こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

オドオドドキドキ…

2015年08月04日 20時45分46秒 | 文芸
子どもの頃から人前に出ると最悪な性格。
 赤面する。固まってしまう。足が震える。声が出せても、引っ繰り返っている。胸がドキドキしっぱなしで、いつも落ち着けない。
(自分は人とは違う。駄目な性格なんだ)
 といつしか諦めてしまった自分がいた。
 社会人になっても、やはりオドオドドキドキの毎日。
(こんな事じゃいけない……!)
 と悩み始めた頃、偶然手に入ったチケットで観たのが、地元のアマチュア劇団の公演。演じたのが、素人の一般人。その舞台に感動したわたしの頭に閃いた。
(これだ!人が書いたセリフなら喋れるかも。ぼくにも人前で出来るかも知れない。やってみよう!)
 躊躇なくそのアマ劇団に参加を申し込んでいた。
 以来45年。アマ劇団の活動に関わり続けた。もちろん舞台にも上がり続けた。いつのまにかメインキャストになっていた。セリフも堂々と、たくさんの観客が見守る前で、立て板に水状態になった。
 いつしか日常生活における会話が苦痛でなくなった。苦手意識の克服はまだまだだが、もうオドオドドキドキが消えた。
 覚えるより慣れろ。落ち着ける日々をようやく手に入れたのである。まさに芝居サマサマだった。
(2014・1・4原稿)
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大丈夫かい?

2015年08月04日 14時53分25秒 | 文芸
 90代の父と出かける時は車いすが必要だ。少しは歩けるが、長年使い過ぎた足腰は、すぐ限界を迎える。そうなれば車いすの出番だ。
ブリキ職人だった父は、手先が器用で最近は折り紙を日々楽しんでいる。その画材道具はプロユース対応のホームセンターMで調達する。少し遠出になるが、父のお気に入りのお店だ。2か月に1回、父のお供をさせられる。
 店の入り口にはショッピングカートとともに車椅子が常備。店内の通路も広い。エレベーターは大型だ。段差も少ない方だろう。父が愛用する理由は、店内あちこちに見られる。
「お前らに厄介かけるんが少のうて済む店や。商品もようけあるし、車いすで楽に見て回れるんがええわい」
 年の割にまだ頭がはっきりしている父は、介添えする息子の負担を気に掛けているのだ。
 父の要求をほぼ満たしてくれる店だから、父は、このお店が大のお気に入りなのである。
 この間、高齢者の仲間入りしたわたし。どうもこのお店と長いお付き合いをするのはわたしなのかもしれない。そんな予感がする。
(2014・1・26原稿)

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まっさらな記憶

2015年08月04日 13時21分25秒 | 文芸
 子どもの頃、法事がある度に、母や親戚の女性達が揃って白い割烹着を着けて、キビキビと働く光景を目の当たりにして来た。
 鮮やかな白さが眩しく記憶に刻まれている。いつも真っ新に見え、女性達を一段と美しく晴れやかに印象付けていた。感動を覚えた
 普段の家事でも野良仕事でも、母は割烹着姿だった。それがマサラだった記憶はほとんどない。
 法事ごとの炊事接待に携わることは、当時の田舎の女性達には、よほど特別な事だったに違いない。
 ところで、調理の仕事に進んだわたしのユニフォームは白衣だった。最初のころ白衣に着がえるたびに、あの法事に見た、日常と様変わりして見せた女性たちの白い割烹着姿を想い出した。
「調理人は医者と同格の仕事に携わっている。人の命を左右しかねない重大な選ばれた仕事だと自覚を持って、白衣を着るんです」
 調理師学校で教わった言葉に、今さらながら合点がいく。
 白衣は少しの汚れでも目立つ。必ず洗濯をして清潔さを保つ。それは自分の仕事の神聖な使命を常に自覚する手段だった。
 あの記憶に刻まれた真っ白な、まっさらな割烹着の眩しさも、そうだったのだろう。
(2014・3・3原稿)

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アクセク…!

2015年08月04日 08時58分49秒 | 文芸
子どもが4人もいると、父親に小遣いは回って来ない。毎日の仕事の際に飲む缶コーヒー代がやっとだ。それでも、子どものためだと思えば国もならなかった。
「クラスメートで旧交を暖めないか?」
 そんな時に高校時代仲良くしていた親友3人組で、ちょっとした一泊旅行をしないかという誘いがあった。35年ぶりだから懐かしさもあって、とても断れない。結局、旅行の予定が決まった。
 しかし、約束はしたものの、お先真っ暗状態。お金の目途がつかない。
「友だちと旅行したいから」
 と、妻にお金をせびる勇気もない。
 そこで思いついたのが新聞・雑誌の投稿だ。4人目の子どもを授かるまでは、投稿の常連だった。
 旅行予定日までほぼ3ヶ月。本腰を入れれば、3万円は軽くゲットできるぞと皮算用した。
 その一方で、投稿便りに一抹の不安が。投稿が採用されると決まったわけじゃない。イチかバチかの賭け同然なのだ。
 そこで日々の節約も始めた。家でインスタントコーヒーをいれて職場へ持参。缶コーヒー代を浮かせた。
 成果は投稿文の採用と缶コーヒー節約分合わせて3万6千円ナリ。やったー!と内心の喜びを隠して、妻に旅行に行く事を告げると、なんと5万円くれた。
「缶コーヒーに飽きたって、下手なウソつかないでよ、おとうさん」
 妻の声が、慈悲深い女神さまのものに思えた。
(2014・3・11原稿)
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ナンボのもんや

2015年08月04日 02時12分43秒 | 文芸
最近、テレビやネットで土下座が脚光(?)を浴びている。
 それに近いことは何度か経験している。
 人生64年。書店員に始まりレストラン、喫茶店、弁当屋、食品スーパー…と、人を相手にする仕事のハシゴだから、あって当然なのかも知れない。
 最後には、ある意味で慣れっこになって、余裕を持った謝罪テクニックを身に着けていた。
 初体験はまさに地獄に放り込まれた心境に陥った。本屋の店員1年目だった。
 店番をしていて万引き行為を発見した。店では要注意人物とみていた中年の女性。棚の文庫本をスーッと買い物バッグに忍ばせたのを目撃した。
 ただ、焦ったせいで女性に声をかけるタイミングが早すぎた。
「お客を泥棒扱いするんか!この店は」
 逆ねじを食らうはめに。逆上する女性客を前に、なすすべもなくオロオロする始末。
 そこへすっ飛んで来た年嵩の店長が、もう平謝り。驚いた。相手は万引きの常習犯(?)なのだ。それを……?
 棒立ちになったままのところを、店長に促されて、やっと頭を下げた。店長に倣ってひたすらペコペコ!情けないったらありゃしない。眼が潤んだ。
「客商売は謝ってナンボやからな。何回も失敗して謝り慣れるしかあらへんねん」
 淡々と語る店長の顔に、販売員としてのキャリアを積んで来た自信と誇りが感じられた。
(2013年原稿)
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くそっ!

2015年08月04日 01時22分48秒 | 文芸
鏡を手放せなかった。20代半ば、恋する男を演じていた時である。
 と言っても、自分の顔を映して悦に入ったり、髪型に一喜一憂していたわけではない。コンタクトレンズの装用に欠かせない道具だったのだ。
「メガネをかけた男の人って、好きになれないの、ゴメン」
 失恋相手に面と向かって言われたのがきっかけだった。コンタクトに青春の夢を賭ける気になったのだ。
 当時の主流だったハードレンズの取り扱いは結構難しかった。装用の練習に1週間も眼科に通った。
 鏡で確認しながら、レンズをはめたり外したり。鏡をじーっと見つめて、指の先で小さいレンズを装着する。慎重なプロセスを繰り返した。
「あなたはナルシスト?そこらにいる女の子顔負けね」
 いくら皮肉られても、鏡なしでコンタクトの取り外しは危険だった。特に不器用な私には、必須アイテムだった。
 いつもポケットに手鏡を忍ばせた。その苦労の甲斐あって、ついに結婚相手を獲得した。
 結婚後、すぐコンタクトは止めた。それでも鏡は携帯必需品として残った。
 今でもポケットからおもむろに取り出した鏡を覗いて、ニヤリとしてしまうことがある。
(2014年原稿)

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アカンよ

2015年08月04日 00時08分29秒 | 文芸
子どもの頃、母は何かにつけて、小魚や干物を食べさせた。そして口癖のように言った。
「みんな、骨になるんやからね。食べられ編とこはひとっつもないんやさかいに。残したら骨なしになるんやで」
 当時は牛乳などめったに口に入らない時代だった。骨の元になるカルシュームは、どうしても小魚類に頼るしかなかった。
 味噌汁も煮干しでダシを取った。汁椀の底には、いつも煮干しの残骸(?)が。
「それ、いっちゃん(一番)骨になってくれよるやんから、残したらアカンよ!」
 母に睨まれて、いやいや食べるしかなかった。
 おかげで煮干しや小魚は、いまだに嫌いな食べ物の筆頭だ。チリメンジャコも余程のことが無いと、食べなくなった。
 それなのに、イカナゴの季節になると、母手作りのくぎ煮が山盛り送られてくる。ほとんどは友人や知人に配り回る。みんな喜んでくれるのが不思議で堪らなかった。わたし自身が嫌いなだけなのに…。
 配り切れずに残ったくぎ煮は越年する。年を越したところで、結局食わずに終わってしまうのだが、やはり勿体ないし、母の思いをちょっぴり考える。
 あれやこれやとあっても、母の小魚信奉は、骨太で病気知らずの体を私に与えてくれたのは、確かだ。
 でも、嫌いなものは、やっぱり嫌いだー!
(2013年原稿より)
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