はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

『レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像展』を見て来ました! 

2007年04月07日 | 文化・芸術(展覧会&講演会)


 3月20日(火)から上野・東京国立博物館(以下、東博)で開催中の『レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像』展に春休み中の息子と行って来た。東博開催の展覧会は観客動員数では所謂ハズレが殆どなく、会期中休日・平日に関係なく混雑している。私が行った日も平日ながら観客の入りは多かった。春休みなのに子供の姿は思ったより少なく(この季節は博物館・美術館より公園やテーマパーク等の屋外施設だろうか)、多く目についたのはシニア層。今や世代別ではダントツに時間とお金に余裕のあるシニア層が、文化芸術に関心を持つのは自然なことなのかもしれない(これは別な言い方をすれば、子育て世代は時間にもお金にも余裕がなく、当然のことながらシニア層であってもお金に余裕のない人々は博物館・美術館に足を運ぶことなどないのである。もし入館者の財力で入館料を決めるなら、子どもを含むファミリーは入館無料にし、シニア料金は撤廃すべきである。こんな暴言?を吐く私が選挙に立候補しても絶対当選しないだろうな(^_^))

 今回の展覧会はウィフィツィ美術館収蔵の《受胎告知》(1472-73)が日本初公開と盛んに喧伝されているが、この《受胎告知》も以前のドラクロワの《民衆を導く自由の女神》が来た時と同様、本館に設えられた”特別5室”に単独に展示されている(このやり方は《モナ・リザ》来日以来の伝統か…あれから全然進歩していないとも言えるが、現代の鑑賞者はこれで満足するのだろうか?時代は流れているし、鑑賞者もそれなりに経験を積んでいるのに)。展示室入室前には飛行機搭乗前のようにセキュリティチェックを受けなければならない。その仰々しさに見る前から興ざめしてしまって…しかも入室したら入室したで、ジグザグの通路を通った奥に作品は展示されており、狭い通路に人々がひしめきあって、作品を見ているのか、人の頭を見ているのか。係員の「立ち止まらないでくださーい」というアナウンスもウルサイ(彼らも仕事なんだけどね)
 そんな状況だからウィフィツィ美術館で見た時のような感動はなかった。これはどう見ても「絵を鑑賞する」という態勢ではない。「見物する」と言う感じ。名画が”人寄せパンダ”的な扱いを受けているようで、今回の展覧会の宣伝方法には疑問を感じる。”展覧会の目玉”の割にはあっけなさ過ぎて、こんな形で名画を初っ端に見せられたら、来館者のテンションは間違いなく下がると思う。ただ今後、本来の収蔵先(ウフィツィ美術館)で見る機会があるであろう人々(特に若い世代、子供達)には、日本にある他の宗教画との”格の違い”のようなものを雰囲気として味わうだけでも意味があるのかもしれない。来日する名画との出会いでいつも感じることだが、名画とはやはり”本来在るべき場所”で見ないことには、その真価を理解することは難しい。

 今回の展覧会は、従来の展覧会がレオナルドの、他を寄せ付けないマルチな才能のほんの一部分しか見せて来なかったのに対して、彼の才能の全体像を見せることに力点を置いて、それを誇示している。(6部構成の内、第1、2部は東博独自のもの、残りの4部はウィフィツィ美術館で開催された展覧会を再構成したものらしい)。それこそ、彼の発想の源泉ともなった書物の一部や、建築学、工学、芸術、自然哲学と言った、多岐に渡る彼の研究の成果を幾つかのブースに分けて展示しているわけだが、それぞれが、じっくり鑑賞し、キャプションを読み込み、頭の中で咀嚼することを要求する内容なのに、いかんせん人が多過ぎるし館内も暗過ぎる。立ち止まって考える猶予を与えないのだ。その為結構フラストレーションを感じながらの鑑賞になってしまった。ちゃんと見た、理解した、という達成感・満足感がない。
 いつになったら適正な入館者数に落ち着くんだろう(これは無理なような気もする)。博物館としては、できるだけ多くの人に見て貰いたい。しかし来館者が多過ぎると展覧会の意図するところを理解して貰えない。痛し痒しと言ったところか。期間の限られた企画展だからこそ実現した展覧会なのかもしれないが、内容的には寧ろ常設展示が相応しいものだったような気がする(これも無理な願いだとは思う)

つづく… 
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