はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

自信をつける方法

2015年12月13日 | 今日の言の葉
 「私は今までに世界の百十カ国を歩いた。(中略)
 その結果の印象だが、私は日本、日本人に失望したことなど一度もない。昔ソ連華やかなりし頃は、北海道をソ連が「侵略する」危惧が全くないこともなかった。(中略)侵略の目当ては日本の人材だと思っていたものだ。何しろこれだけ有能で責任感のある労働力が数千万人いるのだ、資源としては石油も金もなくとも、侵略して労働力を確保する意味は充分にある…(後略)。
 しかし、現実の日本人はその能力を少しも出し切っていない原因は簡単だ。自信がないのである
 
 自信をつける方法も簡単だ。それは国民すべてが、主に「肉体的・心理的」に苛酷な体験をすることである。この体験に耐えたことがないから、自信がつかない。自信がないと評判を気にし、世間並みを求める平凡な人間になる。今の霞ヶ関の多くの役人が、前例ばかり気にする理由である。
 
(長い中略)

 危険を察知し、避ける知恵を持たさなければならない。停電したらどうするのだ。すべての民主主義は停電した瞬間から機能しなくなることを知っている日本人は少ない。
 私はすべての生活は苛酷だと思っている。そのあって当然の苛酷を正視し、苛酷に耐えるのが人生だと、一度認識すれば、すべてのことが楽になる。感謝も溢れる。人も助けようと思う。自分の人生を他人と比べなくなる。
 これらをやるだけでも、多分日本はかなり変わってくるのである。」

 (曽野綾子『旅は私の人生』pp183-185より)

 このくだりを読むと、戦後、稀有なまでの経済発展を遂げた日本が豊かになり、その結果、生存が脅かされることも殆どなくなった安全な日本で、日本人が失った大切なもののひとつが「自信」なのか、と考えさせられる。

 今の日本では、大半の日本人が否応なくがむしゃらに生きざるを得ない、まさに命を脅かされるほどの苛酷な体験をする機会などないに等しいのではないか。皮肉なことに、だからこそ多くの日本人は"生"の実感が乏しく、人生が虚しく、自らに自信も持てない~自分がこの世に生きる価値を見出せない~と感じているのかもしれない。

 しかし、それは、紛争や想像を絶するほどの貧困と言った日々生きることさえ困難な中にいる人々から見れば、本当に贅沢な、腹立たしいまでに贅沢な悩みなのかもしれない。

 だからと言って、著者は安穏と生きる日本人に、敢えて苛酷な中へ飛び込めとは言っていない。"長い中略"の中ではテレビのだらだら見をやめて家族間の会話を増やしたり、読書する習慣を身に付ける、家庭ではできるだけ家族で助け合って料理(=教育、芸術、社会学の一部)をすることを勧め、さらに贅沢する為に安易に売春などするな、電車で化粧したり、携帯ばかり見つめるなと戒めているだけである。

 世界の中では信じがたいほど豊かで安全な国で生きている私達日本人に、せめて日々の暮らしの中で自分を律して生きるよう、昔気質の女性ならではの意見を述べているだけだ。

 私自身は、日々何事につけ"努力"や"真剣み"や"覚悟"や"緊張感"が足りないと思う。自分にすごく甘い。もう何年も何かに必死に取り組んだことがない。だから、今一つ自分の能力に自信が持てないのだろう。だから、上掲のくだりが心に引っ掛かったのだと思う。

 読書は自分を見つめ直す、貴重な機会だ。
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