🐇 春愁を淳一画集に忘る時
> 春は人の心がはなやかに浮き立つが、その反面ふっと哀しみに襲われることがある。
気がふさぐとか、憂鬱とかいうはっきりしたものではなく、そこはかとない春の哀愁というが、散歩をするとか、ゴルフをするとか、気分転換をするのが解消のちかみちであろうし、家居の多い主婦には、叙情的なタッチの中原淳一画集などをひもとくことも一策といえよう。
優しい選評に痛みいりました。
良し悪しの句とは別に、投句をするとこんな選評をいただくこともある。
ある方のブログでこんな意見を書いておられるのを目にしたところ。
片山由美子氏とある若手俳人の 俳誌角川」の鼎談から、、、
@「若い俳人は〈普通〉ということを嫌う傾向にある」
最近の若い俳人達の〈難解俳句〉に対する懸念とも言える。
<普通>どこがいけないのか、という基本(王道)重視の考え方が底辺にあるのだろう。
@ 「意味が分らないからこそ、そこに何かを感じる。〈普通〉ではつまらない」と、いう若手俳人の意見。
@ 片山氏は
「俳句にとって、最低限の意味が読み取れることが重要で、言葉が言葉として通ずる作品になっているかが大切」と反論する。
彼女が常々に主張しているのは、正しい文法に根差した潔癖な俳句なのである。
@どちらの論にも一理はあるが、初学の頃に予定調和の句はダメと教えられたことが俳句観の根底にあって、私は、どちらかといえば若手俳人に与する考え方。
読み手の数だけ句意の存在するような、いい意味で奥行(広がり)のある俳句が好きだ。
とはいっても、〈難解にすることが目的〉のような、教養主義の匂いがぷんぷんする俳句を良しとしているわけではない。
@若いころは清新な俳句が注目された俳人が、いざ主宰となってから、そうした教養主義的な権威俳句を振りかざしている姿を目にすることがある。
私は意見を云えるほど勉強をしていない。
唯「教養主義的な権威俳句」をふりかざしている、ちんぷんかんぷんの俳句を詠む人がいるのを常に苦く感じてはいる。
少女趣味的な俳句に選評を書いて下さった方!
わたしは平凡で、今もって「予定調和」の句しか詠めません。
🍒 時くれば空腹花は葉となれり