私が日頃から切に思っていることを書き留めておきます。
自分を最も大切に思えるのは、誰あろう、自分ではないでしょうか。恋人でも夫でも我が子でも親友でもありません。自分が自分である為には、まず自分自身を尊重しなければなりません。自分という存在を認めてこそ他者の存在を意識し、自分と同様に他者が尊厳ある存在であると理解できる。これが人間が人間として生きて行く上での基本なのだと思います。だから自分で自分を大切に思い、自分で自分を愛して初めて、他者へも愛情を注げるものだと思います。自分を愛さない人の言葉など、誰も耳を傾けないでしょう。
ネットサーフィンをしていると、ブログの中には、いただいたコメントに対してブログ管理者が、「私のつまらないブログにコメントをくださり…」などと書いているのをたまに見かけます。多少の謙遜ならともかく、「私のつまらないブログ」と自らを殊更卑下することもないだろうに、と私などは思います。それとも謙遜のつもりで、そんなことを書いているのでしょうか?だとしたら、それは無用な誤解を招くのでは?人によっては、そんな言葉を目にしたら、「つまらないブログなんか書くなよ」と思うでしょう。
あまり自己否定に繋がるような言葉は使わない方が良いと思います。普段の生活の中でも。日常で使う言葉は繰り返し使われるうちに、意識に深く刻みこまれて行くでしょうから。それが自己評価を左右し、いつしか自らの行動を規定するようになる。例えば、何か新しいことにチャレンジしようとした時、自己肯定感(=自信)が乏しいと、「どうせ私なんかにできるはずがない」と、自ら行動にブレーキをかけることにもなりかねない。
人間が生きて行く上で、自己肯定感って大切ですよね。「なりたい自分」「在りたい自分」という理想を掲げるのは確かに大事だけれど、その理想と現実の自分との乖離が大きい場合、どうしても自己否定に陥りがち。人間は基本的に「幸せになる為に生まれて来た」と私は信じている(or 思いたい?)ので、幸せになる為の手段に過ぎない「理想」に振り回されて、肝心の自分を蔑ろにするのは本末転倒だと考えます。
理想を掲げるなら、いきなり遠大な理想を目指すのではなく、小目標を掲げて段階的にステージアップできるようにしたらいい。小刻みに達成感を味わえるようにしたらいい。まさに「千里の道も一歩から」。長い散歩に出ると、そのことが容易に実感できます。10キロ、15キロ先の目標地点は、スタート地点から見たら途方もなく遠く思えるけれど、一歩一歩着実に歩みを進めて行き、途中の立ち寄り場所で適度に気分転換を図るなどすれば、それほど苦もなく目標地点に到達できるものです。逆に、目標を掲げず、一歩も踏み出さなければ、自分は現地点に立ち止まったまま。一歩踏み出すか、現状に留まるかも、自分次第です。現状が自らの理想に到達している、或いはそれに近いのであれば、そこに踏みとどまるという選択だってあるでしょう。
「理想」だって、人それぞれです。究極の理想とか、誰もが認める崇高な理想なんて、果たしてあるのでしょうか?誰もが異なった両親のもとに生まれ、異なった環境の下で育つ。生まれながらに持っているもの~才能、能力、容姿、財産等~も違います。スタート地点が違うのです。見定める方向も違うでしょう。それぞれが自らの理想に向かって、それぞれのペースで突きすすむ、或いは一歩一歩着実に歩んで行く。
自分の人生は自分のものなんですよね。その前提としての自己肯定、自尊心。自己肯定、自尊心(もちろん、これは「自分さえ良ければ、他人はどうでもいい」と言う自己中心的な考えとは一線を画すものです)なくして、充実した人生への一歩はあり得ないと思うので、この世に生を受けたすべての人々が、自分をかけがえのない大切な存在であると信じて生きて欲しいと願います。せめてそういう人がひとりでも多くなれば、自分や他者の尊厳を貶めるような行為は、少なくなると思うのです。
私はもちろん、自分が大好きです。欠点も多い人間ですが、その欠点も含めて自分が大好きです。それが私自身と言う人間だから。そういう思いなしには、これまでの人生での辛い出来事は乗り越えられなかっただろうし、同時に今の幸せは得られなかったと思います。
先日、「リミット」というNHKのドラマで、それまでの人生で自分を蔑ろにした人間に対して、残忍な手口で復讐し続ける男が登場しました。幼い頃に父親からは虐待を受け、母親には捨てられ、愛した(愛されたことのない人間が人を愛することは難しかったでしょう。もしかしたら、女性へ愛情を注ぐというより、「自分を愛して」と言う欲求の方が強かったのでは?)女性にはふられた。男は憎しみの塊のような人間でした。人は自己肯定の前提として、人格形成期に他者からの愛情が必要と言うことなのでしょうか?だとしたら、子どもの身近にいる大人の役割は重要ですね。どんな子どもにも「愛されている」という実感が必要です。ひとりでも良いから、子どもに愛情を注げる大人の存在が必要です。たったひとりであっても、ひとりの子どもを救えるかもしれないのです。
自分を最も大切に思えるのは、誰あろう、自分ではないでしょうか。恋人でも夫でも我が子でも親友でもありません。自分が自分である為には、まず自分自身を尊重しなければなりません。自分という存在を認めてこそ他者の存在を意識し、自分と同様に他者が尊厳ある存在であると理解できる。これが人間が人間として生きて行く上での基本なのだと思います。だから自分で自分を大切に思い、自分で自分を愛して初めて、他者へも愛情を注げるものだと思います。自分を愛さない人の言葉など、誰も耳を傾けないでしょう。
ネットサーフィンをしていると、ブログの中には、いただいたコメントに対してブログ管理者が、「私のつまらないブログにコメントをくださり…」などと書いているのをたまに見かけます。多少の謙遜ならともかく、「私のつまらないブログ」と自らを殊更卑下することもないだろうに、と私などは思います。それとも謙遜のつもりで、そんなことを書いているのでしょうか?だとしたら、それは無用な誤解を招くのでは?人によっては、そんな言葉を目にしたら、「つまらないブログなんか書くなよ」と思うでしょう。
あまり自己否定に繋がるような言葉は使わない方が良いと思います。普段の生活の中でも。日常で使う言葉は繰り返し使われるうちに、意識に深く刻みこまれて行くでしょうから。それが自己評価を左右し、いつしか自らの行動を規定するようになる。例えば、何か新しいことにチャレンジしようとした時、自己肯定感(=自信)が乏しいと、「どうせ私なんかにできるはずがない」と、自ら行動にブレーキをかけることにもなりかねない。
人間が生きて行く上で、自己肯定感って大切ですよね。「なりたい自分」「在りたい自分」という理想を掲げるのは確かに大事だけれど、その理想と現実の自分との乖離が大きい場合、どうしても自己否定に陥りがち。人間は基本的に「幸せになる為に生まれて来た」と私は信じている(or 思いたい?)ので、幸せになる為の手段に過ぎない「理想」に振り回されて、肝心の自分を蔑ろにするのは本末転倒だと考えます。
理想を掲げるなら、いきなり遠大な理想を目指すのではなく、小目標を掲げて段階的にステージアップできるようにしたらいい。小刻みに達成感を味わえるようにしたらいい。まさに「千里の道も一歩から」。長い散歩に出ると、そのことが容易に実感できます。10キロ、15キロ先の目標地点は、スタート地点から見たら途方もなく遠く思えるけれど、一歩一歩着実に歩みを進めて行き、途中の立ち寄り場所で適度に気分転換を図るなどすれば、それほど苦もなく目標地点に到達できるものです。逆に、目標を掲げず、一歩も踏み出さなければ、自分は現地点に立ち止まったまま。一歩踏み出すか、現状に留まるかも、自分次第です。現状が自らの理想に到達している、或いはそれに近いのであれば、そこに踏みとどまるという選択だってあるでしょう。
「理想」だって、人それぞれです。究極の理想とか、誰もが認める崇高な理想なんて、果たしてあるのでしょうか?誰もが異なった両親のもとに生まれ、異なった環境の下で育つ。生まれながらに持っているもの~才能、能力、容姿、財産等~も違います。スタート地点が違うのです。見定める方向も違うでしょう。それぞれが自らの理想に向かって、それぞれのペースで突きすすむ、或いは一歩一歩着実に歩んで行く。
自分の人生は自分のものなんですよね。その前提としての自己肯定、自尊心。自己肯定、自尊心(もちろん、これは「自分さえ良ければ、他人はどうでもいい」と言う自己中心的な考えとは一線を画すものです)なくして、充実した人生への一歩はあり得ないと思うので、この世に生を受けたすべての人々が、自分をかけがえのない大切な存在であると信じて生きて欲しいと願います。せめてそういう人がひとりでも多くなれば、自分や他者の尊厳を貶めるような行為は、少なくなると思うのです。
私はもちろん、自分が大好きです。欠点も多い人間ですが、その欠点も含めて自分が大好きです。それが私自身と言う人間だから。そういう思いなしには、これまでの人生での辛い出来事は乗り越えられなかっただろうし、同時に今の幸せは得られなかったと思います。
先日、「リミット」というNHKのドラマで、それまでの人生で自分を蔑ろにした人間に対して、残忍な手口で復讐し続ける男が登場しました。幼い頃に父親からは虐待を受け、母親には捨てられ、愛した(愛されたことのない人間が人を愛することは難しかったでしょう。もしかしたら、女性へ愛情を注ぐというより、「自分を愛して」と言う欲求の方が強かったのでは?)女性にはふられた。男は憎しみの塊のような人間でした。人は自己肯定の前提として、人格形成期に他者からの愛情が必要と言うことなのでしょうか?だとしたら、子どもの身近にいる大人の役割は重要ですね。どんな子どもにも「愛されている」という実感が必要です。ひとりでも良いから、子どもに愛情を注げる大人の存在が必要です。たったひとりであっても、ひとりの子どもを救えるかもしれないのです。