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反古

2022-08-22 00:50:18 | 国際

承前。沖縄返還交渉にあたって当時の首相・佐藤栄作の密使の役を演じたのは、京都産業大学教授・若泉敬だった。

密使役をおえた若泉は郷里の福井県に居を移し、やがて大学も退職した。1994年になって、密使の役割と沖縄核密約について『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文芸春秋)で公にした。そのような密約文書はない、と政府は言った。沖縄の世論は政府の背信行為であると怒った。

佐藤・ニクソンの沖縄核密約問題は、しばらくジャーナリズムの話題になり、1995年にはNHKが若泉に焦点を当てた「沖縄返還・日米の密約」を放映した。密約があったと考える人と、密約はなかったという政府の言を信用する人、この2派に国民は別れた。だが関心は長続きせず、やがて沖縄核密約問題は世間のトピックとしては色あせた。翌1996年に若泉は死んだ。

若泉死去から3年後の2009年になって、故人となっていた佐藤栄作の机の引き出しから見つかったとして、佐藤の家族が秘密文書をメディアに公開した。ここでまた沖縄密約問題が世の中の話題になった。その年に政権が自民党から民主党に移った。

民主党政権の外相に就任した岡田克也が外務省に密約関連の資料探しを命じた。また、外部の有識者で有識者委員会を組織し、調査を依頼した。外務省事務当局の資料探索では、機密文書「合意議事録」は発見できなかったが、佐藤栄作が自宅に持ち帰ったいわゆる密約文書は、若泉の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』にある文書とほぼ同一であることが確認された。

有識者委員会は討議の結果、密約文書は「共同声明の内容を大きく超える負担を約束するものではなく、必ずしも密約といえない」「密約が無くとも別途の方法で沖縄返還実現は合意されたのではないかと思われる」と結論した。

日本の政府は佐藤栄作が残した密約文書の政治的インパクトを弱めようとした。沖縄返還交渉の実務で若泉の相手役をつとめたモートン・ハルペリンが2014年に来日して、共産党が発行する『しんぶん赤旗』のインタビューに応じた。密約は存在し、現在も有効である、とハルペリンが明言したと同紙が伝えた。

「私は、日本国の最高責任者である内閣総理大臣から、『核抜き返還』について米国政府とその最高レベルで公的に交渉するすべての権限を直接に付与されたのである」と若泉は佐藤栄作から密使役を依頼された時の高揚感を『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』に書いている。後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って――若泉敬の生涯』(岩波書店)は、若泉は晩年、国家機密を暴露したことの罪悪感、核持ち込み容認という沖縄への自責の念、末期のがんという苦しみに取り巻かれていたと説明する。同書は訪問客が若泉が何かを飲み込んだような気配を感じ、そのあと若泉が倒れ、医師を呼んだが死亡した、と書いている。

密使・若泉が奔走してまとめ上げた密約は「密約」ではなく、密約が無くても他の方法で沖縄返還交渉は合意できた、という有識者委員会の結論を信じるとすれば、若泉の行動は滑稽に見える。一方、若泉の実務的交渉相手だったハルペリンの言葉を信じるとすれば、日本政府は国民に対して嘘をついていることになる。

佐藤栄作の机の引き出しから出てきた密約文書はいまどこに保管されているのだろうか。そこが日本という国の不気味なところである。

(2022.8.22 花崎泰雄)

 

 

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