Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

痕跡~駅の記憶

2010-08-10 07:55:00 | インポート
ブルースさん、お早うございます。
貴地元へ、台風第4号が近づいている様ですね。この梅雨各地にて水害が多かったたけに、拙方もその影響が気になる所。どうか大過なきをお祈りする次第。

昨日、貴地元は65回目の原爆忌をお迎えになりましたね。大変お疲れ様でした。これまでも、多くの報道画像や林 京子さんの著作「祭りの場」など、何よりも被爆直後に救援の為街に入った父の話などより、1945=昭和20年夏当時の長崎の惨状は、遠巻きではあるが接する機会を得て参りました。

報道画像で最も強く記憶にあるのは、被爆直後の焦土と化した街と、地平線まで続くのではと思わせる、夥しい頭蓋骨の列でありました。
「原爆の破壊力とは、これ程なのか」十代の頃、広島の原爆資料館を訪ねる機会を得、被爆し大きく変形したガラス器などの家財を見る機会のあった私にも、その光景はトラウマになるのでは、と思わせる程の衝撃がありました。両市を合わせれば、一中核都市の人口に匹敵する人命が瞬時に失われた、これが原子爆弾の悪しき力だった訳ですね。

今夏も、広島・長崎のいずれでも追悼行事は核廃絶への強い意思をもって執り行われ、長崎にては、これも毎回の事でしょうが、多くの基督教関係各位による祈りが行われたのも、その想いを新たにするものがありました。それに加え、米・英・仏の核保有国の要人の式典参加を実現し得たのも一歩前進でしょう。合衆国代表は広島の式典のみ参加とも伺いましたが。
想えばあの原爆は、浦上町の天主堂の上辺りで炸裂したと聞いており、長らく被爆の痕跡を留めていたとされる天主堂も近年美しく手直しされ、今はもう、その面影を仰ぐ事はできない様です。

恐れながら、私は必要最低限の国防の装備や教育は必要とする立場であるのはご存じかと思います。その為に、例えば元自衛隊最高幹部だった田母神俊雄さんらによる安保に関する研究・講演活動なども、それは行える環境自体は必要だし、問題があれば、異なる立場の各位が堂々と問題を指摘すれば良いと思う次第。
我々にしても、かねて報道の公正が疑われる全国紙Aなどの批判を状況に応じて行う事があり、それについての反論を承る事もやぶさかではありません。ただ、一部の左派勢力みたく、相手の言論を封じて一方的にまくし立てる様なやり方には組しません。

人間は、全智全能ではありません。局地的には、これからも一定の警察力、武力を行使するやむを得ない事態はあると思います。何よりも、昭和の後半に生じた朝鮮民主主義人民共和国による日本人拉致事件がその典型でしょう。多くの一般人が巻き込まれる大戦争同様、こうした事態も再発を防がなければならない。
二度と繰り返してはならないのは、全国家的規模の「あの様な戦争」の事だと思います。

話を原爆の事に戻します。それにしても、被爆各位の援護は進んでいないと私も思います。ついこの間まで、公共土木事業に注ぎ込む莫大な金があったのなら、なぜその一部でも援護に回せなかったのか。全然とは申さないが、経済規模の割には不十分な印象があるのは事実。
又、戦後の原水爆禁止へ向けての国民市民の運動組織が、左派政党のご都合で二つに分かれたままの様であるのも遺憾。最早、小異に拘泥する様な時代ではありません。
JR長崎駅に降り立つ度、想起するのは勿論原爆の事です。済みません。続きは夜と言う事で。

大変失礼しました。続けさせて頂きます。その公共土木事業の適切とは言えない執行により、貴地元の豊饒の海、有明海と我らが長良川の大切な水産資源は、その大半が失われてしまった。一度壊された自然は、容易な事では復旧しないでしょう。
我国の、今までの政治家や官僚が如何に目先の自らの利益にばかり拘泥し続け、真に地域や国民市民の利益を顧みて来なかった証だと私は思います。民主党連立政権に移行して、戦争と平和の問題と共に、同党が言及した「コンクリートから人間へ」が果たして誠実に実行されるのか、お互いに注意して見守れればと思います。これなら、思考の立場の差を越えて連携もできると思いますが如何なものでしょうか。

最後に、先日の海の貴画像には感動しました。紺碧の空と海、見事です。更に気品溢れる帆船登場と来れば文句なし。当地名古屋では叶わぬ光景です。一昨年でしたか、私も海辺より少し登った高台より、大村湾の模様を撮ってみましたが、その景観の好さには唸らされました。添付画像がそれで、眼下にはJR長崎線、東園駅が臨める所です。
父に若き日の事を尋ねたら「蜜柑農園の傾斜を日に数往復はした」由。
これには負けました。昔の方々の頑強さが見える様な、想い出話でした。*(教会)*
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こんな終列車は嫌だ

2010-08-08 22:56:19 | 旅行記

コナサン、ミンバンワ!

前回まで、初夏の梅雨の時期恒例の不良読物を連載した拙ブログも、今回よりは所定モードに戻る事としたい。

先月の事だが、時折遠出を共にする親族と、新潟磐越へ出かけた。往路、存続の危ぶまれるJR夜行列車「きたぐに」に乗り換えるべく、夜の鉄路を米原へ。名古屋からだと、22:46発のJR東海道線下りにて大垣乗換、引き続き同駅23:25発の同線最終の下りにて日付が変わる寸前、米原着となる。ここで約、1時間強で「きたぐに」に接続する訳だが、この終列車、車両と編成に難があるのである。

この下り終列車、少し前までは東海道線の快速や各停と同様の車体片側ドア3か所、前向きなるも、転換式クロス席の車両4車で運転されていたはずだが、先日乗車した所、1車減の3車となり、尚かつ車体片側ドア2か所でリクライニング式クロス席の特急型車に変更されてしまっていた。一見、基本運賃だけで特急型車に乗れるサービス・アップに見えるだけに、この変更は始末が悪いと思った次第。

何しろ、終列車である。特に週末近くの木・金曜の夜などは、名古屋よりやや遠いと言えど、相当に混雑するであろう。加えて座席数が多く、立席余地とドア数の少ない特急型車とあっては、途中駅での乗り降りもかなり煩わしいはずである。当然乗り降り人数が多ければ、停車時間も所定より延びざるを得ず、定時運転などの信頼性にも影響する。これは、深夜だから、或いは終点での接続に時間的余裕があるから、などと言うのとは別の問題であろう。

車両変更などで、良くも悪しくもその影響を受けるのは、我々利用者である。今回の変更には、車両運用の効率化と言う意図もあるのだろうが、正直乗客にとっての利益とはなっていない印象を受ける。なるべく早期に、乗降性の優れた以前の車両への復旧を行い、編成も元の4車に戻してもらいたい所である。

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情景~駅の記憶

2010-08-08 15:53:00 | インポート
猫さん今日は。今日は曇り日の当地名古屋。猛暑なるも、日射しがないのが救いではありますね。
昨日、阪神甲子園球場にて開会の全国高校野球夏季大会も、炎天下でないだけ選手各位の消耗が抑えられ、好い試合ができるかも知れません。

さて、先日の拙記事への貴コメントを受け、少し記事を綴ってみる事としたいです。
昔の駅、以前の駅・・・それは、旧日本国有鉄道や民営鉄道の別を問わず「きっぷうりば」の大看板を掲げた窓口があり、距離の遠近に関係なく駅の方が1枚ずつ手作業で発券をなさっていましたね。当時の切符は丈夫な厚紙が主流で「硬券」と呼ばれ長らく親しまれていました。その改札も、人の手による入挟でしたよね。
1964=昭和39年秋の東海道新幹線開業を機に、座席の確保を要する指定席特急券の発券に万全を期す為、俗に「マルス」と呼ばれる寝台を含む電子式座席指定券発行システムが整備され、まずは新幹線、その後順次国鉄在来線の特急や急行の指定席発券に及び、やがて主要私鉄やホテルのオンライン予約にも及ぶ事となります。又、このシステムの威力で、以前は電話連絡などで長く要した待ち時間も、大いに短縮された様です。
これが有名な「みどりの窓口」であるのはご存じかと思います。

勿論、発足当時は東海道新幹線の沿線、又かなりの年月主要都市に限定され、地方などでの座席指定券の手配には、昔ながらの電話照会などが相当に用いられて来たのも事実。背景には、やはり当時の旧国鉄の財政難があった様ですね。

1987=昭和62年の全国JR社発足後は地方でも「みどりの窓口」整備が良く行われ、今では乗客が乗る予定の列車便や席の位置を自ら指定できる、自動発券装置が導入されている駅も大都市圏の駅にて良く見かけます。又、予め入金チャージさえしておけば、集改札装置のセンサーにかざすだけで運賃精算ができ、又鉄道乗車の他買い物もできるJR東日本社のSUICAに代表される、IC乗車券・買い物券の普及も相当に進みました。
私も首都圏の親族より同圏のJR線や私鉄線、地下鉄線での通用はもとより、一部店舗での買い物も叶うIC乗車券・買い物券「PASMO」を入手し先日使用してみましたが、本当に手間を要さない便利さに感嘆したものでした。当地にてはJR東海社が既に「TOICA」で先行している他、整備の遅れていた名古屋鉄道、名古屋地下鉄などでも遂に来春、IC乗車券導入に踏み切る様です。

貴見解の「自動化、省力化は何か寂しい一面もある」事は拙方も同感ですが、巨大化してしまった鉄道システムに対応する為の、やむを得ない側面もある訳でして、健全な発展さえしてくれればまあ良いかな、と私は思っている所です。あ、ここの所、インター・ネット全般にも当てはまりますよね。

最後に、人の温もりを残す大きな駅の事を一つお伝え致します。それは、福島県のJR会津若松駅。
人口約20万と言う主要都市の玄関でありながら、自動集改札システムが導入されていません。駅の方に、今後の見通しを伺った所「少なくとも当分、導入の予定はなし」との事。
人と人との触れ合いを大切にすると言われる、福島会津の地域性からなのでしょう。
近年増えた、駅を初め鉄道業務に携わる関係各位への残念な暴力沙汰を抑止する観点からは、なるべく自動化した方が良いのだろうが、そうした思潮に抗う様に、人の手を残すこうした動きも、是非応援したい気持ちはありますね。

この週末はご実家へ帰省の由。良い時となる事をお祈りします。拙記事は、又お帰りの折に目をお通し下されば、とも思います。まだ暑い日々。お互い、健康安全留意にて参りましょう。

P.S 今回より暫く、拙日記は知友各位に宛てた文体となりますが、普段同様、読者各位のコメントを下されば幸いであります。*(新幹線)*
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模様~駅の記憶

2010-08-05 07:21:00 | インポート
各位お早うございます。曇り空から朝日の射し始めた、今朝の当地名古屋。今日も暑くなりそうです。

先日、大阪府にて深刻な育児放棄致死事件が生じたのはご存じかと思います。幼い実子2名を死亡させた女性容疑者は、所謂「夜勤」と呼ばれる夜の商売に関わっていた様で「自分の時間が欲しかった」などと供述している模様。余り大きな事は申せないが、やはり母親としての自覚がない様に思います。離婚した由ですが、子供の親権や生活費の手当をどうするのか、別れた父親ときちんと打ち合わせを行い、子供達の将来に備えようと言う姿勢が微塵も見られない。命が失われた以上、容疑者の重い罪責は免れないが、別れた父親も、人間として関心を払い続ける必要があったのでは、とも思います。「離婚したから関係ない」で済む事か?と申したいですね。

行政の踏み込みも甘い。現行制度が問題ある家庭のフォローに不足があるのなら適宜見直し、必要な関与ができる様改めるべき。国家の基本法たる憲法にしたってそうです。
同じ行政の対応の弱さの問題は、最近露見した、複数の長寿各位の行方不明の問題でも同じ。安否さえ分からない、高齢の方々に対し年金を初め、様々な手当が支給され続けている現状は、国や自治体の財政危機が叫ばれている事を考えても由々しきものがある。何故こうした漏れが多発したのか、悪くすれば高齢各位の家族親族による年金の不正受給の疑惑にも繋がりかねないだけに、普段よりこの方々の安否を把握する調査が適正に行われていたのか、関係各位は我々国民に分かる様、きちんと検証をし、説明をして頂きたい。

前述の二つの事件に通底するのは、戦後の我国の、人々を繋ぐ「健全な地域社会」が崩壊した事によるとされます。その大きな一因は、先の大戦、大東亜戦争こと太平洋戦争の敗北に際し、進出して来た連合国進駐軍GHQの急進勢力が、経済力と共に、我国の根幹をなす、住民の絆たる地域社会の切り崩しを画策した為だと言われています。加えて我国の官僚勢力、特に外務省の弱腰の対応。これが戦後の我国のあり様を徐々に壊して行った印象を強く受けるのです。それは鉄道の駅における、ゴミ投棄などの無作法や痴漢などの迷惑行為、そして命を賭けて日々の業務に当たる鉄道役務の方々への暴力沙汰などにも表れています。

今、ようやくそうした地域社会の美点が見直されようとしたいる。
この見直しが継続して行われ、我国社会が経済と共に、ゆっくりでも良い、確実に立ち直って行く事を切望する次第であります。

次回より暫く、拙記事は私の知友各位に対する伝言の体裁を取らせて頂く予定。勿論普段の日記々事同様、多くの方々のコメントを下されば幸いであります。*(日本)*
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出発~駅の記憶

2010-08-02 01:09:00 | インポート
コナサン、ミンバンワ!2010=平成22年8月も、拙日記を宜しくお願い致します。
毎年8月、私は1カ月間のテーマをおおまかに決めて記事を進める「特集日記」を綴る事にしているんですが、今夏は、幼少時より今日までの折々に世話になった、鉄道の駅に関する想い出などを思うままに記せたら、などと思っている所。
その中より、今の社会にての色んな問題や政治のあり様、そしてこの時季必ず取り上げられる、戦争と平和の問題に触れる事ができればとも思います。
又、ほぼ毎回の事ですが、記事の内何回かは、私の知友各位に宛てた、伝言の文体を取らせて頂ければとも思う次第。この方々とは、なるべく事前に連絡の上、一応の理解を得る様にしようと考えております


まず、最初は私と鉄道駅との最初の出会いの記憶より。
生まれて初めての駅の記憶・・・それは確か、近畿日本鉄道名古屋線の蟹江駅だったと思います。確か1959=昭和34年秋、当地東海一帯に大害をもたらした、伊勢湾台風の襲来より暫く経った後だったと思います。
この台風で近畿日本鉄道も大きな損害を被り、名古屋線は長期休止を余議なくされました。ただ、この事は「怪我の功名」の側面もありました。
同線の復旧に際し、旧国鉄線と同じ線路幅より、新幹線でお馴染みの広めの線路幅だった大阪線に合わせて線路を改修、そのお陰で悲願だった名古屋~大阪間直通特急の誕生に繋がったのは有名な話であります。
この特急の誕生の詳細と、今日までの歩みについては又の機会に触れるとし、今回は割愛致しますが、災害より立ち直った直後の名古屋線に乗って、東三河の母方の祖父が、当時私達の住んでいた海部郡蟹江町(当時)を訪ねてくれた事があり、その帰りを見送ったのが鉄道の駅との最初の出会いではなかったかと記憶しています。
まだ空調もなかった頃の電車に乗り、窓から危険ではないかと思わせる程身を乗り出し、愛用の帽子を振って豊川市の自宅へ帰るべく、名古屋行きの上り列車で帰途につく祖父の笑顔に溢れた姿は、今も鮮やかに、幼かった我が記憶に残っています。*(新幹線)*
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