昨日の読売新聞の俳句欄に載っていた、正木ゆう子さんの一文。
いたく理解のできる文章であった。印象深かった。
市井の中の清く貧しい俳句愛好者の心に沁み込んだ。(少し誇張)
不肖、私は真摯に俳句に取り組んでも、いつも全没、全没で、それでも良い句を、、と一生懸命に作句をした。
私のブログを読んでいた息子に、(母さんは、いつも全没、全没と書いているけれど、そんなに ヘタッピーだったのか)と云われたことがあった。(そうよ、母さんはヘタッピーなのよ、いくら勉強をしても駄目なの)と応えたものだ。
いくら師のおっしゃる五ヶ条にそっても、師の心をつかむ句は出来ないことに、今になってやっと気が付く。自虐的になり、自分を貶めても、なかなか句はできない。お裁縫をやるのも、散歩を楽しむのも、何かに憑かれたように俳句にのめり込んでいる自分にこれではいけないよと言う信号が発せられてのこと。
俳句なんて、楽しみ、趣味、暇つぶし、、、、それで良い。
師と仰ぐ人は、結社の師でよいが、結社の師、彼ひとりがすべてではないことと思えるようになった昨今。
> 最近、同じ地域に住む俳人の句を師が添削をして採用をしていた。
「この地独特の呼び名」を添削していたが、師の勘違いがはなはなだしかった。
そうじゃない!師も神ではない。知識は豊富、しかし深く地方の風物に精通するには限界があると、認知をしたことであった。
あまりにも師を崇拝しすぎている自分がお目出度い人に見えてきた。いまさら、この歳になって、少女みたいな感想をもたらす馬鹿さ加減。
ゆう子さんが云うところのネットと、葉書の違い?そんなこと、そう云い切れるかもしれないけれど、全員が高みに登ろう、立派な句を作ろうと考えているわけではない。
>少ない言葉に思いを込めるのが俳句の要諦だとすれば、句数を絞ることもその中に含まれるということです>
おっしゃるとおりです。よく理解をしています。
しかし、、、、となる、<プレバト>も俳句、そこらに散らばっている<サロン化した結社> も、みんな俳句を愛している。そこそこ楽しんでいれば、正木ゆう子さんのおっしゃることも胆に命ずる程度のことだと不肖、私は受け取った。
あくまで俳句の王道、理想は、おっしゃるとおり。
何人いるかな。。。。ゆう子さんを心酔していて、ご無理ごもっともと、、、聞き流せばいいのに、ブログにまで書く、落第生の吾は可笑しいと思った次第。
一句に絞った俳句を全没になって、捨てるには惜しいとネットに出す。互選にはかからないけれど、、選者の選評にはかかった句が何度か。大方一千句の中から、、、息子には弁解をしないが、たまにはこんなこともあるのだ。
句風の違いで、捨てられたり拾われたり、そこが難しい。
俳句は ① + ① = ❷ じゃない。
せっせと ネットのしりとり俳句、三分の集中力を臍に込めて、一日を楽しみます。
高度な俳句?って何?何?
🍒 聖樹立つ行き来楽しき駅広場 (聖樹)
🍒 湯気を立て菓子舗の 鉄瓶鳴つてをり (菓)
🍒 海鳴りの聞こゆ厄坂冬椿 (坂)