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吉本隆明  1924-2012 その2 宗祇と蕪村をめぐって

2012-04-08 16:19:52 | Weblog

「宗祇が意図したのは……短歌形式である五七五七七の区切りの破壊であった。上句と下句をそれぞれ意識的に独立した詩形として自立させ、しかも、両句が合して複雑な付合いの心理上の効果を出すところに、連歌形式の特色を定めたのである。……発生史的にみて宗祇が意企したのは短歌的な区切りの破壊であった」(吉本隆明『宗祇論』)

引用した吉本隆明の「短歌的な区切り」という言葉の意味がよくわからない。短歌を構成する五・七・五・七・七の5つの区切りのことをいっているのだろうか。それとも、上の句五七七と、下の句七七の2つの区切りのことをいっているのだろうか。

『新古今和歌集』517の後鳥羽院の次の歌を例にとってみよう。

  秋深けぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむしよもぎふの月

この歌は注釈によると

  秋深けぬ/鳴けや霜夜のきりぎりす/やや影さむし/よもぎふの月

と4つに区切ることができる。


『新古今集』におさめられた短歌は初句で切れるもの、句のあちこちで切れるもの、それと、

  心なき身にもあはれはしられけり/鴫立つ沢の秋の夕暮 (西行)

のような、新古今調の特徴である五七五の上句と七七の下句のあいだで切れるものがある。つまり五七五七七のいろんなところで切れているわけだ。いまさら区切りを「破壊」しようがないではないか。

『新古今和歌集』に登場する後鳥羽院、藤原定家、藤原家隆らは連歌の名手でもあり、しばしば後鳥羽院を囲んで連歌の会を催していた。

有名な定家の歌

  春の夜の夢の浮橋とだえして/峰にわかるる横雲の空

は、上句と下句の間の連続性が希薄である。こういう新古今の手法を応用して、上句と下句を別の人が詠んで遊ぶことで連歌がさかんになった。

「上句と下句をそれぞれ意識的に独立した詩形として自立させ、しかも、両句が合して複雑な付合いの心理上の効果を出すところに、連歌形式の特色を定めた」のが宗祇であった、と吉本は書いたが、それは正確ではない。

宗祇自身が著書『吾妻問答(角田川)』で連歌の発展段階を三段階に分類している。連歌の式目を集大成した二条良基や救済のころまでが上古、周阿から梵灯庵ぐらいまでが中古、宗砌以降を当世とした。

「歌の続句などのやうに言ひかけて」と宗祇が『吾妻問答』で書いたように、上古の連歌は長句五七五と短句七七との付きかたが近すぎて歌における上句と下句のような感じの連句が主流だった。

たとえば

   友なしとても旅の夕ぐれ        救済
  けふより後の花はたのまず       良基
   霞めども梢に風は猶吹きて       親長

中古は付け句それ自身の興趣が重視されすぎ、前句への付き方が不確かな傾向がつよくなった。「一句をたしなむ心ばかりにて」(『吾妻問答』)、前句につけることをなおざりにした句がめだつようになった、と宗祇は書き残している。

たとえば、

  めぐる車は世のなかにあり
 落椎の深山がくれの小笹原     周阿

当世の連歌師である宗砌は、中古の連歌の傾向を批判し、上古の連歌の良いところを取り入れ、付け句がそれぞれ独立性をもちながら、しかも前句と適切につくような連歌を大事にした。そうした当世の連歌のスタイルを大成したのが宗砌の弟子である宗祇だった。

「発生史的にみて宗祇が意企したのは短歌的な区切りの破壊であった」という吉本の記述は意味不明である。もし、上の句と下の句の意味上の分断を意味するのであれば、それは中古の連歌師がやったことで、宗砌・宗祇らはそれを逆の上古のあり方の方向に引き戻したのだ。

さらに吉本は宗祇の連歌理論「連歌正風」を引用するにあたって、本当の出典が『老いのすさみ』とあるべきところを『吾妻問答』と取り違えている。

連歌に関する入門書をきちんと読まないで、吉本は『宗祇論』を書いたのではないかと疑われる。


              *

また、吉本は『蕪村詩のイデオロギイ』で

  地車のとどろとひびく牡丹かな

を引合いに出して、地車のとどろきを農民暴動とむすびつけ、句の背景には、地獄絵のような現実社会がよこたわっているとして、「蕪村は、この現実的な危機を上昇的に受感することによって風刺的な風俗詩の創始者である柄井川柳と対極的な位置にたったのである」と断定した。

この手を使えば、古今伝授のために、三島に戦陣を張っていた東常縁のもとを宗祇が訪れたさい、東常縁の息子・竹一丸の病気平癒を願って三島大社に奉納した宗祇の独吟『三島千句』第Ⅰ百韻の発句、

  なべて世の風をおさめよ神の春

をもって、宗祇を「戦乱の世の反戦平和詩人だった」と断定することも可能だ。

『蕪村詩のイデオロギイ』はエッセイの最後で「明治革命はせめて蕪村―一茶を流れるイデオロギイ線上で主動されるべきであった」のだが、明治の革命家だった浪人、下級武士インテリゲンツァは長歌や和歌(ママ、長歌に対応するのは短歌であろう。長歌は和歌に含まれる)の方法で、三文の値打もない復古的な政治イデオロギイ詩を残した、と嘆いて見せた。

蕪村のイデオロギイとは、一茶のイデオロギイとは、何であったのか。明治革命の下級武士のイデオロギイ詩とは何であったのか。読者としては知りたいところだが、吉本のエッセイはその点を実証的に説明しないまま通り過ぎた。

確かに一茶には

  ずぶ濡れの大名を見る炬燵かな

という反権力を思わせる句もある。だが、一方で、

  松陰に寝て食ふ六十余州かな

という徳川(松平)治世の天下泰平を讃えている句も手がけているので、この人のイデオロギーとは何であったのか、実はよくわからないのである。 

(2012.4.8 花崎泰雄)
 

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