最近とんと喋らなくなった。日常の暮らしに支障はないが、時々無性に大声を出したくなる。それで風呂につかりながら、思い切り声を出す。記憶している文章を大きな声で朗読すると、不思議にすっきりする。
「また大声出してからに。バカみたい」
風呂上がりを待ち構える妻の皮肉は毎度だ。
「そないいうけど、そら気分ようなるんや」
「熱い風呂ん中で大声出してたら、血圧上がって、えらいことになりよるで」
「そんなんべっちょないわ」
言い返すが、実は湯にのぼせてクラーっと来た経験がある。風呂場で倒れる危険性は無きにしも非ずだ。それでも大声を出すのはやめられない。
こう見えても、若いころアマチュア演劇をやっていた。誰もが(え?うそ!)という。口下手で人見知りするわたしを知っていれば当然のことだ。実はその性格を何とかしたいと思ったのが、あの日だった。
当時、加古川駅前にあるG書店に勤めていた。私の性格でお客さんを相手にするのは困難を極めた。ストレスをため込む日々だった。
「このポスター、店頭に貼らせて貰えませんか?」
店番をしていると、声がかかった。若い女性だった。どぎまぎしながら応対すると、
「来月、公会堂でお芝居するんです」
「へー、お芝居なんですか。いいですよ」
二色刷りのポスターだった。改めて相手を見直すと、ごく普通の女性に見えた。
(この人がお芝居をしているんか……?)
信じられなかった。お芝居は特別な人たちがするものだととの思い込みがあった。
「もしよかったら観に来られませんか?」
「え?僕、お芝居って観たことあらへんし。『アンネの日記』って、難しいんやろ」
「そんなことありません。楽しいですよ」
結局チケットを買ってしまった。日曜日の夜なら仕事は休みだ。それに何かをするアテもない。友達も恋人もいなかった。
映画館すらひとりで行けない田舎者のわたしが、公会堂を探し当てて足を運べたのは奇跡に近かった。
「あ、あの、これチケットで……は、入っても、大丈夫やろか」
情けないが受付でさえ気後れしてしまう。
舞台はわたしを魅了した。まるで夢の世界だった。赤毛や金髪の人物が自由奔放に右往左往し、泣き笑い怒り悲しむ。そして照明は鮮やかにそんな世界を浮き上がらす。一時間ちょっとのお芝居が、やけに短く感じられた。終わらないでくれと念じたが、実らなかった。
ロビーに出ると、また驚いた。金髪や赤毛の人たちが、観客と抱き合ったり笑いさざめいている。
「よかったやん。全然違うわ、仕事やってる時より素敵やで」
「それが芝居やん。そやさかい一度舞台を踏んだらやめられへんのや」
飛び交う会話は、方言が混じるごく普通のものだった。
「普段はおとなしいのに、なんであないに喋られるん?」
「見直したやろ。あれがわいの正体やがな」
不思議にその会話は、はっきりと耳に入った。ぞくぞくするものを感じた。
アパートに帰り着くと、改めてパンフレットを開いた。お粗末な作りだったが、私には輝いて見えた。あらすじを読むと舞台に展開された場面が鮮やかによみがえる。体が興奮を覚えて小刻みに震えた。
パンフレットの最後に目が留まった。
「お芝居を一緒に作りませんか。仲間を待っています。連絡は……」
これだと思った。(お芝居はおとなしい人間にもできるんや)舞台の上でセリフを口にする自分の姿を想像した。もう衝動は止まらない。はがきで入団を申し込んだ。
「きみがSくんか。よく来てくれたね。歓迎するよ」
迎えてくれたのは地味な雰囲気の男性だった。アマチュア劇団の代表者Oさんだった。後日に小学校の先生だと知った。
劇団のけいこ場は、見つけるのにひと苦労だった。閑静な住宅地の外れに位置する集会場の中にあった。あちこち聞きまわって、なんとかたどり着いた。あんなに懸命になったのは、初めての経験だった。
けいこ場だという集会室はガラーンとしていた。
「あの……ほかのみなさんは?」
「みんな仕事で忙しいからね。次の公演が決まらないと、なかなか集まらないんだよ」
Оさんは別にそれでいいという風だった。穏やかに笑顔を絶やさないOさんに、身構えていたものがスーッと消え去った。
「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」
「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」
それが最初の発声練習だった。
「また大声出してからに。バカみたい」
風呂上がりを待ち構える妻の皮肉は毎度だ。
「そないいうけど、そら気分ようなるんや」
「熱い風呂ん中で大声出してたら、血圧上がって、えらいことになりよるで」
「そんなんべっちょないわ」
言い返すが、実は湯にのぼせてクラーっと来た経験がある。風呂場で倒れる危険性は無きにしも非ずだ。それでも大声を出すのはやめられない。
こう見えても、若いころアマチュア演劇をやっていた。誰もが(え?うそ!)という。口下手で人見知りするわたしを知っていれば当然のことだ。実はその性格を何とかしたいと思ったのが、あの日だった。
当時、加古川駅前にあるG書店に勤めていた。私の性格でお客さんを相手にするのは困難を極めた。ストレスをため込む日々だった。
「このポスター、店頭に貼らせて貰えませんか?」
店番をしていると、声がかかった。若い女性だった。どぎまぎしながら応対すると、
「来月、公会堂でお芝居するんです」
「へー、お芝居なんですか。いいですよ」
二色刷りのポスターだった。改めて相手を見直すと、ごく普通の女性に見えた。
(この人がお芝居をしているんか……?)
信じられなかった。お芝居は特別な人たちがするものだととの思い込みがあった。
「もしよかったら観に来られませんか?」
「え?僕、お芝居って観たことあらへんし。『アンネの日記』って、難しいんやろ」
「そんなことありません。楽しいですよ」
結局チケットを買ってしまった。日曜日の夜なら仕事は休みだ。それに何かをするアテもない。友達も恋人もいなかった。
映画館すらひとりで行けない田舎者のわたしが、公会堂を探し当てて足を運べたのは奇跡に近かった。
「あ、あの、これチケットで……は、入っても、大丈夫やろか」
情けないが受付でさえ気後れしてしまう。
舞台はわたしを魅了した。まるで夢の世界だった。赤毛や金髪の人物が自由奔放に右往左往し、泣き笑い怒り悲しむ。そして照明は鮮やかにそんな世界を浮き上がらす。一時間ちょっとのお芝居が、やけに短く感じられた。終わらないでくれと念じたが、実らなかった。
ロビーに出ると、また驚いた。金髪や赤毛の人たちが、観客と抱き合ったり笑いさざめいている。
「よかったやん。全然違うわ、仕事やってる時より素敵やで」
「それが芝居やん。そやさかい一度舞台を踏んだらやめられへんのや」
飛び交う会話は、方言が混じるごく普通のものだった。
「普段はおとなしいのに、なんであないに喋られるん?」
「見直したやろ。あれがわいの正体やがな」
不思議にその会話は、はっきりと耳に入った。ぞくぞくするものを感じた。
アパートに帰り着くと、改めてパンフレットを開いた。お粗末な作りだったが、私には輝いて見えた。あらすじを読むと舞台に展開された場面が鮮やかによみがえる。体が興奮を覚えて小刻みに震えた。
パンフレットの最後に目が留まった。
「お芝居を一緒に作りませんか。仲間を待っています。連絡は……」
これだと思った。(お芝居はおとなしい人間にもできるんや)舞台の上でセリフを口にする自分の姿を想像した。もう衝動は止まらない。はがきで入団を申し込んだ。
「きみがSくんか。よく来てくれたね。歓迎するよ」
迎えてくれたのは地味な雰囲気の男性だった。アマチュア劇団の代表者Oさんだった。後日に小学校の先生だと知った。
劇団のけいこ場は、見つけるのにひと苦労だった。閑静な住宅地の外れに位置する集会場の中にあった。あちこち聞きまわって、なんとかたどり着いた。あんなに懸命になったのは、初めての経験だった。
けいこ場だという集会室はガラーンとしていた。
「あの……ほかのみなさんは?」
「みんな仕事で忙しいからね。次の公演が決まらないと、なかなか集まらないんだよ」
Оさんは別にそれでいいという風だった。穏やかに笑顔を絶やさないOさんに、身構えていたものがスーッと消え去った。
「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」
「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」
それが最初の発声練習だった。