。
これは『領土を巡る熱狂は「安酒の酔いに似ている」』と題した彼のエッセイのことだ。
領土問題を、まるで「酔っ払いのケンカ」みたいな言い方をしている時点で、「読むまでもない」という気はするのだが、一応読んでみた。
ただ、朝日新聞に寄稿したという彼のエッセイは、実はweb上では全文を読めないので、全文を掲載したブログから引用させていただいた。
<村上春樹エッセイ 全文>
尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。
この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。
僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。
たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪れてくれたものだ。彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。
このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。
今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。
国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。
そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。
僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。
最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。
安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。
これを読むと、さすがに作家やミュージシャンというのは「脳内お花畑」の人が多いようで、大江健三郎ほど「売国的」ではないものの、随所にノー天気なところが現れている。
彼が考えている「東アジア文化圏」というのが、どういうものかはわからない。
しかし、『そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている』というのが、日本には言えても、シナやあの国に対しては、まったく当てはまらない。
こういう事実を知っていて言っているのか、それとも見て見ぬフリをしているのか。
少なくとも、シナにおいては、そんな自由などあるはずがない、ということくらい、文化人であれば知っていて当然だろうに。
彼が言う通り、『文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている』とすれば、それはほとんど不可能に近い、ということも、併せて知っておくべきだろう。
だいたい、彼が言うところの「地道な達成」を大きく破壊しようとしているのは、いったいどこの誰だと思っているのだろう。
彼のエッセイの中では、それには触れられていない。
つまり、「シナもあの国も、そして日本も・・・」というニュアンスでとられてしまうわけだ。
あと「実務的な解決」とは、いったい何を指しているのだろう。
そもそもシナなんて、実務的に解決しようなんて考えてもいないし、「実務的に解決されると困る」からこそ、強引な理屈と行動で周辺諸国に迷惑をかけているのではないのか。
さらに「冷静に検証する」というのも、意味がわからない。
冷静もくそも、シナなど「検証する」つもりもまったくないというのに・・・
それに『実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ』だって?
もしかして、自分のことを指しているの?
実際に尖閣諸島や竹島で漁ができない人たちのことを考えたことがあるのか?
もしも、この人たちのことをちょっとでも考えることができたなら、こんなバカな言葉が出てくるはずがない。
どうして、ここまで自己中心的になれるのか不思議でならない。
自分たちさえ良ければそれでいいと言うつもりなのか?
もちろん、そうは思いたくない。
しかし、もしそうでないとしたら、村上春樹も相当頭がイカれしているとしか思えないではないか。
最後の方の『そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたい』なんて、もはや失笑しかおきない。
「報復」って何だよ。
相手が挑発してきている、というのに、これを受けて立たないで、ただ「なすがまま」にされているのが今の日本だ。
必要なのは、「毅然とした対応」であって、冷静な対応なんかではない。
これを「報復」と言おうが、どう言おうが彼の勝手だけど、何もしないことほどバカな対応はない。
結局のところ、彼のような「脳内お花畑」の人たちは、「話し合えばわかってもらえる」とか「信じれば(あるいは憲法に記載すれば)平和になる」と簡単に言うけれど、実際には「何もしない」人たちであって、それこそ現場の第一線に立っている自衛隊や海上保安庁、あるいは漁師の人たちの意見など聞いたこともないのだろう。
自分たちの国を自分たちで守らないどころか、相手から奪われようとしているのに、何もしないどころか、むしろ相手に譲ろうとさえしている。
しかも、念仏みたいにただ「冷静に、冷静に」と唱えているだけ。
こんな連中を「知識人」とか「文化人」とか「有識者」とか言うのはやめてほしい。
ただの「アホ」なんだから。
いずれにしても、さすがは朝日新聞にデカデカと載るようなエッセイだと思う。
http://habutemushi.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/2012930.html
<天声人語2012.9.30>
無人島のために戦争なんて、とつぶやける国がいい。隣国の無法に呆(あき)れ、国境の荒波にもまれる海保の精鋭たちに低頭しつつ、小欄、間違っても煽(あお)る側には回るまいと思う。立ち止まらせる9月の言葉から▼竹島は日本領と発言したら、韓国紙に極右作家と書かれた岩井志麻子さん(47)。韓国人の夫は愛犬を独島(トクト)と呼び、妻は竹島と呼ぶ。「痴話げんかはするけど本気ではやらない。夫婦関係も隣国との関係も、そういう約束の上で成立している」▼「日本だけが素晴らしいという考えは、思い上がった自国愛にすぎない。ただの排外主義。愛国とは最も遠いものです」。新右翼の一水会顧問、鈴木邦男さん(69)だ▼「福島で失われようとしている国力の問題は、その価値において領土問題の比ではない」と作家の池澤夏樹さん。「領土は隣国との意地のゲームだが、福島は現実。住む土地を追われた人々がいる」▼節電で猛暑を乗り切った大阪府豊中市の上田照子さん(70)が語る。「今ある電気で間に合う生活にしていく。夏も冬も、電気を大切にする意識はもう変わらないと思う」▼パラリンピックの旗手を務めた全盲の木村敬一さん(22)が、100メートル平泳ぎで銀メダルに輝いた。「世界にもっと飛び出したい。行った国や知り合った人が多いほど、僕の地球は広がる」▼国民感情を煽る言動、村上春樹さん言うところの「安酒の酔い」に溺れず、ここは心に一拍おいて国柄を示したい。台風が恨めしいが、今宵(こよい)は中秋の名月である。
二人執筆者がいるうちのどちらが書いたのかはわからないけど、こんなヤツらが大新聞の看板コラムを担当しているのかと思うと腹が立つと同時に、「どうして、こんなにバカなの?」と思ってしまう。
月末恒例ということで、人の言葉を取り上げて掲載するだけだが、今回は特にヒドい。
まず冒頭。
『無人島のために戦争なんて、とつぶやける国がいい』
無人島だと、何もしなくていいの?
わが国の領土であると知っていながら、それが未開国家の侵略に遭おうとしているというのに、それを黙って見ていろ、というの?
そう簡単に戦争になんかなるはずがない。
シナだって、アメリカもいる手前、不用意に攻めてくるはずもないだろう。
だから、日本が毅然とした対応をとればいいだけ。
それを放ったらかしにするから、相手が付け上がり、結果として小競り合いに発展する。
尖閣諸島も竹島もシナやあの国に差し上げたいなら、はっきりそう書けばいい。
(まあ主筆の若宮啓文はそうしたけど・・・)
次の岩井志麻子なんかどうでもいい。
次の鈴木邦男氏の言葉も、一般的な言葉としては、別におかしくも何ともない。
ただ、「日本だけがすばらしい」と思っている人間はあまりいないと思うが、それが特亜3国との比較で言えば、他が下衆すぎるので、この言葉は正しい、ということになってしまう。
それを、あたかも「愛国無罪」であるシナやあの国と比較して、「日本だって一緒じゃないか」という意味で使おうとしているのは許せない。
次の池澤夏樹の言葉が一番ヒドい。
まずは最初の発言。
『福島で失われようとしている国力の問題は、その価値において領土問題の比ではない』
原発事故と領土問題と比較すること自体意味がない。
両方ともに「大きな問題」であり、どっちが大きいとか小さいとかいう問題ではない。
そして、もう一つの発言。
『領土は隣国との意地のゲームだが、福島は現実。住む土地を追われた人々がいる』
この作家はバカなのか?
領土問題が「意地のゲーム」?
「福島は現実問題」だけど、「領土問題は架空の出来事」とでも言うつもりか?
領土問題などは、まさに「今そこにある危機」だろう。
近辺で漁業をしている人たちにとっても大きな問題だ。
竹島では、実際に殺された人たちだっているというのに・・・
こういう感覚でいる人間が、「文明や日本について詳しい」などと言われていると思うと、大江健三郎みたいなヤツなのかな、という気がする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E6%BE%A4%E5%A4%8F%E6%A8%B9
そして天声人語子も、この言葉に賛同している一人ということだろう。
もちろん、「アンタも、領土問題なんかどうでもいいと思っているのか?」と聞かれたら、「いや、これは池澤夏樹さんの言葉ですから」と逃げるに違いない。
さらに「池澤夏樹の言葉に賛同しているからこそ、それを取り上げたんじゃないのか?」と聞かれると、「多様な方々の言葉を取り上げているわけで、特定の人の言葉を取り上げたのではない」と逃げるかも知れない。
しかし、これまでの取り上げ方(ただ取り上げるだけで、いいとも悪いとも一切言わないパターン)からすると、同じ考えであることは間違いない。
朝日新聞がいかに領土問題を矮小化しようとしているのか、その代表格である天声人語の中で堂々と宣言していることで、彼らの正体が垣間見えてくる。
そして最後も同じく作家である村上春樹の言葉。
これは『領土を巡る熱狂は「安酒の酔いに似ている」』と題した彼のエッセイのことだ。
領土問題を、まるで「酔っ払いのケンカ」みたいな言い方をしている時点で、「読むまでもない」という気はするのだが、一応読んでみた。
ただ、朝日新聞に寄稿したという彼のエッセイは、実はweb上では全文を読めないので、全文を掲載したブログから引用させていただいた。
<村上春樹エッセイ 全文>
尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。
この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。
僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。
たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪れてくれたものだ。彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。
このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。
今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。
国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。
そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。
僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。
最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。
安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。
これを読むと、さすがに作家やミュージシャンというのは「脳内お花畑」の人が多いようで、大江健三郎ほど「売国的」ではないものの、随所にノー天気なところが現れている。
彼が考えている「東アジア文化圏」というのが、どういうものかはわからない。
しかし、『そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている』というのが、日本には言えても、シナやあの国に対しては、まったく当てはまらない。
こういう事実を知っていて言っているのか、それとも見て見ぬフリをしているのか。
少なくとも、シナにおいては、そんな自由などあるはずがない、ということくらい、文化人であれば知っていて当然だろうに。
彼が言う通り、『文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている』とすれば、それはほとんど不可能に近い、ということも、併せて知っておくべきだろう。
だいたい、彼が言うところの「地道な達成」を大きく破壊しようとしているのは、いったいどこの誰だと思っているのだろう。
彼のエッセイの中では、それには触れられていない。
つまり、「シナもあの国も、そして日本も・・・」というニュアンスでとられてしまうわけだ。
あと「実務的な解決」とは、いったい何を指しているのだろう。
そもそもシナなんて、実務的に解決しようなんて考えてもいないし、「実務的に解決されると困る」からこそ、強引な理屈と行動で周辺諸国に迷惑をかけているのではないのか。
さらに「冷静に検証する」というのも、意味がわからない。
冷静もくそも、シナなど「検証する」つもりもまったくないというのに・・・
それに『実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ』だって?
もしかして、自分のことを指しているの?
実際に尖閣諸島や竹島で漁ができない人たちのことを考えたことがあるのか?
もしも、この人たちのことをちょっとでも考えることができたなら、こんなバカな言葉が出てくるはずがない。
どうして、ここまで自己中心的になれるのか不思議でならない。
自分たちさえ良ければそれでいいと言うつもりなのか?
もちろん、そうは思いたくない。
しかし、もしそうでないとしたら、村上春樹も相当頭がイカれしているとしか思えないではないか。
最後の方の『そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたい』なんて、もはや失笑しかおきない。
「報復」って何だよ。
相手が挑発してきている、というのに、これを受けて立たないで、ただ「なすがまま」にされているのが今の日本だ。
必要なのは、「毅然とした対応」であって、冷静な対応なんかではない。
これを「報復」と言おうが、どう言おうが彼の勝手だけど、何もしないことほどバカな対応はない。
結局のところ、彼のような「脳内お花畑」の人たちは、「話し合えばわかってもらえる」とか「信じれば(あるいは憲法に記載すれば)平和になる」と簡単に言うけれど、実際には「何もしない」人たちであって、それこそ現場の第一線に立っている自衛隊や海上保安庁、あるいは漁師の人たちの意見など聞いたこともないのだろう。
自分たちの国を自分たちで守らないどころか、相手から奪われようとしているのに、何もしないどころか、むしろ相手に譲ろうとさえしている。
しかも、念仏みたいにただ「冷静に、冷静に」と唱えているだけ。
こんな連中を「知識人」とか「文化人」とか「有識者」とか言うのはやめてほしい。
ただの「アホ」なんだから。
いずれにしても、さすがは朝日新聞にデカデカと載るようなエッセイだと思う。
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