私は、実名で著名人、芸能人などの批判をする人の文章をよく読む。
特に「バカ」とか「許さん」とかいうタイトルがついていれば、思わずその本を買ってしまうほどだ。
もちろん、前提には私もその批判された人が好きでないことがあるが、私が注目するのはその批判の仕方である。
単なる中傷誹謗では、読んでいて気分が悪くなるだけで、しかも論理的におかしい部分がある場合、結果的には書いた人も嫌いになってしまうからだ。
そういう意味でも、文章のうまさが際立っていたのが、故ナンシー関だ。
本人には、批判しているという気持ちはなかったかも知れないが、皆が思っているに違いないことをズバッと書いていて、とても痛快であった。
この人との出会いは、実は偶然であった。
もともと週刊誌と言えば「ポスト」か「現代」しか見たことがなかった私が、ある時新聞に広告にのっていた「週刊文春」のタイトルに「こいつだけは許せない」というのがあったのがきっかけで、初めて「文春」を買って読んだ。
そのときに連載していたのがナンシー関であった。
「テレビ消灯時間」というものであったが、それが実に面白かったので、その後続けて読むようになった。
最初は「ナース井出」みたいにいかがわしいお姉さんかと思っていたが、どうしてどうして全然イメージとは違う人だったので驚いたものだ。
そして、これまでに何冊か本を出しているのを知って、本屋で探しまくって買ったものだ。
ところが、タイトルに似たような名前が多くて、「何がどうして」やら「何をいまさら」やら「何だかんだと」「何がなんだか」など、ホントに何がなんだかわからなくなり、同じ本を2冊買ってしまったこともあるが、今や私の自慢(?)のライブラリーのひとつだ。
まわりの人間にも勧めたが、意外にも知っている人は少なかった。
そんな彼女も、昨年6月に残念ながら亡くなってしまったが、本当に惜しい人をなくしたものだと思う。
全然面識のない人で、これほど亡くなって悲しいと思った人はいない。
ただ、一方では喜んだ人も多かったのではないか。
特に、芸能人やその類の連中の中には「いやあ、一度会ってお話したかったのですが」というヤツが多かったが、前田忠明を初めとしてそんなやつらに限って結構ボロクソに言われていた。
それほど的確な指摘をしていたのかと思うと、本当に残念だ。
早く第二のナンシー関は出てこないものだろうか。
特に「バカ」とか「許さん」とかいうタイトルがついていれば、思わずその本を買ってしまうほどだ。
もちろん、前提には私もその批判された人が好きでないことがあるが、私が注目するのはその批判の仕方である。
単なる中傷誹謗では、読んでいて気分が悪くなるだけで、しかも論理的におかしい部分がある場合、結果的には書いた人も嫌いになってしまうからだ。
そういう意味でも、文章のうまさが際立っていたのが、故ナンシー関だ。
本人には、批判しているという気持ちはなかったかも知れないが、皆が思っているに違いないことをズバッと書いていて、とても痛快であった。
この人との出会いは、実は偶然であった。
もともと週刊誌と言えば「ポスト」か「現代」しか見たことがなかった私が、ある時新聞に広告にのっていた「週刊文春」のタイトルに「こいつだけは許せない」というのがあったのがきっかけで、初めて「文春」を買って読んだ。
そのときに連載していたのがナンシー関であった。
「テレビ消灯時間」というものであったが、それが実に面白かったので、その後続けて読むようになった。
最初は「ナース井出」みたいにいかがわしいお姉さんかと思っていたが、どうしてどうして全然イメージとは違う人だったので驚いたものだ。
そして、これまでに何冊か本を出しているのを知って、本屋で探しまくって買ったものだ。
ところが、タイトルに似たような名前が多くて、「何がどうして」やら「何をいまさら」やら「何だかんだと」「何がなんだか」など、ホントに何がなんだかわからなくなり、同じ本を2冊買ってしまったこともあるが、今や私の自慢(?)のライブラリーのひとつだ。
まわりの人間にも勧めたが、意外にも知っている人は少なかった。
そんな彼女も、昨年6月に残念ながら亡くなってしまったが、本当に惜しい人をなくしたものだと思う。
全然面識のない人で、これほど亡くなって悲しいと思った人はいない。
ただ、一方では喜んだ人も多かったのではないか。
特に、芸能人やその類の連中の中には「いやあ、一度会ってお話したかったのですが」というヤツが多かったが、前田忠明を初めとしてそんなやつらに限って結構ボロクソに言われていた。
それほど的確な指摘をしていたのかと思うと、本当に残念だ。
早く第二のナンシー関は出てこないものだろうか。
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