Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

夜空~駅の記憶

2010-08-22 02:21:00 | インポート
ミーSAN今晩は。今月の拙日記にても度々触れて参りましたが、立秋、そして処夏の時期を迎えても尚、全国的に猛暑の傾向が続いている様です。貴地元の北日本にても不安定な天候の日が多い様で、全く今夏の空模様は世界的にも「何かがおかしい」と申さざるを得ない様ですね。
水害も多い。報道にては、遂に貴地元の近くでも残念な事故が生じてしまった様ですね。我国も近隣の諸国も、大きな災害が続発している模様。犠牲各位へのご冥福と復興への確かな道が開ける事を祈りたい所。又、お互い引き続き健康安全留意にて、続く秋を迎えたいものであります。

その様な中、先月は親族と共に、新潟・秋田両県の日本海側へ遠出する機会に恵まれました。秋田よりの帰途、夜行列車にて、首都圏を周り、埼玉県下のJR鉄道博物館を見学した事は、前回記事にて触れましたので良ければご参照を。
今回は、表題に沿い、その夜行列車の行程などに少し触れたく思います。
秋田よりの帰途乗り込んだのは、東京上野へと向かう上り特急「あけぼの」で、横になれる座席扱いの車両もありましたが、色々逡巡した末、昔ながらの普通の寝台を選びました。親族も納得してくれた様で、暑かった乗車前、入浴が叶わなかったのがちと残念でしたが、まあ快適な車中ではありました。

道中の深夜2:30am過ぎだったでしょうか。新潟県下にて、もう絶えて久しい汽笛による出発合図を聞き、少しく感激した次第。国鉄の頃は、全国の全列車にて当然の様に吹鳴されていたのですが、1980年代の昭和末期に至って、一部より「騒音ではないか」との主張をきっかけに一斉にとり止められてしまった経緯があるやに聞きました。背景には、欧米の鉄道には汽笛出発合図の習慣がなく、我国も倣うべきとの論調があった模様。事実とすれば、随分安易な事だとも思います。

以前申した記憶もありますが、この問題が生じる少し前、私は以前の勤務先の都合で、神戸市の三宮界隈に1年半程住んだ事がありました。
仕事の都合で、朝よりの日勤と夕方よりの夜勤がありましたが、前者の時は、朝 神戸港へ出入りする大型船の汽笛が目覚まし代わり。夜 寝る時はこれ又、西日本より東京へ向かう夜行特急「ブルー・トレイン」の三宮駅を発つ出発合図にて床に入ったものであります。
この様に、列車の汽笛出発合図は、我国の各地にて時計の代わりに利用されていた地域も多かったのです。そうした習慣を顧みる事もせず「欧米がこうだから、日本も同様にさえすれば」などと言う思潮は随分安易だし、遺憾な事だと思います。想えば、こうした事以外にも、我国内の多くの所でこうした思考が横行している様に思われ、例えば夏の蝉時雨や秋の虫の饗宴など、我々日本人は情趣の音と理解するも、欧米にてはただのノイズと受け取られている由。そんな事共が、真に国民の利益にそぐわないのであれば、それは糾されるべきだと思います。

もう一つ、「夜空」に因む話題を記させて下さいませ。それはこの初夏、奇跡的とも言える帰還を果たした探査衛星「はやぶさ」の事であります。
2003=平成15年の出発以来、7年もの時空と数十億kmもの天文学的な距離を、幾多の障害や不調を乗り越え飛び続け、遂に帰還を果たした姿には、本当に心打たれるものがありました。
大気圏再突入の宿命で、衛星本体は燃え尽きて華と散った訳ですが、宇宙物質を運ぶカプセルは曲がりなりにも無事帰り、今後の調査と解析を待つ事となります。
本当に、最後まで帰還を信じて諦めなかった、関係各位の執念の努力を讃え、偉大な事ができる我国技術の至高さへの敬礼と共に「はやぶさ」自身にも「何があっても、必ず帰る」との強い意思があった事を信じたく思います。一部で囁かれている様な、無駄な所業では決してない。今の、変調を来たした気象の分野への貢献だって可能だと思います。盆の頃続いた曇天により、流星を観る機会を逸したのがやや残念ではあるが、そうした事を想像してみるのも又「夜空」の楽しみだと思うのです。

「はやぶさ」と言えばもう一つ、夜空の下を、地上を行く勇者がありました。
戦後間もなくから昨春まで、ほぼ半世紀もの間、東京と九州を結び走り続けた夜行特急「はやぶさ」がそれ。来年、新青森進出を果たす東北新幹線の新列車としての復帰が決まったのは喜ばしい事ですが、それまでは暫しの間、風雨をついて日夜走り続けたこの特急の事を、夜の名古屋駅より何度か世話になった記憶と添付画像、そして以下の一編と共に振り返りたく思います。

「眼前の闇 見えぬ行き先 だから楽しい 夜の出発(たびだち)・・・」*(三日月)*
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移ろい~駅の記憶

2010-08-19 00:07:00 | インポート
空心さん今晩は。折々に下さる画像有難うございます。
例年にない猛暑の続く今夏。さすがに心身も参り始めているのは事実ですが、8月も後半、何とか乗り切りたい気持であるのも事実です。
この前下さった朝顔の画像は、久しぶりで清々しい気分になれました。

さて先月なんですが、貴地元よりそう遠くない、さいたま市大宮区のJR鉄道博物館を訪ねる機会がありました。前夜、秋田よりの夜行特急「あけぼの」にて朝首都圏入り、大宮駅にて列車の出入りを撮影後参った次第。この折の模様は、貴画像掲示板にも一枚載せました。

鉄道博物館の歴史ゾーンには、各時代を代表する汽車、電車などの鉄道車両が集っているのはご存じかと思います。私も、その収蔵量の多さに感嘆したものでしたが、暫く眺めている内に「これは、拙幼少の頃の旧国鉄名古屋駅の有様ではないか」と思ったのでした。つまり「あの頃のありふれた光景」だった訳です。

約40年前の名古屋駅。駅本屋は1937=昭和12年に竣工した、重厚な鉄筋コンクリ建築で、戦前は東洋一と言われた先代駅舎。
開業数年を経た東海道新幹線と、戦前と戦後世代の車両が入り混じった在来線。特に関西線の各駅停車と夜行急行の一部には、未だに蒸気機関車が先頭に立つ事があり、当時の新幹線の精鋭0系列車との並走さえ見られました。
東海道本線系に目を転じれば、これ又名古屋鉄道の当時の精鋭、パノラマカー7000系電車と東海道新幹線や在来線長距離列車との邂逅や並走が飽きる程見られ、想えば良い時代だったと思います。

一昨年の暮れ位だったでしょうか、ある男性雑誌(勿論淑女各位に嫌われる、性的な記事が載る事も間々あります。苦笑)に、勇退する名古屋鉄道パノラマカーの惜別記事が載ったことがあり、その折「ありふれた日常も、やがて過去になる」との言葉が綴られていたのを今も強く覚えており、その言葉が、時を経ると共に、次第に大きく重いものに変わって行くのを感じる訳であります。

確かに、この文言は真実を語っていると思います。
あの頃、余りにも日常になり過ぎていた蒸機。貨物便では、名古屋市内でも2機重連の走行が見られ、相当数が頑張っていました。東海道新幹線の初代車0系、その前の東海道線のシンボルだった「こだま」スタイルのボンネット型特急車など、普段より名古屋駅にて見る事のできた、ありふれた仲間達。意識もしない内に世代交代は大きく進み、そうした仲間達も一人去り、二人去り、前世紀の末には新幹線0系も後進に後を託して姿を消しました。その「ありふれた」を写真記録に残す熱意は、遺憾な事に遂に起こりませんでした。
辛うじて、名古屋鉄道パノラマカーの画像を何枚か残す事位は叶い、その意味で少しはその事の反省になったのかな、などと振り返っている次第。

この事は、人生全般にもかなり当てはまる様な気がします。
ご存じとは思いますが、我々の世代も、多くの方々が親御様との死別の時期を迎えています。私にしても、今はとも角いずれその時期を迎えなければならず、果たしてそれまでの間に、親に対して何ができるか、と言う事にどうしても思考が行ってしまいますね。まあ「案ずるより生むが易し」で、その時になれば何とか進められるのでは、との希望もあるにはありますが。

それにしても、親も言わば「ありふれた」存在。良く顔を合わせていると、ついつい「いつまでも元気でいてくれる」ものと思いがちな様です。人命に限りがある様に「やがて過去になる」別離の日が必ずやって来る事を念頭に置いて日々を生きる様、今、自らに言い聞かせている所。果たして、きちんと実行できるかは、疑問符の残る所ですが・・・。*(ひまわり)*
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備え~駅の記憶

2010-08-16 23:36:00 | インポート
えいさん今晩は。昨終戦記念日には、私も先の戦没並びに戦災犠牲の各位に、謹んで哀悼の意を表しました。あの様な悲劇の再来なきをお祈り致しました。盆の時期も過ぎましたが、例年にも増して猛暑が続きます。先日、他の知友の所でコメントを拝見したのですが、貴勤務先は、この時期へ来て人員面が逼迫して大変な様ですね。人間、勝負所があるのは承知していますが、今夏の暑さは尋常でないのも事実。どうかご無理は避け、健康安全留意にてお願いしたい所です。勿論これは、決して利口ではない私も心がけねばと思っている所です。

今夏の拙特集日記は、これまで私が遭遇した鉄道の駅やそれに関する施設での想い出を主に綴っております。
これは多分貴方にも関係する事と思いますが、最近の鉄道駅は、身体に不自由がお有りの方々も不便なく利用できる様、様々な対応、所謂バリア・フリーが徐々に整備されて来ている様です。例えば車椅子に乗ったままプラット・フォームへ出て列車に乗り込めるエレベーターとか、車椅子での移動を助ける勾配の緩やかなスロープとかですね。それとフォームにて列車と人との接触を防ぐ白線も、目の不自由な方向けの点字式の黄線が併用され、安全度は大きく向上しました。ただ、それらの秀逸な設備も、健常者たる我々が、正しくその機能を理解しそうした各位への必要な協力を心がけなければ、十分に機能しない心配はありますね。

かなり以前、今は故人となった作家 田中澄江さんが、学校の身障者向けの設備について「整備の要求の前に、人手にてできる事に全力を上げるべき」との見解をお示しになっていたのを思い出します。

例えば階段にて身体の不自由な生徒が昇降する場合に、まずは他の生徒が進んで手を貸す様な風土を醸成すべき、と言う事だったと思います。私は、こうした見方も又正論ではないかと感じるんですね。そうすれば、同じバリア・フリーでも最低限必要な設備の絞り込みができ、これも必要なら乗客係員の垣根を越えた、人同士が助け合う状況を作る事ができる。運賃を払っているから、何でも楽なサービスを享受できるもの、という考え方には傾かない方が良いとも思うのです。特に鉄道交通はJR、民営に関係なく公共の場でもあるのですから、利用者レベルでそうした場面があっても良い、と私は思います。

それは鉄道にとり大きな課題でもある、重大な踏切事故防止などの安全策にしても同じ。今、全国の市街地の鉄道にて、道路との立体交差化が進められているのはご存じかと思いますが、決して最善の方法ではないと思います。物理的な障害は除かれても、結局は人の「安全を厳守する」強い決意がなければ、事故を根絶する事はできないでしょう。

これも以前、作家 犬養道子さんが国防安全の事について「やはり、装備の充実よりも、国民的な教育啓蒙が大事だろう」とのご見解を拝見した記憶があり、形こそ違え、同じ事が申せると思うのです。
福祉も安全も、まずは利用者への教育啓蒙が大切。そして車内の優先席の適正利用を初め、人手で可能な所をカバーし、どうしてもやむを得ない所の設備を整えて参ると言うやり方が、設備投資の上からも本当は望ましいと思うのですが。

貴方より良く指摘を受ける、今回又も難し目の長文を記してしまいましたが、ご一読下されば幸い。ご意見ご感想など賜れれば尚有難いです。
まだ暫く残暑が続く様ですね。改めて、お互い健康安全留意にて・・・。*(コメント)*

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鉄道踏切事故を、どう防ぐ?

2010-08-14 16:27:39 | 日記・エッセイ・コラム

コナサン、ミンニチワ!残暑の時期となったが、日中の暑さは相変わらず。盆の時期に、今年我本土に初上陸した台風第4号の通過の辺りから曇りがちの天気となったものの、まだ暫く続きそうな気配である。

さて、亡き方々を偲ぶこの時期に、当地愛知にては鉄道踏切事故が目立つ。当地の大私鉄、名古屋鉄道線にて先日と本日、立て続けに発生し犠牲者を生じたのは大変遺憾。列車側に人的被害を生じなかったのが不幸中の幸いであった。

事故原因の内一件は、先日夜にあった車道側の一般車の一時停止無視。先行車が警報を認め踏切手前で停止したのを無理に追い越しを仕掛け、遮断機の突破を図ったものの、既に進入した列車の前から2両目と接触、弾かれて線路際に横転し、乗員3名中1名が落命した様だ。運転者飲酒の可能性も指摘され、又、乗員のシートベルト非着用の可能性も残り、道路交通法と一般的な社会規範が自覚され、実行されていれば防げた事故であったと思われる。

もう一件は本日午前、同じ名古屋鉄道の、中部空港へ向かう常滑線上にて生じたもの。沿線在住の、小学校低学年の女子児童が、列車接近時に歩道専用踏切を横断、結果ヒットされ落命した模様。まだ幼年の場合、線路道路の近くであっても、興味のある対象へ近づく時に、周囲の安全を確かめる習慣が確立されていない事も多く、ここは保護者の監視の目が必要であったろう。当事者の落命も遺憾だが、中部空港と名古屋都心とを結ぶ常滑線の抑止も困った事である。何故なら、列車から時間的余裕のない状態で飛行機への乗り継ぎを控えている各位も多いからだ、今回の抑止は1時間には及ばず、比較的短かった由だが、それでも相当の影響はあったのではないか。

地元の大手、JR東海社や名古屋鉄道の各主要路線にても、道路との立体化による踏切の解消策が進められている。しかし、どうも根本的な解決策とは言えない様な気がするのも事実。もっと子供の頃から、交通安全に対する教育啓蒙を強化し、大人になってからも決して無理や油断をしない姿勢造りこそが事故防止への本筋の様な気がするのだがどうだろう。

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追想~駅の記憶

2010-08-13 17:00:00 | インポート
真美さん今日は。今月初旬まで、猛暑が続きましたが、盆前後から天気が不安定になって来ました。丁度先日の、台風第4号が我国本土近くを通った辺りからが、天気の変わり目だったと思います。

さて、昨年に続き、今回は貴方宛ての文体にさせて頂く次第ですが、私の鉄道の駅にての、忘れられない強い印象の想い出を少し記して参りたく思います。

最初は、やはり生涯忘れ難い強烈な印象を残した名物電車、名古屋鉄道パノラマカーの事でしょう。
確か今の居所、名古屋市内の神宮前駅だったと思いますが、展望前面と共に、もう一つの自己主張だった音楽警笛、ミュージック・ホーンを吹奏しながらの進入は、今も強い記憶になって残っています。
「一体この電車、運転台どこにあるんだ?まさか・・・客に運転させている。そんな事、間違ってもないよな」本気でそう思ったものでした。
寝ぼけ眼をこすって良く良く見れば、展望席のすぐ上に、まるで戦闘機の操縦席の様な運転台がある事に気づき、ようやく安心した記憶がありまして、当時我国では珍しかった真紅の外装(あのスカーレット・レッドの塗料は当時我国になく、初めはフランス共和国から輸入していたそうです)や音楽警笛と共に、今は我が良き想い出となっています。この名車も、昨夏の完全勇退よりもう一年になるのですね。

もう一つは、大学時代の首都圏にての出来事。当時の日本国有鉄道東北本線大宮駅にての光景。
1980=昭和55年頃までの東北本線の普通列車には、蒸機時代の名残の、乗降扉も手動式の旧世代の客車編成が残り、それをこれも旧世代の電気機関車が牽引走行する様が良く見られました。古い機関車の前面には、構内の方が作業の為一時的に乗る事ができる「フロント・デッキ」を備えた機材があり、その時もでしたが、何とその無防備なデッキの上に、客車の側と言えど、10人近い乗客が無断で乗っていたのです。東北本線の大宮付近は、普通と言えど最高速は95km/H位。万一振り落とされでもしたら、即命に関わります。
「出鱈目だ。こんな事が認められるのか?」と言うのが正直な所でした。今はさすがに厳禁の様ですが、30年程前は、混雑の時は黙認される事もあった様です。まあある意味、大らかな時代でもあったのでしょうか。
機関車のデッキに上っていたのは、勿論皆男性。この方々の表情は、機関車に掲げられた「EF57 9」の番号盤と共に、今も強く、脳裏に焼き付いています。

残暑の時期となりましたが、まだ厳しい暑さですね。二輪にてのお出かけが多い様ですね。どうかご安全に・・・。*(晴れ)*
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