はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

『敬愛なるベートーヴェン』(原題:Copying Beethoven)

2006年12月21日 | 映画(2005-06年公開)


私は音楽に関しては楽譜もまともに読めないほどの門外漢ですが、
楽曲を聴くのは大好きです。邦楽、洋楽、クラシック、ポップス、
ジャズ、そして演歌とジャンルを問わず。
「素晴らしいものはジャンルを超えて素晴らしい」というスタンス。
だから我が家のCDラックには、バッハから石川さゆりまで
揃っています(笑)。

さて、本作はベートーヴェンの『第九』初演前後の物語を軸に、
彼の最晩年の姿を描いた作品。
私が読んだ作品解説によれば、
「ベートーヴェンには3人の写譜師
(作曲家の楽譜の下書きを清書する人)が実在し、
内二人の人物は判明していますが、
3人目がいまだ判明していない」のだとか。
そこで本作では、謎の第3の写譜師として架空の
アンナ・ホルツという女性を創り出したとのこと。
しかしドラマとしてあまりにも良く出来ているので、
そのアンナに実在感がありますね
(映画を見た後に解説を読んだので、映画を見ている間
アンナ・ホルツという現代では全く無名の女性作曲家の行く末が
気になって仕方がありませんでした)


「作曲家とは神の言葉の代弁者」
「芸術作品には魂が籠もっていなくてはならない」
と持論を滔々と語るベートーヴェンと、彼の話に聞き入るアンナ。
『第九』の初演シーンなど、(以下ネタバレにつき反転表示→
ベートーヴェンとアンナの二人が
恍惚の表情を浮かべてコンダクトしている辺り、
確実に二人の間に交情(魂の交歓?)が感じられ、

その描写、そして楽曲の素晴らしさに思わず涙してしまうほど。

アンナはオーストリアの地方に住む炭坑夫の娘で、
作曲家になることを夢見て叔母に当たる修道院長のもとに下宿し
ウィーンの音楽学校で学んでいる。
当時(19世紀初頭)は
女性が職業婦人として自立することの難しかった時代。
謎の第三の写譜師をあえて女性に設定したのは、
そうした苦難の時代に
女性がいかにしてその才能を開花させたのかを描こうとしたのか?
これは女性監督ならではの拘りであったのかなと思う。
すでに18世紀フランスの美術界ではそれなりの苦難はありつつも、
ルブランをはじめとする女流画家が数多く活躍していたのですが、
音楽の世界はより保守的であったのでしょうか?

女優ダイアン・クルーガーの持ち味である凜とした佇まいは、
エド・ハリス演じる粗野で横暴なベートヴェンに対峙する
アンナ役に相応しい。
時にはベートーヴェンと堂々と渡り合うアンナの姿に、
才能と知性豊かな女性の頼もしさが見えます。
そのアンナとのやりとりを楽しんでいるかにも見えるベートーヴェン。
フィクションのはずなのに、そう見えない。
これは綿密な調査に基づくベートーヴェンの人物造形と
きっちり時代考証をした上での物語の構築、
そして役者二人の熱演の賜と言えるでしょうか。

原題の"Copying Beethoven"というタイトルには、
”写譜をする”と”ベートーヴェンを真似る”の二つの意味が
込められているようです。
先頃終了した国立西洋美術館の『ベルギー王立美術館展』でも、
ルーベンスの大作を模写したドラクロワの作品がありましたが、
芸術には古今東西を問わず「先達の作品を模倣して技術を学ぶ」
という習わしがあります。
本作でも、ベートーヴェンの曲を模倣する(尊敬するあまり、
無意識のうちに似てしまう?)アンナがおり、それに対し、
「2人のベートーヴェンは要らない」とベートーヴェンが言って
いたのが印象的でした。
偉大な先達の模倣から始まり、遂には独自の芸術性へと到達する。
アンナは果たして”アンナ・ホルツの芸術性”を確立できるのか、
”物語”のその後が気になるところです。

他には…

撮影手法としてカメラの使い方が”動的”で面白いと思いました。
時に激しく迫ったり引いたり、ブレたり、360度回転したり…

音楽映画としても並々ならぬ意気込みがあったのか、
BGMのボリュームが凄かったですね。
映画館で見ると、その迫力が存分に味わえる作品と言えるでしょう。

『大フーガ』は初演時には当時としては斬新過ぎて
評判が散々だったようですが、
後年の作曲家には多大な影響を与えたのだとか。
天才は往々にして時代の先を行く…

『敬愛なるベートーヴェン』公式サイト

【追記】
評伝で伝えられる天才達はしばしば常軌を逸した人物像ですが、
一点に意識を集中するが故に、他の部分まで神経が行き届かない
ということなのでしょうか?(別な見方をすれば並外れた集中力が
優れた作品を生み出す原動力ということなのでしょう)
最近は天才に至らずとも優れた才能を、テレビを通して
お茶の間で見ることができるようになりました。
テレビという小さな枠は、天才に対して単に才能だけでなく、
常識人であることも求める傾向が強いような気がします。
これは天才には生き辛い世の中になったことを意味するのでは?
特に芸術や芸能の天才は、
本来凡人の物差しで測れるようなものではないはず…
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